2010-07-04

【週俳6月の俳句を読む】湊圭史

【週俳6月の俳句を読む】
(で、私にとっては快い) ……湊圭史


鈴木不意の一〇句は「時代俳句」といったところか。幕末から明治初期にかけての雰囲気を出そうとしているように見える。

伏見にゐ葵祭をうつちやつて  鈴木不意
寺田屋の簾が見えて川下り
ひやしあめをんなあるじの狐がほ

一種のアナクロニズムは、葵祭のときに伏見にいる、寺田屋を川から見る、「あるじ」ではなく「をんなあるじ」といった、中心を外した視点への嗜好につながっている(あるいは、そちらが主か?)。

あぢさゐの色のはじめの浅草寺
五重塔はつなつの風吹いてくる


などになると、まるでJRかなにかの宣伝コピーという気もする。そこから見ると前半の句にも、NHK大河ドラマの役者が顔をのぞかせそうだ。観光はタイムトラベルができない以上、疑似体験にも必然性があるだろうが、文芸においては古句がいくらでも読めるわけだし、こうした遊びにどれほど面白みがあるのか、と疑問もわく。



五十嵐義知の句はわざと言葉を緩めたところがあって、そこから生まれるゆったりしたリズムに特徴がある。

海原につづく植田の澄みにけり  五十嵐義知
青鷺の同じ姿に降りたちぬ

一句目は「つづく」、二句目は「同じ」に緩みがある。俳句は言葉を詰め込むことという固定観念がある俳人には気持ち悪いかもしれないし、これらの語を省いて同意趣のことも言えるだろうが、五十嵐においてはこの緩みは句作全体のテーマであろう、事象の背景にある連続性から由来している。「海原」と「植田」を包含するような広がり、一羽の鷺と続いてくる鷺のあいだの種としての同質性。作者が独自に感知している世界の連関があるのだ。

水流のとどまるところ夏蝶来
草取の帽子のかたち見えかくれ


この二句でも「ところ」や「かたち」といった語が緩みを生んで、そこに透明な場のイメージが生起している。ただ水の流れと蝶、草取りの帽子を示したのとは違って、場のイメージを通して、それらの何でもない物の出現に、一種の啓示といった雰囲気がただよう。

はつなつのうみにひかりのながかりし

は、この意味で、この俳人の視線の底にあるイメージ以前のイメージだろう。がここまでストレートに表出されると(ひらがな書きの仕掛けがあるとはいえ)、読者としてはあまり楽しめない気がする。



茅根知子の句は、焦点のずらしを短詩的なレトリックでつかまえた時に成功しているように見える。描かれる対象よりも、言葉が示す「視点」にうまみがあるということだ。

夕立のあたりより来る電話かな       茅根知子

実際には、電話の向こうに叩きつける雨の音が聞こえたのだろう。そこを「夕立のあたり」とぼかすことによって、電話の掛け手との関係へと想像がふくらむ。

蚊遣火のしばらく雨を待つてをり

この句ではまず「の」の弱い切れによって、以下への繋がりをちらつかせておいて・・・、うまいのは次の「しばらく」である。この副詞によって、「蚊遣火」という具体像から、雨を待つ主体の時間感覚へとするりと移行しつつ、一句を成就させている。

重さとは水のまはりの金魚鉢

こちらの句は発想がじゅうぶん俳句的な言葉に収まっていないように思う。かといって面白くないと言っているわけではなく、現在、現代川柳を書いている私からすると、水の重みを容器である金魚鉢にうつす特異な発想そのものを一番楽しめたりするのだが、これは、作者の希望する読まれかたからは遠いのかも知れない。



松野苑子は、茅根とは反対に、目の付けどころがそのまま句になった(と思えるように言葉が決まった)とき好句に恵まれるようだ。

ドック灼け東京タワー入る大きさ      松野苑子

「入る大きさ」と把握がざっくりと大ざっぱなのだが、そのことが字余りのリズムとともに魅力として定着されている。米軍基地という反歳時記的な対象を扱うにはぴったりだが、かつての前衛俳句に影のように貼り付いていた暗さもなくって、なんだか不思議(で、私にとっては快い)。

基地に蟻潜水艦の上に人

単純に見えて「基地に蟻」と「潜水艦の上に人」で、大小が交差していて楽しい。時事的に、感傷的になりやすい対象だが、あくまで対象として非情に扱っていて隙がない。先ほど大ざっぱといったのは外界の把握のしかたのことであり、措辞にはじゅうぶんな注意が払われているので読みにはブレが出ない。

夏の月象の化石の出でし基地

太古の時間から「象の化石」、歳時記的季節サイクルから「夏の月」、現代から「基地」と、三つの時間性をとり込んでみせている。いちばん魅力的なのは、ただ知っている事実、目に見えた事象を並べただけですよ、というノンシャランな調子だ。この書きかたができたら、吟行句会では敵無しだろう。



四ッ谷龍の一〇句には、題材とは別に設定されたテーマがある。他の俳人の一〇句とは違って、そこを軸に読まないとじゅうぶんには味わえないと思える。そのテーマとは、九句目で明示されているように、「愛」と「死」の相克である。

文届くローズマリーの咲く朝       四ッ谷龍
みなし子にローズマリーが咲きました

始めの2句にはどうしても田中裕明の句、例えば「水遊びする子に先生から手紙」を想起せずにはおれない。ここで(四ッ谷自身とは限定しないが)句の語り手は「みなし子」につよく一体化しているようだ。生のなかに残されたものへのメッセージとしてローズマリーの花が咲くのだろう。

罌粟の花雲青ざめて航くばかり
来ぬバスを立浪草の凪と待つ

亡き人の呼吸も聞こゆる森林浴

掌中に白蝶捕らえたるも憂き

三句目以降は奇蹟的なメッセージの受け手としての子どもから離れて、現実の大人の語り手をつつむ生の倦怠が描かれる。最後の二句はこの倦怠を振り切るように、いささか乱暴に言葉を叩きつけている。

愛言えば死のこと答うジギタリス
ラブソングは終わりだ梅雨の石を噛め


「愛」と「死」との相克、と始めに書いたが、実際には四ッ谷のこの連作では、ふたつは何よりも切り離せないものとして描かれている。自然と一体化した至福の幼年期、愛と死の相克と不可分、断念という名の成熟。ロマン主義の典型パターンであるが、たった一〇句のなかでそれを十分に展開しきっていることに驚く。



中本真人の一〇句は、句の中にかなり強引に「発見」を作ろうとしているのが目について、どうかなあと思った。

爪楊枝ほどの小枝も今年竹
田植笠今年の汚れのみならず

競べ馬いきなり鞭の入りにけり

「ほどの」、「のみならず」、「いきなり」といった言葉の指定が強すぎて、読者としては無理に面白さを読みとるよう強いられている感がある。「そっちではなくて、こっちを見て下さいよ」とうセールストーク的くさみだろうか。

ダービーの朝から混めるシャトルバス
缶ビール佳き音立てて開けにけり

お値打の新茶手の出ぬ玉露かな

『新撰21』を読むと、中本の本領はこの辺りの「風俗詠」にあると思うのだが、ここでは「ただごと」を定型で掬ったときに生まれる面白みもずいぶんと薄味。否定的実感がべったり貼り付いているせいで事象が立ってこないからだ、と推測する。いっそ句の中でぐらい、シャンパンを空けて、玉露をがぶ呑みすればいいんじゃないの、と思う。でも、

大蟻や小蟻を抜いてまつしぐら

は好き。この単純さ、いいですね。



矢野風狂子「撃ち抜かれろ、この雨粒に!」は、タイトルの勢いのよさとは相反的に、全体に古風な自由律だが、

道路沿いにちゃぽんちゃぽんとイモリの泳ぐ日向水  矢野風狂子
月さす牛の匂いすらない牛舎

のさみしさがよいと思った。



灌木の「五彩」では、  

陽炎や冬虫夏草にきざす酔  灌木

全般に外界への感情移入がつよい作風と読んだが、「陽炎や」の一句は、句の中の事象(「陽炎」と「冬虫夏草」)に循環や浸透が起こっていて、広がりがあると思った。




鈴木不意  はじめの 10句 ≫読む
五十嵐義知  はつなつ 10句 
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茅根知子  あくる日の 10句 
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松野苑子  象の化石 10句 
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四ツ谷龍  掌中 10句 
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中本真人  ダービー 10句 ≫読む
矢野風狂子  撃ち抜かれろ、この雨粒に! 10句 ≫読む
灌木  五彩 10句 ≫読む


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