『別冊俳句 俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園』
「卒業生新作8句競詠」を読む(下)
生駒大祐・藤田哲史
『肋骨』 佐々木歩
I: 21人の中では熊倉さんと並んで地に足が着いている感じではないですか?伝統的な季語などを踏まえながらも自己の内面を象徴的に主題としている句風に好感が持てました。
F: 自分が俳句をつくる理由には、第六回に同じ高校から出場した10人の存在は大きくて、しかも佐々木さんは最後まで一緒に俳句甲子園で闘った人なので、久々に俳句を見れて、それだけで結構嬉しかったです。
I: 僕も同じ感慨がありました。※(生駒大祐は第6回と第7回出場)
F: 彼女にはあらかじめ自分の中に、ある美学、美意識があって、それに沿うように言葉をならべているところが高校時代からあったんですが、そういうところは、全然モチベーションとして変わっていない感じがしました。
I: その辺の美学はどうでしょう。例えば〈炎天や肋骨は身の内の牢〉や〈海水着脱げども赤児にはなれず〉などの句に顕著なものでしょうか。
F: そうですね。「少年性」が作品にある。そこに古典的な文学性を感じてしまうと、ちょっと損なんですけど。
I: なるほど。「肋骨」のような屈折や〈親指は飾り気がなし夕涼し〉の風通しのよさは少年性と表現してよいものかもしれません。反面〈夕焼ける風の吐息の染まるまで〉のような感傷が強く出すぎたような句はちょっと成功していないように思いました。
F: 言葉以前の本当に切実なところで作れているのかな、って疑問が湧いてしまう。古典的情趣をたっぷり纏う愉しさは、じゅうじゅう承知の上ですけど。
I: しかし、いわゆる「俳句想望俳句」のような、「俳句形式であること」自体に重心の置かれた句を作る若手が多い中、佐々木さんの場合は言葉を通して自己を語ろうとする熱意が伝わるように思います。
F: いや、その熱意が「古典的」に見えてしまうんです。結構佐々木さんの作品は暗喩が重厚なんですけど、それをどれだけ突き詰めても現代性が出ないかなって気がします。現代性が出ないというか、どれだけその方向で頑張ってもある時代の暗喩の重厚さには勝てないというか。〈片影に入りて失ふ己が影〉とかでも、主体の曖昧さを詠んでるのに、そういうテーマは今っぽいんだけど、ある俳句らしい言葉遣いでいなしてしまっているというか。〈炎天や肋骨は身の内の牢〉でも同じです。主題と言葉がずれてる感じがする。
I: 「肋骨」の句はある程度成功しているように思いますが。俳句は季語に主題性が強いので、自己を主題として読み込むのはもともと難しい。炎天はその中では良い斡旋だと思います。ストレートですが。
F: うーん、動くかな。
I: 炎天の激しさと、牢という言葉の静けさが対比として面白い。
F: じぶんは
鵜篝の中に闇入る余地のなし
などの一物のほうが好きでした。
I: それこそ古典的では?
F: うん、とっぷりと浸かっていて。そっちのほうが気持ちいい。
I: 僕は
親指は飾り気がなし夕涼し
のすがすがしさをいただきます。
F: 「飾り気がなし」が飾っている感じですよ。
I: いや、「飾り気がなし」できっぱり言い切れているので飾っているとは思いませんでしたね。身の内から出ている言葉です。
◆
『晴海通』 高島春佳
F: 〈かなかなや平安京が足の下〉でしたよね。最優秀賞になったのは。最優秀賞取った方は、その作品と比べられるのが辛いだろうな。
I: それは当然あるでしょうね。特に高島さんは非常に景の大きな立句で賞を取っているので。上手いところを言おうとしているのですが、一歩言葉の洗練度が及んでいないように思いました。
F: 洗練度はともかく、切れの運び方は一番オーソドックスな感じがします。無理に取り合わせていかない感じ。これは紫野高校の強みだった。
I: そうですね。言葉の意味の繋げ方が自然です。
F: だから言葉の洗練度に目が行くんですよ。
I: なるほど。一句選ぶならどの句ですか。
F: うーん、
巨大蜘蛛足長ければ空の色
の句かな。この仮定形の因果律のずらし方は、ちょっと他の人になかった。
I: 僕はそれ、非常に良いところを行っていると思うのだけれど、「巨大」の措辞が少し疑問です。
F: うん。そうね。
I: そこさえなければ21人の中でも相当良かった。僕は
草餅がひとつ透けたる主婦の午後
が変な句で好きでした。
F: 「ひとつ」って必要ですか?
I: いや、草餅が透けているだけでも普通に良いんですが、いっぱい草餅があって、ひとつが透けていると取りました。なんでひとつだけなんだろうと。不思議です。
F: それだけでも面白いじゃないですか。「主婦の午後」まで情報をつける必要があるのか。
I: 「主婦の午後」と「草餅」に因果を思わず探してしまう。その働きが面白い。
F: あと、「透けたる」は、「草餅」でも「主婦」でも「午後」でもいけますよね。切れが明確でないから。意味のとりずらさがある。
I: いや、「が」なので草餅でしょう、透けているのは。
F: 「草餅がひとつ」までで切れているとも、読めないことはない。「透ける」という発想がひじょうに飛躍しているから。「透けたり」で切ることも十分可能なわけで。
I: うーん、僕はそれは読めなかったな。普通は無理に中七の途中で切らないと思ったので。
F: なんだか、熱く語ってしまいました。
I: まあそれはそれで面白いんでは?当時を思い出しつつ。
◆
『ディベートクイーン~セーラー服とディベート機関銃~』 川又夕
F: 何よりもタイトルがよかった。タイトル勝負で言えば「ベストヒットウツノミヤ2010」とツートップでしょう。
作品に関して言うと、タメってのもありますけど「椎名林檎」世代なんだなって思う(笑)。
I: 椎名林檎感はあった。しかも初期の。これは新しいのかどうなのか。
F: 〈薄ら氷貴方の体温が識りたい〉の「識りたい」とか〈空高く想いは死んで仕舞えば善い〉の「死んで仕舞えば善い」とか。いわゆる「なんちゃって文語」ですよね。作品も歴史的仮名遣いと現代仮名遣いがちゃんぽんになってるでしょう。
I: そうですね。文語フェチ。御中虫さんもそうだし、トレンドなのかな。
F: どうでしょう。
I: 文体だけでなく内容も林檎調ですね。
一句選ぶなら僕は
マニキュアの剥がれるやうに花散れる
ですかね。全体の中ではちょっと浮いた、普通ともとれる句ですが。マニキュアが剥がれるという身体感覚と花が散るという外界の現象が結びついている。
F: この下五の「花散れる」の「る」のノリは、すごくよくわかる。終止形にするなら「散れり」か「散りたり」(かな?)なんだけど、それだとノリが合わないですよね、きっと。
I: そうですね。ここは「る」でいいと思います。藤田は?
F:
空高く想いは死んで仕舞えば善い
の句。この路線でつっぱしっていって欲しい。
たぶん、「ディベートクイーン」というのは、「クイーン」に比重がかかっているんじゃないかな。だから、やっぱりそれこそ「椎名林檎」路線ですね。
I: なるほど。川又夕さんの句だと〈戯れに鶏頭折れば曲がりけり〉が印象的でしたが、印象が少々変わりました。でも、推し進めた感じなのかな。
F: その句も、結構エロティシズムはいってますよ。
I: そうですね。今回の句を読んでそう思いました。
◆
『ベストヒットウツノミヤ2010』 宇都宮渉
I: 把握の曖昧さが良いほうに働いていると思いました。
F: 宇和島東のこの輩出するレートは、ナチュラルボーンなのか、先生がいいのか。(谷雄介・宮島・宇都宮・本多)。開成と同じだけの人数がピックアップされている。(山口・酒井・熊倉・村越)
一句選ぶとすると、どれですか。
I:
大海の虹を失うとき静か
ですね。大きい景が端正に詠まれている。
F: 申し分ない一句です。おおらか、おおらか。
I: 「虹を失う」の措辞なんか素直に上手いですね。しかも失う主体が空ではなく大海。虹は景が大きいですが海を入れたことで景はさらに大きくなる。「静か」というまとめかたも過不足ない。
F: 〈一月の夜をつくろふ薪かな〉もそうだけど動詞が上手い。面白い題材を持ってくるのは秀才でもできると思うけど、うまい動詞をもってくるのには才能が必要だと思う。〈黄金虫擲つ闇の深さかな(虚子)〉の「擲つ」とかさ。〈鎌倉を驚かしたる余寒あり(虚子)〉の「驚く」とか。
I: 〈ゆれ合へる甘茶の杓をとりにけり(素十)〉の「ゆれ合へる」とかね。
F: 自分が選ぶなら
新涼や吹き溜まりに蜻蛉の羽
おそらく「フキダマリニセイレイノハネ」と読みますね。それで音読のリズムは通るでしょ。このリズムの取り方にもなんとなく天才を感じる。蜻蛉の羽の透けている感じが「澄む」感じにつながっていくし。「シンリョウ」と「セイレイ」の音の類似感とかさ、上手くない?
I: 破調が気になっていましたが、「新涼」「蜻蛉の羽」という爽やかな言葉に吹き溜まりという負の意味のある言葉を斡旋するセンスは面白いと思います。
◆
『Campus』 本多秀光
F: 自己紹介のところの、「大学でクラウンをして笑顔を届けている。」のクラウンって何ですか。
I: クラウンというのは、例えばホスピタルクラウンとか言って、ピエロの格好をして病院をまわり、入院している子供たちに風船を配ったりするアレだと思います。
F: へー。いいね。いいよ。
〈れんぎょうを胸いっぱいにくぐる門〉って「もん」がのび太君ぽい「もん」だったら面白い。そういうの、狙ってるのかな。
I: いや、さすがに狙ってないでしょうが(笑)。
F: んとね、この人は意図的に切れ字つかっていない感じがするな。
I: 切れ自体はありますけどね。
F: そうね。動詞+「て」で軽い切れを入れたり。連用形だったり。 あとは、名詞で切れを呼び込むとか。なんとなく読んじゃうと見過ごすところね。それがトータルとして軽やかさを演出できてる。
I: なるほどね。「て」が多いなとは思ったけれど。
F: 「見えない優しさ」だね。
I: 一句とるなら
れんぎょうを胸いっぱいにくぐる門
F: それは・・・やっぱりのび太くん的なあれで?
I: いや、普通に良い句だと思いますよ。〈見てをれば鶏頭の門に入りにけり 川口重美〉をなぜか連想しました。その連想を分析すると、まず本多さんは名詞で終わる句が多い。それがまたリズムのよさを生んで、きっぱりと句が終わる。この句も「門くぐる」だと駄目なんですね。「くぐる門」とすることで、川口茂美の句と同じで門が脳の中に残る。
F: 「胸いっぱいに」は?
I: 甘いといえば甘いですが、「れんぎょう」「くぐる」などひらがなを多くしたことであえて幼さというか、童話的風景を出してきている。その点で「胸いっぱいに」も雰囲気を出しているんではないですか。
藤田は?
F: 自分が推すのは
新月を斬りて芒の誇らしさ
の句。謎句ですね。「新月」って、要は闇夜なんで。不思議でしょ、パッと読むと月が現われてるのね。
I: 朝の新月とか。駄目?新月の出ている高さが低くて月を芒が横切りやすいよ。それを斬ると表現したとか。
F: ああ。けれどもまぁ、穏当な読みは夜ですし。
I: まあ歳時記的には夜だわな。その謎が良いと?
F: あと、「芒の誇らしさ」って、芒はそんな「誇らし」いのかね。本意として。たぶん芒のしたたかな感じがテーマなんだよね。それは、本意の情緒とはちょっと違う。言葉は一見観念的に見えるけれど、結構芒をスケッチしている感じがして。「誇らしさ」の名詞形どめもさっき言ったようなことで、軽やかさなんですけど。文体も攻めてる感じがするし。気になる度では168句で一番でした。
◆
『雨か雪か』 村越敦
F: 東大俳句会の現幹事長で、すごく身近な人です。というか、本郷句会に出た句が出てる(笑)
I: 好きな句が多かったですね。上手さもあるし主観も結構出してきている。
F: うーん、それは村越的なのだろうか。
I: 上手いのはあくまで開成的であって本意ではないかもしれない。〈秋麗ワルツのやうに悪友来る〉なんかのワルツの比喩とか〈島影を街とも思ふ春の雨〉の「街とも思ふ」の主観などを、共感されないかもしれないと分かっていてあえて出すところなんかが彼にとっての「押し」なのかもしれない。
F: 自分は、イコマの意見とは異なって、統一感のなさを感じました。〈触れたれば若葉つめたしちぎり取る〉は「澤調」だという評が句会で出ていて・・・。
I: そうですね。岸本尚毅さんもちょっと騙されていた(笑)。
F: 村越君はもともと上手い人です。じぶんや生駒なんかよりずーっと。
I: そうでしょうね。今回の句で再認識しました。本郷句会でもよく点を集めています。
F: けれども自分が選ぶと
紅葉且つ散る石膏像に腕が無い
になる。
I: この放り出した感は面白いですね。
F: 越智友亮っぽいと言う人はいるかもしれない。
I: 越智くんぽいように見えるのは口語だからではないですか?
F: そーう?「腕が無い」のは、トルソならよくあるから、特殊な発見でもないわけで。そういうところは。
I: 他は〈山茶花に熱持たぬ紅ありにけり〉などのように基本的に落ち着いた文体なんですが。
F: 表題句の「濡れてゐる」も発想は口語なわけで。文体以前の、彼の脳はすごく口語っぽい、生なところを捉えている。そういう句がもっと読みたい、という、一読者としてのわがまま。わがままが言える人です。
I: 僕は
胃の中にうどんの残る枯野かな
ですね。この諧謔は良い。
F: なんとなく既視感がないですか?〈胃の中の白玉あかり根津谷中(中原道夫)〉などなど。
I: その句に関して言えばちょっと面白さの中心は違いますね。「胃の中にうどんの残る」までは完全に日常性なんですが、枯野で一気に古典的な情緒に飛ぶ。その飛躍の面白さです。
F: 五臓六腑系は俳人好みな感じがしたから。
I: うーん、そう言われると弱いですが。
F: 「枯野かな」の飛躍はおもしろい。
◆
『冬の灯』 中島強
I: 比喩的表現を多用することで新しさを出そうとしているのかな。ちょっと親近感がありました。いろいろと。〈絵葉書の一葉冬となりにけり〉の句のぬけぬけとした感じとか、〈枯芝に全てを投げ出せば、空だ〉の挑戦とか、好きですね。成功しているのは
溶接工火花に青く冬を接ぐ
や
臥すままに歌詠む冬の澱となり
かと。枯芝以外は全て「冬」という単語が入ってるんですよね。あえてでしょうが。季語ではなく季節自体を把握しようという意思を感じました。
F: 比喩は多いけど、飛躍は少ないから読みやすいかも。
I: 詠みやすいね。すっと入ってくる。ちゃんとディテールが書けているからもあるかも。「硝子の『温度』」「火花に『青く』」「臥すままに『歌詠む』」(〈冬草の硝子の温度なるを摘む〉)
F:
冬の夜の北極点を望む窓
は、どうですか。「北極星」でないのは?「天の北極」とかは聞くけど。地球の北極を意識しているのかな。そうしたら、幻想の句になるかな。
I: いやあ、これは北極星のことだと思う。「夜の北極点」で北極星のことを言っているのでは。
F: イメージの連鎖を呼ぶような微妙な操作があるよね。そういうの、個人的には好きかな。すごくメタ的な「北極点」である可能性もある。同様に「火花に青く」とかもそうでさ。ほんとうは火花では接がないわけでさ。火で接いで、火花はオプション。
I: でも意味としてはすっと頭に入りますよね。火花(の出る溶接)に青く。
F: そういうふうに読み手は理解する。勝手に色を混じらせるような操作ね。テレビ画面みたくね。
◆
『ひらがなノスタルジック』 中川優香
I: こっちは一読不思議な句がならんでいる。でも、よくよく読むと意外とベタなんだ。〈心中の手段教える桜かな〉の「心中」と「桜」とか、〈愛される不自由さ知れねこの恋〉の「ねこの恋」とか。〈グラウンドシューズ竜巻連れてくる〉は漫画っぽい世界を背景にしているのかな。
F: タイトルの意味は何なのか?作者に聞いてみたい。
I: 別にひらがなばかりではないしね
F: なんとなく藤田亜未さんの世界に近い感じがします。季語の選択のしかたも含めて。〈青林檎助手席に君乗せていく〉の「青林檎」など。
I: 全体に漂うロマンティシズムがそう思わせるのでしょうか。
一句取るなら
歪みゆく地球を歩く蝸牛
が不思議があらわで好きだった。「歩く」って。
君はどの句を取るの?
F:
心中の手段教える桜かな
I: これは桜が教えると取りますか?幻想の句になりますが。
F: もはや「桜」がキャラクター名に見えてきた。イコマのせいで。「漫画っぽい」なんて言うからさ。ああ、そうかって。
そしてそういう漫画らしさって、ある程度本質を突いているんじゃないかな。すごく季語がのっぺりしたメタ的な存在として扱われている。花に顔が描いてあるような思考回路があってさ。「紫陽花」の句にしても。言葉の全てに実体が出てこないのね。
I: 季語の歴史を背負った重層性と、漫画のような二次元の世界の薄っぺらさにギャップが生まれている。景をはっきりと結ばないよね。
F: 全ての言葉が、メタレベルで消化されててさ。それで、主題は、愛だったりして。アニメソングの言葉の使い方に似ている。
◆
『若夏』 島袋愛
I: 日常の中の言葉と季語を自然に結び付けていて、景がはっきりと結ばれますね。 一番俳句甲子園らしい8句かもしれない。
F: コンパスとか、定規とか、高校生らしい、といえば、その通りです。
I: コンパスは出てこないです。
F: 一句選ぶならば
若夏や髪かきあげて一結び
かな。さりげないけどね。内容とよく合ってる。その人が女の子ってのもわかるし、涼感がある。
I: 僕も同じ句を選びます。形がすっきりとしていて気持ちが良い。「若夏」とは琉球語で新暦5,6月にあたるらしいです。季語いいな。よく合っている。
F: うん。定型が生きている。
◆
『だいじょうぶ』 越智友亮
F: どうでした?越智友亮も身近にいる人ですが。
I: そうね。〈人には愛を水中花には水をやる〉の句などに見られるある種の傲慢さは越智君の特長かと思う。こういうところを言っちゃえるのは、自分の表現に自信があるから。〈砂の城崩れて砂や夏の暮〉なんかはちょっと既視感があって越智君がわざわざ詠む必要があるかなと思った。
F: 上田信治さんがね「普通だと、最初バランスが崩れててバランスを探していくものなんだけど、はじめに絶妙なバランスができちゃってて、そこからどこにも動けない人がいる。そこからバランスを崩すと苦労する人がいる」って言ってて。それにあてはまるかどうかはともかく、村越・越智の二人は自分の文体を模索中な感じがした。
I: 良い言い方をすればバリエーションが豊か、悪く言えば統一感のなさはあったね。「恋(愛)」という全体を貫くテーマは勿論あるけれど、文体として。
F: 彼に文語は似合わない。〈潮風にロープは強し夏つばめ〉で「強し」とか言っちゃったりして。
I: だから模索中なんでしょう。「や」もそういう意味ではあまり良くないね。「かな」「けり」に比べればいいけど。
F: 「砂の城」の路線で行くなら、さっさと第一句集を作らねばいけない。これまでの俳句は、すごいよかったのに。言葉は仮に若書きの「花」であっても永久保存されるので、もう少しそっちを掘り下げてからでもいい気はするけどな。
I: 一句取るならどの句を?
F:
砂の城崩れて砂や夏の暮
を取る。これが、現在の越智である。それが取る理由。
I: 僕は
コーラの氷を最後には噛む大丈夫
すごい飛躍があるんだけど、全体のテーマを「恋」としてみると共感する余地がある。僕は「コーラ」も現在の越智だと思う。まだ揺れがある。
F: そーう?越智の本質は「詰め込み型」でなく「勢い型」であって、それならば定型にはまっている「砂の城」が越智らしいと思った。
I: この夏の暮の収め方は旧来の俳句の収め方だと思うけれど。上中には勢いがあるけれど最後失速しているんでは?
F: うーん、季語の収め方はベーシックでいいんです。それは本意から離れすぎないことであるから。本意の勢いから、どこまで滑空するか、に賭けたいかな。
I: 勢いという点なら〈桜蘂降るよ傲慢なる恋よ〉〈ほたるほたる電話になると声大きく〉「人には愛を」なども勢いというか調べの滑らかさがあると思うけど。
F: それは破調を勢いに感じているだけです。
I: 勢いという述語の定義が・・・もっと議論を深めたいところですね。まあそれは別の機会に。
◆
F: まぁ、そんな感じです。
I: はい。お疲れ様でした。
F: おつかれさま。全体読んでどうでした?
I: 俳句にはいくつかの段階があって、その階段をみんな歩んでいて、それぞれ立っている段の色が違うなと。狙いが定まっているように見える人もそれが終着点ではなく次の段ではまた揺らぐ可能性もある。その上っている段数は年齢に比例せず。当たり前の話ですが。村越・越智が模索中と書いてたけど、年長組の紗希さんとかも結構模索している感じがして。
F: うーん。なんだかんだで「試してみた」感じの作品、多かったですね。いわゆるホームだからなのかな。俳句甲子園は。特に東京にいる人たちは。
I: 総合誌よりは幅の広い句が見られて良かったです。 単発の雑誌なのでいわゆる「空気を読む」ことができないから。
それではこの辺で。対談、お疲れ様でした。
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