2010-12-05

岸本尚毅インタビュー(1)「感覚」から「観念」へ

岸本尚毅インタビュー(1)
「感覚」から「観念」へ

今年11月、『俳句の力学』(2008)に続く評論集『高浜虚子 俳句の力』を上梓された、岸本尚毅さんをお迎えしお話をうかがいました。4時間(二次会含む)にわたるインタビューの内容を、3週にわたって掲載します。

2010年11月6日

聞き手 上田信治 生駒大祐 











『高浜虚子 俳句の力』


2010年11月・三省堂刊 1,680(1,600)円 272p
目次
第一章 虚無を飼いならした男(虚無を飼いならす/「虚子」とは何者か/虚子を貫く虚子らしさ)
第二章 俳句の力(沈黙の文芸/逆転の発想/絵にならない俳句/観念を詠む/俳句の不思議な力)
第三章 季題と想像力(「季題を殺す」/季題の風景/虚子と「月並研究」/俳句と想像力)
第四章 孤独な選者( 諷詠について/照れくささの美学/虚子『五百句』鑑賞/虚子亡き世に)
初句索引



●自分なりのノートとして

──新刊『高浜虚子 俳句の力』には、虚子を中心に芭蕉、石鼎、爽波などの作品を通じて、いま岸本さんが「どうやって」俳句を書いていこうと考えているかが、率直かつ明確に語られています。

こういう本を書かれた最も強い動機は何ですか。


岸本:この本のコアになっている部分、第二章の「沈黙の文芸」「逆転の発想」「絵にならない俳句」「観念をよむ」「俳句の不思議な力」という五つの文章は、私が30代半ばの時、「俳句研究」誌に「虚子現前」というタイトルで書かせていただいたものです。

波多野爽波が68才で亡くなりましたのが、私がほぼ30才くらいのときで。以後、先生がいない状態になったわけですが、その時、ちょっとまだ自分が俳句について心許ないという自覚がありましたので、これは虚子に行くしかないだろう、と。

もちろん爽波と虚子の俳句は違うんですが、爽波先生も、選者としての虚子を滋養にしてきたということがありましたから、作句も選句も力をつけていく必要があると考えたきに、俳句の最もベーシックな部分で、虚子がいちばん有益なんじゃないかと。

そこで、虚子の滋養を吸収するために、ノートを作るような気持ちで、虚子の論と句を照らし合わせて、自分なりの虚子像を得てみようというのが、書き始めたきっかけです。


●「観念」というキーワード

──本書のポイントとなる言葉に「観念」という用語がありますね。

人間は事実の中にではなく観念の世界に生きている(…)人間にとって事実より観念の方が切実だ、俳句にとって観念は事実に優先する、そう考えることが虚子の俳句を理解する一つの鍵となります。(「観念を詠む」『俳句の力』p.107)

俳句そのもの、俳句でなければならないものを突き詰めると、何が見えてくるでしょうか。五十一歳で亡くなった芭蕉が最晩年の元禄七年に到達したもの、八十五年を生きた虚子が生涯詠み続けたもの、それは「平凡な観念」と「練達の表現」の組合せだったのではないでしょうか。(同 p.123)

──観念という言葉は、これまで俳句の叱り言葉として使われてきた。

ところが岸本さんは、この言葉を、お考えの核を表わす用語として、ポジティブに使われています。
別の場所で「感覚に頼らない叙景」(「天為」「句集を読む⑨虚子と芭蕉(素描)『芭蕉句集』他」ということも書かれていて、要するに、岸本さんは、「観念」という言葉を、「感覚」の対義語として使われている。

岸本:「感覚」というのは、実作者の立場で、現場に行くと目や耳に入ってくるような視聴覚的な要素を、おおまかに「感覚」の世界と言っています。

「観念」というのは、現場に行かなくても、本とか、聞きかじりの知識から、じわっと醸成されるもので、宇宙観、自然観、あるいはネガティブに言えば、ステロタイプ、固定観念などを含むものですね。

自分自身の作句に引き寄せて言えば、第一句集の『鶏頭』には、皮膚感覚がぎらぎらしているようなところがありまして、なにしろ年齢が20代ですので、吟行に行けば、見るもの聞くものが新しい。私自身は若くして爽波先生のマネをしたおかげで、感覚的なものを五七五にするテクニックを、わりあい早くに身につけることができたので、そのやり方で、どんどん書いていきまして、第二句集の『舜』までは、そういう書き方を引きずっています。

その後、実年齢も俳句年齢もかさんでくると、どうしても「感覚がなまる」ということとですね、椿とか梅とかについては、感覚で捉えられる部分はもう詠み尽くして、自分の能力範囲は埋まってしまった、と言いますか、もう感覚の世界は残っていないことを、認めざるをえないわけです。

その上で、いちばん若かった時の自分を、自分で越えようとするならば、「感覚」以外に栄養を求めなければならないので、「観念」というところに首をつっこまざるをえないんですね。

──「感覚」より広いものとして、あるいは内側にあるものとして、「観念」ということを、お考えになっているということでしょうか。

岸本:そういうことですね。


●類型の海を泳ぐ

──本書で、岸本さんが挙げている「観念」の句というのは、たとえば虚子の、

 大海のうしほはあれど旱かな
 大寒の埃の如く人死ぬる
 陽炎がかたまりかけてこんなもの
 人生は陳腐なるかな走馬燈
 大いなるものが過ぎ行く野分かな


あるいは、芭蕉の


 あさがほに我は飯くふをとこ哉
 病雁の夜さむに落ちて旅ね哉
 此秋は何で年寄る雲に鳥
 物いへば唇寒し秋の風
 秋の夜を打崩したる咄かな


のような句です。また「感覚によらない叙景句」という意味では、

 冬日柔か冬木柔か何れぞや    虚子
 旗のごとなびく夕日をふと見たり
 日凍てゝ空にかゝるといふのみぞ
 雪に来て美事な鳥のだまり居る 原石鼎
 梅雨の海静かに岩を濡らしけり 前田普羅


のような句を挙げられています。

いっぽう「感覚」の句の例として、凡兆の
ながながと川一筋や雪の原〉〈市中は物のにほひや夏の月〉や、素十の〈鰯雲はなやぐ月のあたりかな〉〈空をゆく一とかたまりの花吹雪等を挙げられている。

「観念」の句というのは、いちばん単純化して言えば「思ったことを言ってしまう句」である、とも言えそうです。

しかもそれは、みんなが思っているような平凡なことでもいいんだ、と……。


俳句の力は、俳句の言葉と人々の心の中にある普遍的な観念とが共鳴するところにあります。観念そのものは平凡でも陳腐でもよい。ただその描き方は練達の表現、すなわち「平明で余韻のある表現」でなければならない、俳句にとって個性的な思想や観念も特別な境涯も必要ない、それが虚子の考え方でした。(同 p.122)

岸本:言い過ぎかもしれないのですけれど、たとえば社会心理学などの知見においては「人間の認知はステロタイプの塊である」と言えるらしいですね。

年を取ると、自分だけの物差しやフレームで物を見るということの、限界を意識せざるをえない。よく俳句では、感性ということが、褒め言葉として使われますが、感性はいつかなくなっちゃうよ、ということです。

──いわゆる叱り言葉としての観念については。

岸本:観念の世界は、ブラックホールのような吸引力のある「類型」に取り巻かれていますから、「類型」の罠にかからないように、泳がなければならないということでしょうか。

その泳ぎ方が分かっていて、昔からの他人様の垢の浮いているようなプールで、平気で泳いでいたのが、虚子、青畝。そうではなくて、自分の新しいプールを作ろうとしたのが、誓子や秋桜子、というふうに言えるかと思います。

──じつは、寺澤一雄さんが、江戸中期の三宅嘯山という人の句について、書かれていることがあって。


打上た花火ゆゆしきゆとり哉 嘯山
この時間をちょこちょこと写生するよりも、「ゆゆしきゆとり」と主観的に言い放ったほうが真実に近づくのである。  

秋の暮毎日あつて淋しけれ
 嘯山

普通のことを感情こめて俳句にしている。この直情は好きだ。

(寺澤一雄「江戸俳句・秋」2008年1月『晩紅』第29号/週刊俳句180号に転載)

──これは、岸本さんと、ほとんど同じことを言われているのではないかと。

岸本:ああ、そうですね。まったくそうだと思います。


●「観念」のチャンピオン・三橋敏雄

──ここで寺澤さんの言う「真実」というのは、どういうことだと思われますか。主観的に、普通のことや当たり前のことを言って、読者の心を動かす真実……。

岸本:上田さんの言われることに一番近いのは、三橋敏雄さんの句じゃないかと思います。

虚子、青畝、爽波という名前を出しましたが、そこには、敏雄を必ず加えなければならないと考えております。〈撫でて在る目のたま久し大旦〉とかですね。ぬっと当たり前のことをつかみだして、読者の前に差し出す。

爽波と虚子は「句触り」が違うんですが、敏雄には非常に虚子と似たところがあって、ある意味、感覚のチャンピオンが爽波で、観念のチャンピオンが敏雄というふうに言えるのかもしれません。そこに飯島晴子をもってくると、その軸が交錯するのですが(笑)。

三橋敏雄の、誰でもできそうでできない、俳句の力を、ある意味どうやって真似ようかという(笑)。

敏雄は、本人の意志としても作品の成果の上でも、俳句の根っこというものを、純粋に究めた作家だと思います。ものすごくオーソドックスな俳句であって、観念というものを一番すなおに流露させた作品ではないか、と。観念的であって、生々しい。現実以上に現実らしい、とも言える。

──〈石段のはじめは地べた秋祭〉とか〈表札は三橋敏雄留守の梅〉(笑)。

(笑)あれですよねえ。三橋敏雄さんの、個々の句を見ていったときの打率の高さ、一句一句、内容を言えば陳腐であったり平凡であったりするものを、練達の表現でなまなましく生き生きとした俳句にする、という驚きがある。

私は、ある意味で、三橋敏雄は究極の俳句の天才だと思っていて、もう仰いで止まない……モーツァルトを見るサリエリのような気持ちで、敏雄のことを考えますよ。彼の句を読めば読むほど、自分の能力の乏しさを実感するという……爽波先生の底力は、私としてはそれなりに見極めることが出来たという感じはあるんですが、三橋さんの句は怖い。

三橋さんのあの言葉の出しかた、言葉の出て来かたって言うのは、逆立ちしてもマネが出来ない。もっとも、彼には僕の句は作れないだろうなという部分もあるので、それが自分自身のアイデンティティになるような部分もあるわけですけど。

たぶん、言葉への依存度というのが、三橋は高いですね。爽波さんのほうが、即物的な手触りがある。それは、敏雄の、弱点と言っちゃいけないけど、あえて、その部分は残してくれたと考えて、爽波よりも観念的だけど、敏雄より即物的なところっていうのは、まだすこし自分にも耕す余地があるのではないかと、考えている次第です。

──後期の句集に注目されますか?

全体に渡ってです。初期の〈青のなか〉〈鐵バクテリア〉とか、あのへんはちょっと、あの時代の句だと思うんですけど。『真神』『鷓鴣』。…『長濤』もいい句集でしたねえ。


●「観念」と平凡陳腐を分けるもの

──あらためてうかがいますが、岸本さんの言われる「観念」と、平凡陳腐を分けるものは、何でしょう。虚子でいえば〈人生は陳腐なるかな走馬燈〉〈大寒の埃の如く人死ぬる〉のような句ですね。感覚は、その都度感じるもの。観念は、あらかじめ分かっていること。既知の内容を言って、なぜ、面白いと思えるのか。

岸本:説明しにくいところなんですが……。〈人生は陳腐なるかな走馬燈〉は句も陳腐ですからねえ。あれは名句ではない、ということは、言っておかなければなりませんが。

──前著の『俳句の力学』で、外山滋比古さんと飯島晴子さんの理論を援用して、「俳句のかたちで認識した世界」「つめたく心に進入してくる」(『俳句の力学』p.65)ということを書かれていて、あれは重要かな、と思ったんです。外山さんの言うのは、「感情移入」じゃないんだ、ということですね。

「心理の層で生温くなってしまうようなものは、そこで深化を止めてしまう」、その心理、感情のレベルのものが、平凡陳腐のレベルにとどまる、虚子のいわゆる「小主観」というものかもしれない。心理のレベルでキャッチされてしまうものは、体温で生温くなってしまうのだとしたら、心理、感情のレベルではないところに「つめたく進入」することが、観念が陳腐にならない、ということなのではないかと。

岸本:それは、まったくそうだろうと、思いますねえ。

『俳句の力』は30代で書いたものと最近書いたものが、両方入っているのですが、最近書いたものの言い回しで、比較的上手に言えたな、というところが二つありまして。ひとつは「虚子が詠むのは「日常」であって、「日常の哀歓」ではありません」(「虚子を貫く虚子らしさ」『俳句の力』P.50)というところで、わりと良く書けたなと思っているんです。

つまり「日常の哀歓」を、諷詠に乗せてしまうと、すごく陳腐になる。だから、哀歓は落として、哀歓の根っこにある「日常」という部分だけを描くならば、外山先生のいうように「つめたい」まんまですよね。哀歓をつけるとあったかくなっちゃう。そこは作句の重要なポイントですね。

──なるほど。言われてみれば、「日常」という観念なんて、あらかじめあるものではない。俳句で提出されてはじめて、カッコつきの「日常」というものが立ちあがるわけですね。

ちなみに、もう一つの上手くいった部分というのは……。

岸本:もうひとつは「無感動を装った無表情」「ノイズのような小感動を消し去る」というところで、ここは、正確に書けたかなと思っています。無感動・無表情という本質からすると、哀歓という部分はノイズなんですね。


虚子の本質は、無感動を装った無表情です。虚子の句は、ノイズ(雑音)のような小主観を消しさった俳句です。ノイズのような小感動を消し去ることによって、物事の本質がぬっと現れることがあります。それが、本当の意味の俳句の力です(同 P.49)


●ノイズの中から純度の高いものを掴み出す

岸本:これは悪く言うわけではないのですが、最初からノイズを切り捨てたような世界を一から構築する、髙柳重信のような作風と、虚子や敏雄はすこし違います。

私の好きなのは、ノイズのある世界から、ノイズをあえて消し去った、というんでしょうか。ノイズの中から純度の高いものを掴み出すプロセスがあるもの、そういうものには、強烈な手触りがあります。重信の句には、穀物から生まれたお酒ではなくて、初めからお酒として生まれたようなさびしさを感じる。私はすこし重信に冷淡なんですが。

虚子とか敏雄は、最後は物凄く純度が高いものに行ってるんだけど、その前段階ににノイズにまみれた作句のプロセスがあって、その電位差のようなものが、いわく言いがたい作品の力になっているのではないか、と。

爽波は、それを方法として明確に言っていまして。一つの季題で五句十句二〇句と作っていくと、深くなり、求心的になってくる。初めはノイズをノイズとして書き留めていくわけでしょうが、そのノイズを消していくわけですね。 

──(生駒)実験で、サンプル数をあげると、ノイズが減ってS/N比が高まるということがあるんですが、それに近いことでしょうか。

岸本:直感的には、それは間違っていないと思いますね。

──純度を志向する方向感覚があるんでしょうか?

岸本:爽波先生には、アンチ純度志向みたいなものもあって、両方ありました。虚子も敏雄もそうですね。〈山に金太郎野に金次郎予は昼寝〉みたいなね、おもろいやろ、みたいなものもありますね。

──〈鈴に入る玉こそよけれ春のくれ〉とか。

岸本:ちょっと美空ひばり的なうまさを見せつけたというか、手練手管を惜しげもなく誇示した作家でした。


●想像力・諷詠・共鳴


虚子の句の単純な描写は、単純さゆえに読者の想像を刺激し、なめらかな調子がその効果を高めます。「沈黙の力」を信じた虚子の俳句は、最晩年まで衰えを知りませんでした。(「沈黙の文芸」『俳句の力』p.71)

(最晩年の芭蕉の〈秋近き心の寄や四畳半〉〈此道やゆく人なしに秋の暮〉〈此秋は何で年よる雲に鳥〉のような句について)いわゆる「抒情」というほどの明確な情感もありません。ただ、ここに一人の人間がいます、というだけのことを、誰か別の人間に向かって、あるいは天地に向かって呟いている風なのです。(同 p.72)

──岸本さんは、虚子のボーッとした句と芭蕉の晩年の句をつなぐ線を引かれて、凡兆・蕪村から子規にいたる「絵になる俳句」との対照から、「観念」の句というものを析出されるわけです。そのとき本書で言う「観念」には、厳密に言うと二種類ありますよね。

時ものを解決するや春を待つ〉〈此秋は何で年よる雲に鳥〉と、〈冬日柔か冬木柔か何れぞや〉〈旗のごとなびく夕日をふと見たり〉の観念はそれぞれ違うといえば、違う。前者は「主観的叙景」、後者は「平俗の人の存問」。両方、絵にならない俳句ではあるわけですが。

岸本:そこは、この本を整理する上で、自分で自分が何を考えているかが分からなくなるいちばんの難所でございました。概念がきちんと整理されているか、正直、自信がありません。

──いえいえ(笑)、これは岸本さんに、その二方向が一つになる場所があるという直感が、あってのことだと思うんです。

岸本さんは以前、虚子の叙景句と月並的人生観の句について、単純に考えれば、虚子はたんに異なる作風を使い分けていた、ということだろう。だが、私自身はもう少し、このへんの事情を考えてみたいと思う」というふうにも書かれていましたし。


この二つの「観念」が一つのことになる場所というのは、岸本さんが言われる「想像力」「諷詠」という用語のあたりではないでしょうか。前著で言えば「内言語」の共有ということの近辺。

単純化と具象化という相反しがちな傾向を結び合わせるキーワードが「想像力」だと思います。(…)一句の言葉をそのような単純な状態に置くことが、俳句の言葉を最も力強く働かせる(すなわち読み手の想像力を喚起する)条件だということを虚子は知悉していました。(「俳句と想像力」『俳句の力』p.202

虚子の句は(…)読み手の読みを操る手管は玄妙です。構造は単純ですが、読み手がどう読むかを考慮した句の設計は巧妙です。(「俳句の設計思想」『俳句の力学』p.170)

読者の「脳中の理想」に訴える力(「沈黙の文芸」『俳句の力』p.65)

俳句における写生の本質は、作者が描写することではなく、読者に想像させることです。(…)写生は退屈な修行ではなく、むしろ読み手の心の中にある想像力というカンバスに自由に絵を描く愉快な営みなのです。(「写生と読みについて」『俳句の力学』p.83)

これらの句(〈悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし 爽波〉〈蜆買つて清浄の息吐きにけり 同〉)は、決して絵を描くような句ではありません。むしろ、作者が感得した直感的な印象(おそらくは、絵に描けないような何か)を、読者が想像力によって追体験できるように、句の言葉が読者の想像力を刺激し、喚起するように機能しています。(「絵にならない俳句」同 p.94)


──俳句の言葉というのは、他のどんな言語行為にも増して、読み手の想像力をあてにして成り立っている、ということですよね。言葉を操ることによって、人の頭に何かを起こすのが俳句だ、と。

「ものの一つかな」「即ちこれを」「いふことを」「思はずや」などの空洞のような言葉が、洞窟に反響する声のように一句を大きく響かせます。(「諷詠について」『俳句の力』p.211)

虚子の句は、写生と諷詠、描写と詠嘆、という二つの異なる言葉の働きを縒り合せたものです。(同『俳句の力』p.213)

外から入ってきた感じではなく、自分の心の中に埋もれていた言葉の塊に光りが当たってキラッと輝いたような感じ(…)俳句を介して作者の内言語が読者に共有されることが、俳句の目的であり理想であるとも考えられます。(「内言語について」『俳句の力学』p.196)


──「写生と諷詠」「描写と詠嘆」が、思ったことをつぶやくように書く、という意味で虚子においては区別がなく、それが、人の心をもっとも大きく「共鳴」させる言葉として選ばれている……そういうふうに考えてもいいでしょうか。

岸本:共鳴あるいは「共振」ということばは、かなり「諷詠」と近いですね。

──そう、うかがって安心しました。

岸本:どうしても説明不可能な部分はありますが、説明可能な部分については、あちこちに同じことばかり書いていますので、だいぶ分かりやすく言えるようになってきたのではないかと思います。ほんとうに説明不可能なことは、書いても仕方なくて、それは黙っているしか仕方がない。説明不可能な部分を、なるべく説明可能なほうに持っていくという努力はしているんですが、むずかしいですね。


●諷詠──遠回りする叙景

岸本:旗のごとなびく夕日をふと見たり〉というのは、目や耳の感覚を通過せずに、言葉で「遠回り」している叙景だと考えています。

──諷詠的な部分が、遠回りしながら、叙景の機能も果たしていると。

岸本:爽波先生の〈西日さしそこ動かせぬものばかり〉もそうです。古舘曹人さんが、爽波の晩年の句について「ついには叙景さえも捨ててしまう」と書いたことがありますが、目の前の物に飛びつかないわけですね。ピストルのように、まっすぐピンポイントで狙うのではなくて、迫撃砲や榴弾砲のようにいったん変なほうに飛び出した弾が迂回して命中する。目の前の物に向かって直進せずに、全体を大まかに狙っている。そういう写生が、虚子や、晩年の爽波にはあります。

──「たたずまい」ということを、以前岸本さんがインタビューで言われていました。爽波から学んだのは、「感情を切り捨てながら、ものの持っている、その風景の持っているたたずまいを言葉に乗せていくテクニック」(「恒信風4号」1996)であると。

岸本:そういうことかも、しれません。結果的に、あまり、即物的ではなくなってくる。一つ一つの物体でなくて、相互の関係を書くんですね。物体を省略しながら、物と物との関係に言葉の網をかけるようにして。見ている自分との関係もそこに書き込まれて、かっこよくいえば「空間を描く」ということでしょうか。

爽波晩年の〈老人よどこも網戸にして一人〉というような句は、他にはない世界です。『舗道の花』の句は、一つ一つのものが物体として描かれていて、分かりやすいですが。

──しかも、いちいちおもしろい。

岸本:それは、たとえば違和感というような、スパイスを使っているということですね。晩年の句は、そういうスパイスを使わなくても、出汁だけで食べられるというのがすごい。


●諷詠──「歌」にならないように

岸本:五七五であること自体、諷詠であることに等しいわけで、五七五で物を言うことは、予定調和的にならざるをえない。だから逆説的ですが、諷詠は、いかに「歌」でなくするかというのが問題です。五七五の韻律というのは逃れられないんですけど、それを気持ちのいい「歌」として読ませないということは、作者として考える必要がありますね。

五七五は、最低限度の約束ですから、器として五七五はあるんですけど、韻律の心地よさを、なるべくしずめるということでしょうかね、実作としては。

──調子よくなっちゃ、いけないと。

岸本:田中裕明さんの句なんかでも、隠し味のように頭韻があるなんていう指摘は面白いとは思うんですけど、逆にそういう音の効果を句の底に沈めるという考え方もあるかな、と思うんですよね。

──それは、言葉自体を意識させないように、透明にしていくような行き方ということですか? 以前、長谷川零余子の句と鈴木花簑の句を比較して、零余子の句は「作者と風景との間で言葉が通せん坊をしている」(「天為」「句集を読む③微動を求めて 長谷川零余子『雑草』(下))と書かれていて、なるほどなあ、と思ったんですが。

岸本:わりとテクニカルな問題でして、「山風の」と言うか「山の風」と言うか、どちらを選好するかというと、「山の風」を好むということなんですね。

──日常語に近い方がいいと言うことですか。

岸本:山風、と言ったときに生じるプラスアルファの情緒を消すために、山と風に分けたほうを選好するということですね。

句会などで人様の句にアドバイスするケースがあって、たとえば、母とか兄とか妻と言うのを、いったん全部「人」に替えることを提案します。そうすると意味が抜け落ちますから、つきはなした良い句になる確率は高いと見ます。もちろん、それをやると味が落ちちゃってだめだ、となれば、母でなければならない句というのが分かる。

言葉を透明にしていくというのは、具体的にはそういうことかなと。

(次号・(2)につづく)


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