2010-01-10

〔新撰21の一句〕関悦史の一句 上田信治

〔新撰21の一句〕関悦史の一句
幼い怪物 ……上田信治


エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ  関悦史

作家が、主に他の作家について語った言葉によりつつ、作家自身を語ってみよう。

「それは自分じゃなく、誰それさんのことだ」と言われるかもしれないが、他者を語る=自己を語る、は常識以前のことなのだから。

関悦史は、俳句を語るにあたって、空間の比喩を多用する。それは言語空間・作品世界 etc. のような紋切型ではなく、濃厚に言いたいことの詰まっていそうな「空間」である。

曰く「天使としての空間」(*1)、「非意味の広やかさ」(*2)、「此岸性をまぬがれた虚空的なもの」(*3)、「自分の背が通風孔となって、広壮な他界の明るみへと開け」「句を通じ、その背後に他界=客観の笑いを響かせる」(*4)うんぬん。

関悦史が、読者として俳句を読み始めたのは、「詩人吉岡実のエッセイを通して永田耕衣、富澤赤黄男、高柳重信らの作品を知り驚いてから」(*5)だそうで、そのとき彼が俳句に見出したのは、いわば「永遠を定着させ」るべく開かれた、「不可視の天使」(*1)が到来する、それ自体が「祝祭」(*1)であるような、そういった「空間」であったのかもしれない。

もとより彼にとって、作品とは「虚空」「他界」「宇宙」といった空間への「開(ひら)け」であったに違いなく、それがなぜ俳句だったのかは、おそらく彼の世界に対する欲望の性急さと関係があり、彼の早口とも関係があると思うのだが、それは、まあ、話を急ぎすぎというものだろう。

関悦史の俳句は、よく分かる。

本書巻末の座談会でも、出席諸家に、見事なほど"分からせる"ことに成功しており、彼の俳句の言葉は、そのいわゆる前衛的な書きぶりの印象に反して、通りがよく、見えやすい。

彼は、摂津幸彦に思いをはせ「なぜ意味を回避しなければならないか。意味は不可避的に安定した主体を形成してしまうからである」(*2)と書くのだし、阿部青鞋に思いをはせ「自分の全体像が見えてしまうことはそのまま同時に自己疎外なのだ」(*6)と書く。つまり、彼にとっても、意味が分かりすぎること=底割れやネタバレは、回避すべき事態なのだし、かたや、その安井浩司論においては「感覚と世の常の知見で把握しうる世界を殺戮する」(*3)というような、"見せない"方法に深い理解を示していて、彼が、単に"分からせる"ことには、上位の価値を置いていないことが見てとれる。

にも関わらず、一句一句が非常に見えやすくイメージを結ぶように書かれているのは、彼の努力が、バカ正直なほどまっすぐに、自身が喩として語る"あの"「空間」を現成させることに、費やされているからに違いない。作者は、一句の「空間」を、舞台として、あるいは絵画として構成する意識を手放すことがない。

その「空間」は、実体、実景の裏付けなく生まれるので、写真のように瞥するのではなく、言葉相互の関係を「覗き込む」ことを、自ら要求する。

彼は、岡井省二の作品をめぐって「『怪物と戦う者は自分が怪物となってしまわないよう注意しなければいけない。深遠を覗き込むとき、深遠もまた君を覗き込む』という言葉がある」「「怪物」化することも俳句という形式の中に本質的に潜在する妙境のひとつというべきか」(*7)と、書く。

そのとき、彼自身、かの「空間」において「怪物」化することを思い、恍惚としているように見える(「妙境」って言っちゃってるし)。

「怪物」とは、彼の用語をたどって言えば、"テクストの深淵に、宇宙とか世界とかいうものの全体性が定位されるとき、初めてそれと同時に、定位される自己"ということになろうか。あるいは、彼が初めて出会って驚いたという「永田耕衣、富澤赤黄男、高柳重信ら」が、その「怪物」であったか。

人が俳句と出会うとき、ほんとうのところ何に出会うのか。それはまったく、人それぞれである、と。

はたして関悦史は、怪物化するのかどうか。それは間違いなく、なれるものならなってやろうという気でいるだろう。というか、なる気まんまんなのではないか。

「俳句形式を通して世界と自己との関わりを構築し定位しようという欲望」(*8)を携えて、成長途上の幼い「怪物」は、自分自身を「膜」(*4)と喩える。そのとき彼は「祝祭的な華やぎとしてのこの世」(同)にうっとりと触れている。

「ストレス」(*9)に触れて苦しがって暴れ、それが作品化することもあるようだが、〈人類に空爆のある雑煮かな〉(週俳2009新年詠)のゆるやかで安定した書きぶりを見れば、本人すでに、世界に対してうっとりと受苦の構えをとることを体得したと察せられる。

それは「世界の側からの眼差しにゆるやかに押し流され、なかば開かれつつある主体」(*2)、つまり万事受け身の性向のある主体にとって、ある種幸福な、世界の獲得であるに違いない。

では、作家のもう一つの傾向である、冒頭の掲句のような、口調からして性急な"昭和の韻律"(さいばら天気による谷雄介評から)を持つ句とは。

それは、一句に、"祝祭的「空間」をうち開く呪文たれ"という、願いをこめるがゆえの、畳みかけであると自分には聞こえた。

彼が、世界を召還せんと早口になにか分からないことを唱えると、眼前に「神よ神よなぜ私を見捨てたもうたのか」と大書された冷蔵庫が現れる。

それは"またしても失敗した世界"の出産である。それは「世界そのものに等しい領域がひとつの表現物にまとまり、眼前に置かれることへの奇跡感」(*10)、そういうものへの性急な投企を、パフォーマティブに表現する、なかば織りこみ済みの"ブカッコウさ"である。

と、いろいろ大事なことを言い忘れたまま、この項はここで、唐突に終わる。

引用
*1「天使としての空間——田中裕明的媒介性について」
*2「幸彦的主体」
*3「全体と全体以外——安井浩司的膠着について」
*4『新撰21』p.235 作句信条
*5「週刊俳句95号」「60億本の回転する曲がった棒」コメント欄
*6「青鞋的身体」
*7「岡井省二「大日」書評」
引用中の引用「怪物と戦う者は」は、ニーチェ『善悪の彼岸』より。
*8「六林男は、今日?」
*9「竟宴21」シンポジウムでの発言。
*10「前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する」



『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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