〔週俳1月の俳句を読む〕
〈現実〉を開くものは、何か/何が、見えているのか。
田島健一
初夢につながれている兎の眼 四ッ谷龍
読み手を作品に繋ぎとめるものは、何なのでしょうか。おそらく、それは作品に書きこまれ、読み手を見つめ返してくる〈現実〉ではないでしょうか。「つながれている兎」は、もちろん「初夢」のなかの出来事ですが、私たちが間違えやすいのは「夢」こそが私たちの〈現実〉そのものだということです。おそらく私たちは「初夢」のなかで見つめる「つながれている兎の眼」から逃れるために、「初夢」から目覚めるのではないでしょうか。私たちが〈日常〉だと思っているものこそが、「つながれている兎」の視線から逃れることのできる唯一の場所なのかも知れません。
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葉牡丹や安楽椅子の揺れにゐて 齋藤朝比古
「揺れ」という言葉があたりまえのように置かれていますが、この句を読む手がかりはこの「揺れ」にあると思います。大事なことがふたつあります。ひとつは、実はこの「揺れ」という語そのものは機能的に働いていない、ということ。そしてもうひとつは「揺れ」それそのものは、他のもの(「安楽椅子」)がなければ存在することができないということです。〈葉牡丹や安楽椅子に座りゐて〉でも、事実関係は変りません。しかし「揺れ」という語が置かれることで、この句では「安楽椅子」の「安楽」という概念が繰り返されます。それによって「揺れ」は「安楽」という概念からずれて、少し不安な空間が開けてくる。それによって「にゐて」という主体の位置づけが不自然にならないのではないでしょうか。中七下五のやや不安な感じに対して「葉牡丹」という存在感のある季語が効果的に置かれていると思いました。
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元日にゆふぐれのあり手足あり 村越 敦
何かが象徴空間からずれてその特殊性を失い、一方で異なる象徴空間に再登録されることで、あらためて崇高さを取り戻す瞬間があります。「元日」から「元日のゆふぐれ」への移行が、まさにその瞬間なのではないでしょうか。「手足」という身体の最も活動的な部分に再帰的に焦点をあてたことで、忙しない元日の「ゆふぐれ」という時刻の寂寞とした思いを感じました。
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落款押す井戸蓋に雪降るように 須藤 徹
どうにも説明し難い句というのは、採りあげ難いのですが、それだけに魅力にあふれています。句のかたちだけを言えば、上五を中七下五で喩えているのですが、どうもそう単純ではないようです。おそらく作者の意図は「落款押す」ことと「井戸蓋に雪降る」こととの類似性を指摘することではないのでしょう(ま、言うまでもないことかも知れませんが・・・)。「雪降るように」─「落款押す」だけであれば、単純な直喩として読むことが可能かも知れませんが、「井戸蓋に」があることで、イメージが鮮明になり過ぎるのです。この言葉が〈現実〉を開いているのだと思います。つまり、「井戸蓋に雪降るように」─「落款押す」であると同時に、「落款押す」ように─「井戸蓋に雪降る」というもうひとつ世界がどうしても見えてきてしまう。文法上は「井戸蓋に雪降るように」の部分は喩えに違いないのですが、〈現実〉は「落款」も「井戸蓋」も「雪」も質量をもったものとして、そこにある。文法上は辻褄が合わないのかも知れません。ほんとうに説明し難いのですが、ま、魅力的なものは辻褄が合わないことも、ままあるということで。
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2011-02-06
〔週俳1月の俳句を読む〕田島健一
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