〔週俳4月の俳句を読む〕
馬場龍吉
シュールレアリストが行く
青空でありながら近景は夜間であるような、シュールレアリスム(超現実主義)のルネ・マグリットやダリの歪んだ時計の絵を最初に見たときには驚いたものだが「取り合わせの俳句」(二物衝撃)とはシュールレアリストが描く超現実の世界そのものではないだろうか。
奇しくも週刊俳句107号「いつき組」まるごとプロデュース号の『俳句における一物仕立ての定義その2 問題提起編』で、葛飾北斎の浮世絵を例にあげて「一物仕立ての俳句」と「取り合わせの俳句」の違いをわかりやすく説明していた。
ちなみにシュールレアリズムの「超(シュレ)現実(レェル)」とは現実を離れたり、非現実にあるのではなく「ものすごい現実」「過剰な現実」「上位の現実」というような意味らしい。俳句の取り合わせによって起こる二物衝撃の世界とぴったり符合するように思える。
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くしけずればおたまじゃくしがぽろぽろと 江口ちかる
春風に乱れた髪を梳いていると、足元でおたまじゃくしが次々に孵化している。実際に起こり得ることだから不思議も何もないのだが、こうして俳句にされてみると、その梳る髪の毛からおたまじゃくしがぽたぽたと生まれてきているようにも読める。いままでに「おたまじゃくし」でこういう俳句を読んだ覚えがない。なんとも気色悪くて面白い作品である。
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花札の裏は真黒田螺和へ 山口昭男
花札の表面は中間色が省略された原色に近い色彩が施されている。だから「花札」と言われるとすぐにその図柄が思い出される。「真黒」の切れのあとちょっと余韻があって「田螺和」へ飛ぶ。田螺和は実際に食べたことはないのでどういう味がするのかはわからないのだが、ちょっと苦味があるものの一緒に和える山菜の味が口に広がるのではないだろうか。花札に子供も加わっているような夕餉の後の家庭的な春の一日であろう。
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空気より夕日つめたき落花かな 小川軽舟
花冷えの感じが良く出ているように思う。作者が体感温度なのだろうが、落花がそう感じながら散って行くようでもある。作品の上等さは、ひとえに「空気より」の斡旋と「夕日つめたき」の措辞の見事さにある。空中を漂いながらこの世を惜しむように散ってゆくはなびらが夕日にきらめいている。
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花喰鳥過ぎゆく春を食みこぼし 麻里伊
「花喰鳥」には花や樹枝を銜えて羽ばたく鳳凰や鸚鵡、鴛鴦など幸福を運ぶ鳥の図柄のことを言うらしいが、ここでは春の花を啄む鳥と解していいだろう。鳥は梢で花を啄んでいるのではなく春を飛び去ってゆくのだ。「春を食みこぼし」は「春惜しむ」姿でもあるかのようだ。
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ゆふづきの夜を待つ白さ春の風邪 川嶋一美
ふわーっとした「ゆふづき」の表記が微妙に「春の風邪」に働いて風邪であっても羨ましさをも感じさせてくれる。ぼんやりと熱の下がらないまま起きているような眠っているような。そういう時間を楽しんでいるような。夕月の白さは夜の白さとも違う。その明るさにまさしく春風邪の雰囲気が漂う。
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温みたる水に寄りがち自転車も 南 十二国
畦道は自動車の轍が目立ち遠景に佐渡や弥彦が見えるのかもしれない。言われて見れば越後だが、日本全国これと似た景色は田と山があればどこでも見られる。水の温みは水音をも春の水音に変え、小川を覗いたり、雲を仰ぎ見たりしたい気分にさせてくれる。自転車の道草というのがいい。〈雲をまだ映す田のなき菫かな〉〈越後はも泥のにほひの風薫る〉にも清廉な臨場感がある。
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地球儀の古き世界や百千鳥 寺澤一雄
地球儀は地球儀でも古地図の地球儀なのだろうか。「古き世界」と言われてみるとあの小さな地球儀に世界が圧縮されて犇めいているようでもあり、時間までも圧縮されているように思えるから不思議だ。それは「百千鳥」が地球のかたちに飛び回っているようでもある。ひとえに季語「百千鳥」の配合の効によるものだろう。〈三百年桜のままに過ごしけり〉〈海底に顔紛れたる虎魚かな〉は作為のない作為が見られると言ったら臍曲りかもしれないが、果たして唯事だけを言っているのだろうか。と、寺澤ワールドと言うか寺澤マジックにいつしか引き込まれている。
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俳句への欲求は、快感や快楽が際限なくどんどんエスカレートしていくように、止まることを知らない。読者の欲求に果たして俳句のシュールリアリズムはどこまで表現できて迫れるのであろうか。
■江口ちかる ぽろぽろと 10句 ≫読む
■山口昭男 花 札 10句 ≫読む
■小川軽舟 仕事場 10句 ≫読む
■麻里伊 誰彼の 10句 ≫読む
■川嶋一美 春の風邪 10句 ≫読む
■南 十二国 越 後 10句 ≫読む
■寺澤一雄 地球儀 10句 ≫読む
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2009-05-17
〔週俳4月の俳句を読む〕馬場龍吉 シュールレアリストが行く
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