週刊俳句時評第6回
いわゆる難解俳句から季語の母性を経てアーキテクチャへ、それで結局『新撰21』は何が“新”しかったのかについて
関悦史
この週刊俳句時評、第1回の神野紗希さんの稿に《1人で書くのはこころもとないし、いろんな意見が書かれるほうがよいと思ったので、その場に居合わせた山口優夢くんにも参加してもらうことにした。数回は彼と交代で書き、その後もう1人を加えて、3人でまわしていく予定にしている》とあるが、そのもう1人として声がかかったのが私だった。私はサンドイッチパーティーには御相伴していなかったので、企画立ち上げの事情は神野さんの第1回を見て初めて知った。
以下は最近目にして何らかの引っ掛かりが生じた雑誌や本の記述を並べ、それら相互の間から浮かび上がってくる脈絡を辿り、それらが吸引する本があればそれもまた織り込んでいくという方法で書いた。エッセイ(試論・試文)の本義に則った書き方なのかもしれないが、おかげで自分が何を言い出すことになるのかほとんどわからないまま話についていくことになった。
*
『俳句界』2010年7月号は「この俳句 さっぱりわからん!? 難解俳句を検証する」という特集だった。
この特集テーマ及び、大井恒行編集顧問と林誠司編集長によるプロローグ対談の奇妙さについては既に週刊俳句誌上で五十嵐秀彦の言及があり[1]、特につけ加えることもないが、ちょっと気になったのは対談中の以下の部分。
大井 つまらない俳句が結構多い。季語とちょっとした感懐をくっつけたものはほとんどつまらない。
林 それは違う。季語を付けることによって詩になり、豊かになる。
大井 一番簡単な作り方が、感懐に季語をプラスする方法でしょ。
林 簡単じゃなくて基本ですよ。そこで勝負しないで、変な所を狙うから難しくなるんですよ。
「俳句界」2010年7月号 46頁
「感懐+季語」という作り方、確かに現在ではしばしば見かけるが、これは基本であろうか。
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨
蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男
これらの句は紛れもなくそうした作りだが、これらの句こそは発表当時「難解」と呼ばれた当のものではなかったか。芭蕉にも《この秋は何で年よる雲に鳥》があるが、どちらかといえばイレギュラーな部類で、いわゆる人間探求派以前、4Sまでの俳句ではあまり見られない形だったのではないか。
作中の語り手と作者自身とを限りなく接近(または癒着)させた私語りは本来短歌のものであり、楸邨らの句は個人の感懐を詩化する権能を一手に季語に担わせてしまっているため、そこに一つの断裂が発生する(『俳句研究』に「おとな文学」を連載中の仁平勝が最新の2010年夏の号でちょうど上記の2句を取り上げていて、これらの句の「蟾蜍」や「鰯雲」は隠喩ではなくマクガフィン=「無意味であるがゆえに機能するもの」とし、それを隠喩として読もうとしたから「難解」になったのだと言っているが、この連載については本論部分が次号以降になりそうなので今回は特に取り上げない)。
この断裂(俳句の擬似短歌化)が今では斬新とも奇怪とも意識されなくなったということが現れているのが上記対談の発言なのだろうが、俳句史的にはひとつの倒錯とも言え、「難解」の尺度はつねに動き続けるという一例にこの対談自体がなっている。昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない。美術館にとって今では保守的な一般来館者の好尚に最もかなう(並べてさえおけば客が入る)エコールのひとつである印象派が、出てきた当時はこんな絵具のポチポチを絵と言えるかと罵倒され嘲笑されたスキャンダラスな前衛であったこと、ハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生きていた保守的な聴衆にとって、その後に出てきたベートーヴェンは理解不能な野蛮さを持った存在であったこと(当時ハイドンやモーツァルトの衣鉢を継ぐと見られていたのは、フンメルやヒンメルといった今日ではあまり演奏されなくなっている作曲家だった)等々の例を列挙するまでもあるまい。
「感懐+季語」という手法で句を作った俳人は幾らでもいるはずだが、その中で楸邨や草田男が陳腐化していないとすれば、それは楸邨、草田男という個々の作家の力量によるので、その手法自体を正典化することにはあまり意味はないと思われる。
それよりも気にかかるのは、詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ。これは俳句には季語がなければならないという教条よりも、ことによったら根深いものかもしれない。書いたものが作者自身にとっても謎にならなければ詩ではないと、極力平易な意味に回収されないよう言葉を組織することに腐心する作り手というものはいるし、いて当たり前なのだ。
例えば高橋睦郎の近著『百枕(ももまくら)』には次のような一節がある。
《ギリシア北部のネクロマンティオン旧址を訪ねたのは、もう三十年もの昔になる。そこの神殿には冥府の神ハーデースが祀られていて、神殿に付属する巫女たちは参詣者の占いに当たった、という。 巫女たちは神殿内の室(むろ)のような閉ざされた空間に入れられ、薬草を焚いた煙で燻される。その半睡半醒の状態に神官を通した依頼者からの問いが発せられ、巫女が答える。その囈言(うわごと)のような答を神官が依頼者に解(と)いて聞かせたのだ、と説明された。
(中略)
詩歌の徒なる者はいわば占巫者のなれの果て、寝ている時も半ば醒め、起きている時もどこかで眠っている。その状態で詩句を授かるわけだが、縁なき人にはいっこう囈言にすぎまい。巷間、詩が難解だといわれるのは、この辺にも理由がありそうだ。》
高橋睦郎『百枕』(書肆山田 2010年、166頁)
詩的テクストのこうした面に対して「難解」という評言は何ら生産性を持たないし、そもそも批評用語たりえない。むしろごく平易で日常と地続きの水準においてすんなり意味が理解されてしまうテクストが詩になっているとき、それを詩たらしめているものは何なのか、共感という名の貧しい同調とは別の次元に詩句の感受を引き上げているものがあるとしたら、それは何がどう機能した結果なのかを問うことの方が俳句にとっても実りのある作業となる可能性はある。「感懐+季語」の作りでは詩化は一手に季語の包容力に委ねられるわけでその点は見やすく、構築が単純な分陳腐化もしやすい。
楸邨が最近視界に浮上する機会が他でもあった。
同じ『俳句界』の2010年8月号「特集 海外詠と季語~日本の歳時記で詠む危険性」である(これも既に週刊俳句誌上で久留島元により内容紹介済[2])。
ここで紹介されている楸邨句に以下の2句がある。
日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ 加藤楸邨
日本語が消えゆくバイカル湖上の蝶
外面的な事物の描写が中心になりがちな海外詠において楸邨は内面に一度その異郷性を呑み込み、己の住む言語環境から遠く隔たった距離感・阻隔感自体を、不安定極まる飛びざまを示す蝶(飛ぶ蝶が次の瞬間空間のどこに位置するかを科学的に予測する方法はおそらくまだないはずだ)に託して形象化し、さらに「ハヒフヘホ」という、字形・オノマトペ・五十音というシステム全部をあっけらかんと無造作に横断するフレーズによって可笑しみと余裕を抱懐させつつその全体を旅情へと統合しているという力技を見せている。
特集中、加藤耕子は「外国における風土をどう詠むか」でこれらの句を取り上げ、尾形仂の鑑賞を引用している。
《日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ 日本語が消えゆくバイカル湖上の蝶 などの句に接すると、もはや季は春でも夏でもどうでもよく、そのヒラヒラと虚空へ消え去ってゆく頼りない飛翔のイメージが、異文化圏の異質な風土のなかで日本語の表現が解体してゆく。その心細い無力感を象徴している効果を押さえれば、それはそれで充分だという気がしてくる。そのことは、季語の、季節感からの解放の道へとつながってゆく。》
尾形仂「国際化時代の俳句」(『世界大歳時記』角川書店、「俳句界」2010年8月号の加藤耕子文からの孫引き 54頁)
《あえて季に拘泥せず、万人周知のイメージや情感に、短詩形における結晶や伝達の効用を託したほうが、俳句にとって新しい活路が開かれるのではないか》(尾形仂前掲書)
こうした尾形仂の言を容れ、加藤耕子自身も次のように書く。
《「蝶」を解体ではなく、「ハヒフヘホ」と日本語の音感・語感で詠んで、俳諧化している作品と受け止めたい。そうすれば、日本語の表現は解体していないと思う。日本語の季語の「蝶」が「春」であるという日本の歳時記の概念が働かないという事で、「蝶」という生命体のもつ「軽やかな」あるいは「飛ぶ」という詩的イメージの象徴性はそのまま伝達力をもつ語として機能して共通理解の場となっている。》(55頁)
つまり季語・歳時記からの解放と、それに替えて象徴性を帯びた詩語(「蝶」)を核にした俳句及び俳句鑑賞の再構築を志向するわけだが、ここから夏石番矢のいう「キーワード」(夏石番矢には『現代俳句キーワード辞典』の著書がある)まではあと一歩だ。ただし尾形=加藤耕子の場合は、海外詠においては季語を外す方向へ動いてもよいというに留まっているようだが(逆のやり方として、この特集にも収録されている《太陽をOH!と迎へて老氷河 カナダ/鷹羽狩行》のようなケースもある。グーグルで検索してみたところ「氷河」は最近季語ということになりつつあるらしい。季語の範囲に収まらないものを取り込み、季語の範囲を拡張させて折り合いをつけようというやり方である[3])。
日本の詩歌と季節ということに関してはちょうど『都市』(中西夕紀主宰)2010年8月号に、筑紫磐井が近著『女帝たちの万葉集』の時代背景について語った講演「讃良皇女(ささらのひめみこ)と万葉集」がそっくり掲載されていて、その質疑応答に興味深いくだりがある。
以下は会場からの「奈良時代の中国かぶれの影響は『万葉集』のどの辺に感じられますか?」との質問に対する答えから。
《そもそも持統天皇自身中国かぶれの女性だったと思います。私の説が正しいとすれば万葉集の冒頭に来るべき歌は
春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香具山
となるわけですが、これまで季節の推移を歌うなどということは無く持統天皇のこの歌が初めてでした。(中略)実は『日本書紀』などを見ていくと、初めて意識的に日本の行政に中国の暦を取り入れたのは持統天皇なのです。持統天皇は中国の暦を真っ先に手に入れてそれを重宝だと考えた。だからこの歌が冒頭にあるということは持統天皇はインテリで中国かぶれの非常に意識のはっきりした人だったのではないかと思います。》
「都市」2010年8月号 15頁
それ以前の記紀歌謡などにまで遡ると日本人は季節の推移など、少なくとも詩歌の題材としてはあまり興味を持っていなかったようだというのは、あるいは常識に属する事柄なのかもしれないのだが、再確認しておく意義はあるだろう。暦というのは先進国から移入されたテクノロジーであったわけだ。暦自体については千年以上の慣用を経て今更その存在をいぶかしむ者はいない(中国で作られたものを日本に移入した際の気候上のずれや、旧暦・新暦をめぐる違和は絶えないにせよ)。
季語はその生活上の暦と、俳句形式という環境内における詩性(または俳句共同体を仮想的に成り立たせる支えとなる公共性)とを架橋する位置にあると言える。
「季節」を外国由来のものと意識する日本人はあまりいないという事態を逆から照射するのが海外詠に季語を入れる際の独特の違和感である。下手をすればどこを詠んでも季語が出てきた途端にそこだけ「日本」になりかねないという危うさ。
近代日本建築において「帝冠様式(ていかんようしき)」と呼ばれる様式がある。ウィキペディアの記述を引くと《昭和初期の日本で流行した、鉄筋コンクリート造の現代建築に和風の瓦屋根を載せた和洋折衷の建築様式》であり、《1930年代のナショナリズムの台頭を背景に、モダニズム建築に対抗して日本で発生した建築様式であり、現代的なビルに日本の伝統的な屋根を載せた非常に特徴的な意匠を持つ。「軍服を着た建物」という異名をもつ建築物様式としても知られる。》[4]
つまりビルの上にいきなり瓦屋根だけ乗せて「日本化」してしまった様式で、都内在住者は手近なところでは九段会館にその現物を見ることが出来る。西洋近代のテクノロジーを大至急移入せざるを得ず、アイデンティティの危機に晒された近代日本が「洋才」に対して事後的に「和魂」を発明しなければならなかったという事情を体現したような様式である。
海外詠への季語の混入はどこかこの帝冠様式に似る。
海外詠で季語を用いる俳人が無意識のうちに現地を「植民地化」し、それによって異国・異文化を無遠慮に「素材化」しているなどと言いたいわけではない。それよりもむしろ持統天皇以降に形成されてきた日本のセルフイメージを臍の緒の如く海外まで引きずっていくものとしての季語、その機能・権能に興味がわく。
国内での通常の句作においても、季語の位置づけに関しては「形式上季語がどこかに入っていればよい」という立場から、「季感」や「季語の本意」が大事という、言語と日本の風土(物質)との癒合を重視する立場まで幅があり、一人の作者の中でも完全に固定してはいず、曖昧な幅に跨りつつ句作を続けているケースも少なくないのではないか。私信においてだが、季語を「生命」と同一視し、いわば神聖なものと感じているらしい作者に出会ったこともある。
季語は曖昧に延び広がって単なる個人の感懐をも詩に浄化させてしまう「大自然」であり「日本(の風土)」であり「生命」であり、それが知らず識らずのうちに句作における内面的行動規範にもなっている。いわば季語は「母」であり、言い方を変えれば母性的権力として働いていると言えるのではないか。帝冠様式のように上に乗る形でではなく、下からわれわれを包摂するものとして。
前田英樹の近著『深さ、記号』には次の一節がある。
《……反対に、徹底して創造された言葉の意味は、徹底して拡充された記憶の全体から来るだろう。無限のニュアンスを含んだ最も潜在的な記憶の平面から収縮し、現働化してくる言葉の意味は、決して他の言葉に置き換えられない固有の律動で満ちている》(p.424)
いきなりこれだけでは何のことかわからないので、興味のある向きは以前前田英樹の講演について週刊俳句に書いた拙稿[5]を参照頂きたいのだが、この部分は詩の言葉が創造される際に、作者の身心で何が起こっているかについて述べたものとして読める。ここでの記憶は、物とは一旦切れたソシュール的な意味での言語体系から物そのものである作者の身体、さらにその外界までをも横断し、包摂している無限の領域を指す。拡充された記憶が収縮すると詩の言葉となるわけである。
拡充と収縮だけが問題であるならば俳句の場合も別に季語でなくとも、「キーワード」であっても悪くはないはずなのだ。しかし実際にはそうはなっていない。今後も恐らくならないだろう。
『俳句研究』2010年夏の号は茨木和生を特集している。
茨木和生こそは難解の最たる句を作り続けているにも関わらず、「難解俳句について書け」と言われた際にはほとんど誰もその名を召喚することがないという作者であり、実際『俳句界』の難解俳句特集でも茨木和生への言及は皆無なのだ。
茨木和生の句に関しては豈weeklyに高山れおなによる最新句集『山椒魚』評[6]があるのでそちらを参照いただきたいが、大方の読者に取っては辞書や大歳時記と首っぴきでなければ読めない難語が続出する(《火鈴(こりん)振るかりがね寒き夜の更けて》《揉鬮(もみくじ)をひとりしてをり神無月》《綾子(あやつこ)の大を大きく初詣》等)。
『俳句研究』の茨木和生特集は季刊ならではのボリュームはあるが、存命俳人の特集らしくその人柄、人物像がよくわかるという稿が多い。典型的な例として宇多喜代子によるものを引く。
《まず行動力がなみではない。もともとあった資質に、山の人や海の人の狩猟の知恵や観天望気を、みすがらのものとして袋に溜め込んでいる。それも学問や知識としてではなく実用実利のものとしてあるから応用に強い。山中海浜の動植物の毒の有無、触っていいもの、恐ろしいもの、それらが即座にわかるのだ。熊野山中で野生化した犬に出くわして無事だったことなど、聞けば身の毛がよだつ。 もし、いま、私たちの社会や暮らしを支えている便利なもの、交通機関や電力や便利な道具、諸々の情報や流通システム、ネットワークなどなどが消えたとしても、茨木和生は何の痛痒を感じることなく、素手で生きてゆくだろう。 古代大和の人たちが暮らしていたエリアが生まれた地であり、育った地であり、いま住んでいる地である。これにつづくところが、先ごろまで陸の孤島と呼ばれていた熊野や吉野。山が海際にまでせり出している紀伊半島には耕地が少なく、気候温暖だとはいえ、暮らすには過酷な地だ。》
宇多喜代子「お天道さんはいつも味方 茨木和生の俳句の源流」(「俳句研究」2010年夏の号、118頁)
句の鑑賞も特集内にもちろんあるが、全体としては茨木和生という作家の営為が結局何なのかを究明するというよりは、そのナマの手がかりを豊富に揃えたといった特集になっている。
茨木和生や宇多喜代子らの「古季語で遊ぶ」試みは季語を生活と癒合した言葉として、それゆえに重視する立場から見れば明らかに周縁部に属する。少なくとも前田英樹のいう記憶の拡充には読者の側として参与出来ない語が頻出する(広辞苑には載っているとはいえ「火鈴(こりん)」「揉鬮(もみくじ)」「綾子(あやつこ)」といった語についてわれわれは何を思い出すことが出来るのか)。ある意味「言葉派」に近い営為を続けていながらそれが上記の宇多喜代子文に言われているような即物的風土性と一足飛びに合体し正統性を担保している点がこの作者のスタンスの分かりにくさの原因なのだが、ここで問題にしたいのは、季語を風土や母性と同一視するスタンスを貫いている限り、「難解俳句」という問題設定の視野には浮上してきにくくなるという一種のアーキテクチャ的な力についてである。これがおそらく「キーワード」と「季語」との懸隔にも関わる。
週刊俳句時評の第1回で世代論を論じていた神野紗希が、私にとっては懐かしい浅田彰『構造と力』を引いていたのに倣い、私は以下の「ふたつの教室」の比喩の箇所を引きたい。
《何の変哲もないふたつの教室。同じように前をむいて並んだ子どもたちが思い思いに自習している。部屋の大きさや形、席の数や配列、どこをとっても何らかわりはない。ただひとつの違いは、第一の教室では監督が前からにらみをきかせているのに、第二の教室ではうしろにいる、いや、いるらしいとしかわからないという点にある。たったこれだけの違いが生徒たちの行動様式に根本的な差異を生じさせると言えば、大げさにひびくだろうか。》
浅田彰『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房 1983年、211-213頁)
第一の教室では一見監視の目が厳しいようだが生徒たちは教師の目を盗み、ばれないように工夫を凝らしつつそれなりに自由に遊ぶことが出来る。たちが悪いのはむしろ第二の教室の方で、そこでは目を盗むなどということは出来ず、生徒たちは見られているという思いに内側からその行動を規制されることになる。
《第一の教室が前近代、第二の教室が近代のモデルとして提示されているということは、あらためて確認するまでもないだろう。たとえば、第二の教室の機能はフーコーが近代のモデルケースとしてとりあげたベンサムのパノプティコンの機能と同一であり、第一の教室の機能はそれに先立つ絶対王制の権力装置の機能と共通している。さらに、第一の教室と第二の教室を、ドクルーズ=ガタリのいう超コード化(専制)と相対的脱コード化(資本側)の部分的モデルとみなすこともできるだろう。(中略)もう一度このモデルを眺めて、前近代においては空間的・時間的に多少とも局所化された遊戯の揚がありそこでは充実した歓びの体験が生きられたこと、近代においてはそうした場が拡散して自由がひろがったが却ってそれゆえに充実した遊戯の可能性が希薄になったこと、こうした作業仮説を吟味していただきたい。》
浅田彰前掲書
この二つの教室を権力装置の二つのモデルだとして、では本書刊行から27年が経過した現在、権力論はいかなるシーンを見せているのか(その前に、言うまでもあるまいが俳句史的には第一の教室は「前衛俳句」という枠組みが有効たりえた時代、第二の教室は『現代俳句ニューウェイブ』などに代表されるポストモダン的な中心なき“百花斉放”の時代に相当しよう)。ここで登場するのが「アーキテクチャ」なる概念である。
鈴木謙介「設計される意欲――自発性を引き出すアーキテクチャ」[7]によると、現在の日本でのこの語の使われ方は以下の宮台真司によるレッシグの書評が出て以来、本来の意味よりやや拡張・アレンジされているらしい。
《実は私自身も、社会学の伝統が、1威嚇的命令、2市場、3規範に比べると、4アーキテクチャーによる支配に鈍感であることに警鐘を鳴らしてきた。このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。例えばコーヒーショップの椅子の堅さ。 椅子の堅さ次第で客の回転率を操縦できる。同様に駅前再開発をすると、空間の匿名性上昇を通じて、援助交際を増やせる。威嚇的命令による支配には、披支配者の不自由感が伴うが、2市場>3規範>4アーキテクチャーの順で不自由感は滅る。 そのため、被支配者が自己決定しているつもりで、支配者から見ると意図通りの支配が実現する。分かりやすく言えば、自ら喜んで支配に服する。これに抗するのは大変だ。自分は自由だと思っているので、対抗する動機づけが存在しないからだ。》
(宮台真司「書評:ローレンス・レッシグ『コード─インターネットの合法・違法・プライバシー』MIYADAI.com)
この部分を引いて鈴木謙介は《これ以後、アーキテクチャという用語は「人々に不自由感を与えることなく、設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」という意味で用いられるようになる》と言う。
椅子が硬ければ客は店への長居を“自発的に”やめる。ここまで来るともはや監視の目も命令も、従う側は意識することすらない。よって逆らいようもないということになるわけである。
海外の異文化を無意識に植民地化させてしまう力、茨木和生の難解さを視界に浮上させない力を持つものとしての季語の母性的(権力)がこれに近い機能を果たしているのかどうかは一概に言い難いが、通じるものを全く感じないわけにも行かない。
こうしたアーキテクチャ的権力の稼動において重要なのが「プラットフォーム」である。上記の比喩であれば「硬い椅子」に相当し、「教師の目」に成り代わって、人の自発的行動の方向に影響を与えるものとしての基盤を指す。このプラットフォームの一例として「2ちゃんねる」とその開設者「ひろゆき」に触れている宮台真司のシンポジウム中の発言が示唆に富む。
《宮台 ひろゆきは、確かに「公共的なパーソナリティ」ではない、が、「あるプラットフォームができあがると人は面白がるだろうか、面白いことができるだろうか」と参照するクセがあります。だから彼は単に「公共的でない「のに」結果的に公共的なものを作った」のではありません。「プラットフォームの是非を人々の行動に関わる面白い面白くないという自己評価に即して考える「から」結果的に公共的なものを作った」のです。勘違いしちゃいけません。》
[共同討議]「アーキテクチャと思考の場所」浅田彰+東浩紀+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司(東浩紀・北田暁大編『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』日本放送出版協会 2009年、68頁)
そしてこの発言と極めて近しく共鳴する文言を、われわれはつい最近刊行されたカドカワムック『別冊俳句 俳句生活〈一冊まるごと俳句甲子園〉』の中の、夏井いつきの発言に見ることが出来るのだ。
《「俳句甲子園」という言葉を初めて聞いて以来、どんな大会にすれば高校生たちが食いついてくれるだろうと考え続けた。(中略)
既成の俳句大会のように俳句を募集し賞状を配る方式の「俳句甲子園」では、彼らは食いついてこない。あれこれ悩んでいるうちに思い出したのが、不肖ワタクシの卒論のテーマ「歌合わせ」だった。中世の優雅な遊びであった「歌合わせ」を俳句版にアレンジして生まれたのが、団体戦「句合わせ」による「俳句甲子園」だった。》
夏井いつきコラム③/団体戦「句合わせ」という発想(カドカワムック『別冊俳句 俳句生活〈一冊まるごと俳句甲子園〉』角川学芸出版発行 2010年)
これはまさしく「プラットフォームの是非を人々の行動に関わる面白い面白くないという自己評価に即して考える「から」結果的に公共的なものを作った」の一実例に他ならない。俳句甲子園というプラットフォームの設計がうまく行ったからこそ参加者はそれを楽しみ、イベントが公共性を持つことにもなり得たのだ。権力といえば即ち悪と発想が短絡しかねないのだが権力装置自体は科学技術と同じで使いようによるという面もあるのかもしれない。
ここで連想されるのがこの俳句甲子園と、もう一つの新しいプラットフォームである芝不器男俳句新人賞を糾合するような一書となった『新撰21』巻末座談会での編者高山れおなの発言である。
《逆に言えば、芝不器男賞と俳句甲子園がなかったらどうなってたんだろう、ってことですよね。》
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編『新撰21』邑書林 2009年 262頁
『新撰21』とは結局何が“新”しかったのか。自分も参加者の一人でありながらその点が今ひとつ判然としなかったのだが、ここにおいてそれが明瞭になってくる。参加作家の所属結社や師系や流派や思想や作風はばらばらであり、特に共通点はない。にも関わらず、単に実年齢が低く経歴が短いというだけの意味の新人をまとめた至極無難なアンソロジーに留まっているというわけでもない。
簡単にいえばこのアンソロジーは、現在における権力論的布置の変化に対応していた点が“新”らしかったのだ。流派でもなく結社でもなく思想でもなく公共的プラットフォームが更新の基盤になるという現状を反映し得た点こそが。
高校生による現代版団体戦「句合わせ」たる俳句甲子園、下読みなしで応募作全篇を選考委員全員が読み、無季も自由律も排除せず、選考会をも公開してしまうという形で公共性を獲得した芝不器男賞。この二つの新しいプラットフォームがアンソロジーの基盤となったというのは偶然ではない(似たような動きは恐らく他の領域でも多かれ少なかれ起こっているはずだ。すぐに思い浮かぶものとしては例えば現代アートにおける「GEISAI(ゲイサイ)」がある)。逆から見れば、これは結社や協会が相対的に機能しなくなりつつある(若手が集まりにくくなっている)のは何故かということをも照射している。それらは専ら第一の教室、第二の教室への対応により適したシステムだったからである(付言しておけば『新撰21』の人選には結社誌『澤』の20・30代作家特集号も大きく寄与しており、結社がひとしなみに無力化の一途を辿っているわけではない)。
『新撰21』は、匿名の一女性篤志家の出資によって書籍として刊行された。新しいプラットフォームから出てきた芽を形にまとめるのに、人と人との繋がりによるこうした予想外な贈与の一撃が必要であったこと、そして紙の冊子としての書物という物理的限定性を持ったメディアに変換しなければまだそれらは芽の状態のまま散逸していたであろうこと(電子出版元年といわれるこの時期に)等を考え合わせると、『新撰21』刊行の意味は、個々の作家の力量といったものとは全く別の次元において、権力論、メディア論、人類学等多方向の視線から俳句史と俳句の現在を照射する潜在力を秘めていたというところにあり、インパクトを持ちえた原因もそこにあったのだと考えられる。
蛇足ながらここで最初の「難解俳句」に戻れば、難解な作品が存在しない時代・国家というものは過去にあった。ムンク、クレー、カンディンスキーらの作品を退廃芸術として火にくべたヒトラー治下のドイツ、党からの「形式主義的」という批判が芸術家本人の生命の危機に直結したスターリン治下のソ連などがそれである。これらの全体主義体制は第一の教室に相当しようが、この体制においては、1920年代以降に出てきた新しい文化・芸術は存立を許されない。翻って現在の日本では「難解俳句」はともかくも存立は出来、批判されても身の危険は感じずに済む。それと引き換えにいわゆる「前衛」という形での、作品の内容・形式・エコール(流派)に拠った更新も無効となったが、代わりに現れたのがプラットフォームの設計に拠り、その上で“自発的”に遊ぶ参加者たちによる更新であったと見ることが出来るだろう。
この原稿が載る週刊俳句自体もそうした新しいプラットフォームの一つであることは言うまでもない。
[1]……週刊俳句 Haiku Weekly 2010-07-11
〔俳句総合誌を読む〕
海鼠の日暮
『俳句界』2010年7月号を読む 五十嵐秀彦
[2]……週刊俳句 Haiku Weekly 2010-08-08
『俳句界』2010年8月号を読む 久留島元
[3]……質問なるほドリ:新しい季語って、どうやって決めるの?=回答・大井浩一 - 毎日jp(毎日新聞)
[4]……帝冠様式 - Wikipedia
[5]……週刊俳句 Haiku Weekly: 前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する 関悦史
[6]……―俳句空間―豈weekly 2010年4月4日日曜日
山椒魚革命は起こらなかった
相澤啓三詩集『冬至の薔薇』と茨木和生句集『山椒魚』を読む 高山れおな
[7]……鈴木謙介「設計される意欲――自発性を引き出すアーキテクチャ」
(東浩紀・北田暁大編『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』日本放送出版協会 2009年、111頁)
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2010-08-15
週刊俳句時評 第6回 いわゆる難解俳句から季語の母性を経てアーキテクチャへ、それで結局『新撰21』は何が“新”しかったのかについて 関悦史
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