2011-02-06

〔週俳1月の俳句を読む〕三島ゆかり

〔週俳1月の俳句を読む〕
困惑と活性
三島ゆかり


年越し蕎麦の蕎麦湯暗渠に合流す  池田澄子

「海へ去る水はるかなり金魚玉 三橋敏雄」を頭の片隅に少しだけ思い浮かべつつも、この句、不気味にして諧謔味がある。人々がいっせいに食べる年越し蕎麦のその蕎麦湯がいましも暗渠にて合流し、闇の中に滔々たる流れをなす。こんなふうに詠まれると、年越し蕎麦という行事がにわかにグロテスクなものとしてせり上がってくる。仮に「年越の蕎麦湯暗渠に合流す」でも意味は通じると思うが、大幅な字余りとして「年越し蕎麦の…」としたことにより、一層グロテスクさを増している。

 


我を見て笑ふ我あり初鏡 
岸本尚毅

「見て」から「笑ふ」までの遅延ないし逡巡がじつにほほえましい。それが「初鏡」であるのも、なんだか微妙な現実との距離感が感じられてよい。




片肺あずけられ遠くの水の繁り 
清水かおり

手に余る大切なものを託され世界が一変してテンポが変わってしまったような、困惑と活性を感じる。「肺」「水」「繁り」と言った生命感あふれる語の予期せぬ連結が鮮烈である。




門松やどの服からも顔が出て 
山田耕司

本来の機能を考えると当たり前の「どの服からも顔が出て」が、尋常もなく可笑しなことに感じられるのは、獅子舞とかの顔の出ないものを思い浮かべてしまうからなのか、お年玉の聖徳太子や伊藤博文の顔を思い浮かべてしまうからなのか。具体的なことは何も語らず雰囲気だけを添える「門松や」が心憎い。




世紀末過ぎてしまへば炬燵猫 
杉山久子

二十一世紀も早十年が過ぎたところで今さらのように「世紀末過ぎてしまへば」と詠むのだから、もはや老猫なのだろう。「炬燵猫」となる前の猫の青春時代と二十世紀末を重ね合わせ、そこに恐らくはさらに作者自身の人生も重ね合わせて、思いを馳せているのである。



去年今年血縁ふつと静かなり 
齋藤朝比古

血縁というのは不思議なもので、めでたいこともそうでないことも、立て続けに起こるかと思えば全然なにも起こらないこともある。年の変わり目に文字通り「ふつと」感じたのだろう。「静かなり」という抑制の効いた措辞もよい。味わいの深い句である。




理髪灯三途の川にふと灯る 
須藤徹

これは強烈なイメージである。闇の中にほんとうに訳もなく「理髪灯」が灯っているような気がしてくる。「三途の川」の「三途」とは何か、とか理髪店のサインポールはなぜ三色なのか、というあたりから理に落ちた説明を試みることも可能かも知れないが、私にはイメージだけで十分である。
 ついでにいうと、死ぬときは身だしなみ正しく死にたいものですよね(^^);



快楽は毛布荷風も舶来か  
井口吾郎

毎度驚きの回文俳句であるが、なんとも明治の雰囲気が伝わってくる。すばらしい。




薄氷の底に丸太のやうな鯉 
菊田一平

ずどんとそのまま詠んだ「丸太のやうな鯉」がよい。一呼吸でこういうふうに詠みたいものである。五七五のリズムと意味の切れ目のずれが、まったく自然にして心地よい。



池田澄子 感謝 ≫読む
岸本尚毅 窓広く ≫読む
清水かおり 片肺 ≫読む
山田耕司 素うどん ≫読む
杉山久子 新年 ≫読む
新年詠68人集 ≫読む
齋藤朝比古 大叔母 ≫読む
新年詠63人集 ≫読む
須藤徹 理髪灯 10句 ≫読む
ドゥーグル・J・リンズィー 師走の海 ≫読む
井口吾郎 ゴジラ飼う ≫読む
菊田一平 紀文 ≫読む
投句作品 ≫読む


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