2011-02-20

第100号~第109号より 小野裕三さんのオススメ記事

第100号~第109号より
小野裕三さんのオススメ記事


時折調べ物をするために、図書館などに行って昔の『俳句』や『俳句研究』を読むことがある。すると、結構硬派な記事が並んでいて、なんだか感慨深い。ちょうど今で言えば『現代詩手帖』みたいな雰囲気の硬派な文章(≒理解するのにかなりの時間を要する)が結構並んでいる。勿論、時代背景なども違うので一慨に比較して優劣をつけるつもりもないが、その頃の俳句総合誌の硬派ぶりにはいささか隔世の感がある。

とは言え、硬派な議論の好きな人は今の時代でも確実にいるはずだ。そしてもっと言えば、俳句史を前進させるためには、そのような硬派の議論は絶対に必要なのだ。そうでないと、確かに現代の俳句界は「俳句上達」至上主義に堕してしまったと言われても仕方がない。念のために言っておくと、僕自身は別に「俳句上達」自体を頭から否定するつもりはない。ひとつの美の形式を徹底的に追求する、ということが上達の本義と考えるので、その意味においては上達自体が悪だとは言い切れないからだ。ただし、一方でその全体の枠組み自体を根本から問い直す、という行為も並行して必要である。その意味で、やはり硬派の議論は必要なのだ。

とそんなことを考えると、この『週刊俳句』、いい按配で硬派な人々やその議論の受け皿にもなりえている気がする。

例えば第102号に掲載された、神野紗希さんの文章「<前衛俳句>の定義の必要についての覚書~二項対立の解体へ」。彼女は、意外に(?)ばさばさと断罪する文章を書くので、いつも読んでいて小気味いい。前衛俳句についても、やはりばさばさと断罪する。

そろそろいい加減、<前衛俳句>は正式に葬らなくてはいけないのではないか、というのが、私の正直な意見である。
この主張に勿論、賛否はあるだろう。賛否はあっていいし、むしろいろんな意見がなくてはおかしいと思う。しかしそもそも、こういう議論をすること自体は俳句史を前進させるために絶対必要であるし、にも関わらずこのような議論をきちんと公開の場でできる場所がこれまでなかなか見当たらなかったのも事実だ。

議論百出、でいいと思う。多くの人がその思いを込めて一石を投じ合うことで、俳句史は前に少しずつ進みだす。長らく俳句史を前に進めることを怠ってきた我々の前に、『週刊俳句』のような場ができたことはあらためて意義深いと感じる。

そしてそのような硬派の一方で、読み物として楽しい、というのも『週刊俳句』の特長だろう。俳句の一番の醍醐味はとにかく仲間とわいわいやって楽しい、という点にあるのも実は単純な真実だ。その意味で、第107号の「いつき組」まるごとプロデュース版は、いい。のっけから「俳句はエンターテイメントだ!」(夏井いつき)と宣言して、これも小気味いい。そして、「六時間耐久兼題句会」の実況を記した「六時間耐久ラブワゴン」(谷さやん/金子敦)のわくわくするような臨場感がたまらない。楽しくなければ俳句じゃない! そう言い切ってしまいたい衝動に駆られる、俳句の魅力を満載した特集号だ。



≫既刊号の目次 101-120

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