2009-05-03

〔週俳4月の俳句を読む〕大石雄鬼 オモテの世界、ウラの世界

〔週俳4月の俳句を読む〕
大石雄鬼
オモテの世界、ウラの世界


先般、谷雄介さんから、「~を読む」について、「ほとんど「先生」の立場になって書いた講評のよう」という指摘があり、反論する形でさいばら天気さんが書いている。天気さんとしては、せっかく書いてもらったのに、という気持ちもあったのだろう。

ところで、私は鑑賞文を書くにあたって、先生ぶる気持ちはさらさらない。他の人もおそらくそうだろう。句会などしているとよくあることだと思うが、他の人が採ったり、鑑賞しているのを聞くと、途端にその句が良く見えることがしばしばある。見落としていたものに気づく、人に促されてその句が見えてくる。短詩型の特徴かと思う。

俳句の鑑賞文を書く場合、「自分はこの句を採ったぞ!」とか、「どうだいいだろう!」という気持ちで書くことが多い。その句の持つ世界を邪魔しないようにしながら、なるべく句の世界に即しながら、句の持つイメージが広がればいいなあと思いつつ鑑賞文を書く。

そしてまた、鑑賞文の中にうっすら自分の俳句に対する考え方が滲み出てくれば、さらにいいなあと欲をかく。鑑賞している俳句の幅を広げ、その良さを膨らませ、かつ自分が考える俳句の方向性を潜り込ませようとしつつ、結果的に偉そうな、つまらない文章になってしまう。

もう一つ言えば、その句の短所や欠点と思える部分は指摘しやすいが、その句の良さを散文で書くことは難しい。というか、その良さを散文で書けてしまったら、その句はたいしたことないということにもなる。だから、そのジレンマに喘ぎつつ、結果的に「勝負」のような体裁になってしまうのかも知れない。

と、まずは言い訳をしつつ、鑑賞文を書きたいと思う。

三百年桜のままに過ごしけり   寺澤一雄
水羊羹アルミの缶にかたどられ

「桜のままに」と言われれば、桜でなく過ごす選択肢もその桜にあったのかと思えてくる。三百年といえばかなりの老木で、木の精が宿っている雰囲気が漂うことが多い。桜であることを、もしやめたとしたら何をしようとするのか、ちょっと怖い感じがする。

二句目。そう、最近、水羊羹といえば、缶詰タイプのものを食べることが多い。そういうタイプのものは日持ちするので、もらい物が多いようだ。この句から、水羊羹といえばアルミ缶というイメージができあがってしまった。ところで、私は何にかたどられているのだろうか。

まなうらの暮春の橋を渡らねば  麻里伊
入口が出口桜の苑閉ぢる

「まなうらの暮春の橋」がいい。「渡らねば」ということで、まなうらの橋は、夢に近いものであろうかと想像する。まなうらの橋と、目の前にある橋がふっと重なり、作者の意識が垣間見えるような気もしてくる。「桜の苑」の句も、同じような気配。オモテの世界とウラの世界を、意識的に作者は繋げようとしているのか。

春はあけぼの後ろ手にドアを閉め  川嶋一美
竹の秋五目ごはんのくらきこと
花筏うつらうつらと組みはじむ

今回、川嶋さんの作品が一番好きであった。「春はあけぼの」「竹の秋」と季語がいい。後ろ手にドアを閉めることのその確かな存在、そして危うさ。五目ごはんがくらいという把握の意外性と納得できる感覚。それをうまく、季語が引き立てている。(ちょっと、先生ぽいですか?)

三句目。花筏の花びらは、最初はばらばらな感じで、池や沼などに浮いている。それが水の上でゆらゆら、うつらうつらしながら、花筏の形になっていく。「うつらうつら」という語が、居眠りを連想させ、花筏そのものを夢のできごとのように感じさせてくれる。

月ぽつと後ろにありぬ蓬摘  南 十二国
連翹や掌冷えて家近し

自分の存在をなるべく細くして、外界にほうりこむと、この句のようなものができあがるのではないかと思う。俳句では、なるべく自分を小さく小さくして、それでもほんの少し残る自分が、その俳句との関わりであると思う。(自分の俳句に対する考え方を入れてみました。滲み出るというより、ダイレクトですが。)

地獄絵のほのほ人のむ日永かな  小川軽舟
鳥交るあをぞら神の見えざる手

かなり力強い。作者の気が入っている。「地獄絵のほのほ人のむ」から一転、「日永」へ持っていく落差がいい。「鳥交るあをぞら」から、「神の見えざる手」に持っていく面白さ。日永や鳥交るに象徴される日常的な平和な暮らしの向こう側に、地獄や神という絶対的存在が姿を隠している。そんなふうに読んでみた。

忘れっぽい天使が窓ですずなりに   江口ちかる
七三に分けたらたんぽぽ咲いていた
惨劇の跡はイチゴの匂いして

今回の中では、かなり異色。と思ったら、川柳の方だった。「忘れっぽい天使」。いいフレーズである。「すずなり」も、想像するとかなり可笑しい。その他の句も含め、全体の軽さの中にいると、こちらの気持ちがほぐれていく感じがする。

花札の裏は真黒田螺和へ      山口昭男
こでまりの咲いて手首のよく冷えて

ここまで書いて、すでに週刊俳句「第106号5月3日」がアップされていることに気づく。焦る。「田螺和へ」いいなあ。食べたことないけど、直感でいいなあと思う。田螺がのろのろ歩いていたら、和えられてしまった。そのことと、「花札の裏は真黒」が響いているのか。

二句目。私は、「こでまり」から手毬を連想したのか、「手首のよく冷えて」が、すっと心の中に落ちてきた。また、手首は、自殺のとき切るという印象があるから、「冷える」が何かを言っているように感じたのだろうか。さらに、女性の手首を掴んだときの冷たい感じも思い出したりする。ということで、心にひっかかった一句。


江口ちかる ぽろぽろと 10句 ≫読む
山口昭男 花 札 10句  ≫読む
小川軽舟 仕事場 10句  ≫読む
麻里伊 誰彼の 10句   ≫読む
川嶋一美 春の風邪 10句  ≫読む
南 十二国 越 後 10句  ≫読む
寺澤一雄 地球儀 10句  ≫読む

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