2010-07-04

中学生が読む新撰21 第4回 矢野玲奈・相子智恵

高校生が読む新撰21 
第4回 矢野玲奈・相子智恵……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

矢野玲奈論……青木ともじ

   箱庭に天動説を思ひけり
 
最近の俳句を見ていると天動説、地動説というスケールの大きな俳句はしばしば見かけるが、その多くはスケールだけで共感性はほとんど無い。しかしこの句ではそうではないと思う。箱庭というものをひとつの惑星に仕立てて、作者はいわば神の視点から箱庭を見ているのである。そういうところから天動説のつけ方は理解できるであろう。また、多く、このような句は季語もイメージでつけがちであるが、この場合の箱庭は季語の本意を生かせているのように思う。主に箱庭では、現実の世界の庭(あるいはモノ)と虚の世界ともいえる箱庭の対比という感じで読まれることが多いが、この場合、スケールを大きくしたことで句の類想感も防げているようにも思う。ある意味この句は箱庭を使ったことで世界が統一されているのだろう。それでもこういう句に対する好みは分かれるところかもしれないが、私にとってはなかなか好きな句であった。

矢野氏の句の多くには新しい言葉、斬新な言葉をつかったものが多くある。新撰21を読むなかで多い趣向ではあるが、それぞれに特徴があり皆どこか違うところがおもしろい。彼女の句の中からふたつこういった句を見てみる。


  フィボナッチ指数のごとく蝌蚪生まる
  降る雪や繰り返し聴くジムノペティ

先程書いたとおりこういった句はどうがんばっても好き嫌いは出てしまう。大きな問題は共感性と、固有名詞がどこまでその固有さを生かされているかである。前者はフィボナッチ数列1、1、2、3、5、8・・・という不規則のようで規則のある増え方がどことなくおたまじゃくしらしさを出しているように思う。後者もジムノペティの題名である「悩めるごとく」、「悲しげに」、「厳かに」を作者の心の中で繰り返していく感覚、それを降っては消えていくような雪に託したのだろう。彼女の句は固有名詞の魅力を全面には出さず、あくまで句の世界の材料のひとつとして利用しているがゆえにそれが自然に溶け込んでいるのである。それでして、固有名詞のもつ魅力も出ているのが彼女の句の良いところではないか。特に後者は、固有名詞が生かせている。一方、平易な言葉のみを用いた句に関しては、その観察力が長じていると思う。たとえば

  台詞無き村人Bの息白し
  クリスマスツリーばかりの街にゐる

前者は息の白い人が主役ではなくエキストラ、それも村人Bというのがリアリティーがあり、また不思議な魅力がある。古い劇場のようなところを想起させられるだろう。後者もまた、現代の町並みらしい景である。たしかにいまどきは正月になれば門松が、三月になれば雛が、五月になればこいのぼりが街を埋め尽くす。クリスマスもまた然りである。現代人にとって当然なこととなってしまっているが、あらためて言ったことに魅力がある。
 
彼女の観察力は繊細さ、ではない。そういう意味とは違った、逆にもっと大きな視点をもって、良い意味で抽象的な視点をもっていて、それは前半で述べたような句においても同じようなことが言える。「矢野玲奈小論」において「大らかさ」という表現が使われているが、その大らかさはけっして大雑把とは違う、広い意味で繊細な視点を持っている。大きな視点をもってして繊細である、それが句を読んだときに不思議な気持ちになる、それが彼女の句の魅力につながっているのである。



相子智恵論……山口萌人

   押して抜く浮輪の空気最後は踏み

相子智恵氏の百句の中には、実にさまざまな物が描かれている。ある時は完全に客観的に、またある時は一人称的な体験に訴えかけてくるようにと、その手法もまた、さまざまである。掲句は、実体験に題材をとったものであろう。海水浴やプールで誰しもがしたことのある景の筈だ。「最後は踏み」という下六がいかにもゆっくりと浮輪の空気が抜けていく感じに合っているように思われる。鋭い観察の光る句である。

今回は、掲句のような等身大の生活に対する観察眼の光る百句を、昨年、氏が受賞された角川俳句大賞の五十句を混ぜつつ、見てゆこうと思う。


  ひも三度引けば灯消ゆる梅雨入りかな
  冷やかや携帯電話耳照らす
  冬晴や鳩サブレー鳩左向き 
(萵苣)

一句目、バチンバチンと紐を引く度に蛍光灯の明るさが変わっていくという、日常的な就寝の風景。二句目、本当は年中、携帯電話のライトは耳を照らしている筈なのだが、秋になっていよいよ日が短くなると、一層その仄暗い光が冷えを感じさせるという感覚。確かに言われてみて、季語が動かないように思える。三句目、確かにその通りである。冬の季感もクッキーと合っている。

三句とも、実感という意味では誰もが納得して読むことができると思う。日ごろ必ず見掛けている筈の風景なのだが、それを改めて言語化したことによる再認識(一種の意外性)と、季語との絶妙な距離感こそが、これらを佳句たらしめている。冒頭句も然りである。思わず、声を上げたくなるような実感がある。



  大粒の葡萄剝きをり王妃死す
  一撫でに毛皮冷たし夜に入る 
(萵苣)
  
どちらの句も、上五中七で纏まったフレーズを形成し、一旦切れてから下五に全く別の(且つ季語以外の)フレーズがぶつけられている。俳句ではよくある「構文」のようなものだが、多くは下五に季語を置いて、いわゆる「二物衝撃」の形をとるものが多い。しかし相子氏の句には季語でないものが下五に来ることがあるのだ。それによって一句目は葡萄の高級感が、二句目は夜に向かう沈静した作者の心情を醸し出しているのではないだろうか。一方で、十二文字と五文字がそれぞれで完結してしまっている分、この言葉上のデペイズマン的手法が(前項に挙げたものに比べると)実感を弱めてしまうことにもなっているかもしれない。

三 
  熱狂は対岸にあり揚花火
  茫茫と海月重なる桶の中
  遠火事や玻璃にひとすぢ鳥の糞
 
自分と離れたところで盛り上がっている人の群れ。自分が見ていようがいまいが、浮き沈みを繰り返す海月。鳥の糞が視界に入って初めて、ガラスに隔てられて遠くの物になってしまった火事。この三句には対象と視点の間に不思議な距離をとっている。近くに感じているのだけれど、絶対に触れない距離。それは事物をより客観的に描こうとする姿勢の果てにあるものか、それとも外界に対する心的距離感か。その真偽はともあれ、これらの句が氏の百句の叙景の側面を強めていることは確かである。

以上、数パターンに分類して相子氏の句を鑑賞してきたが、どの句においても叙情より叙景、主観より客観を主体としているように感じた。内容については、はじめはテーマも多岐にわたり、一見統一されていないようにも思えた。しかし、描く世界はさまざまでも、その描き方にぶれが無いのである。その地に足のついた句柄が、百句に安定感を持たせているように思う。

(注)句において、無記載は邑書林『新撰21』、(萵苣)は第五十五回角川俳句賞受賞作品『萵苣』より引用した。





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