2011-02-06

「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか? 福田若之

「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか?

福田若之

1. はじめに――「俳句想望俳句」の文脈を可能な限り正確に捉えるために――

「俳句想望俳句」という語の初出は、2009年12月23日に発行された『セレクション俳人 プラス 新撰21』に載せられた、越智友亮の作品「十八歳」に寄せられた小野裕三の文章「俳句を継ぐ者――越智友亮小論」であると思われる(小野は俳句誌「豆の木」に掲載された文章「『俳句想望俳句』の時代 2010年代の俳句を占う」の中で、「それは論の文脈上思いついた造語であり、比喩的に使った言葉だった[1]」と述べている。また、「豆の木」に掲載されたこの文章は紙媒体で発表された後、ネット上の俳句総合誌「週刊俳句」にそのままのかたちで転載され[2]、結果として俳句に対する関心の強い人々の目に広く曝されていることと思われる[3]が、「俳句想望俳句」が小野の造語であるとすることに対する反論も、反証となる資料も、筆者の手の届く範囲には2010年1月4日現在のところ見られない。こうした現状からして、もちろん「俳句想望俳句」という語がこれより過去の文献の中でまったく同様の文脈において使われたことが一度もないと完全には断言することが出来ないにしても、私見としては、ひとまずそう推定しておくのが妥当かと思われる。なお、この割注は小野の述べている「俳句想望俳句」に対する筆者の認識を補足するためにつけたもので、小野の提唱する「俳句想望俳句」が純粋に小野の定義によるものであるかどうかは、ひとまずこのレポートの論旨とは無関係である)。小野は、「俳句を継ぐ者」の中で「若さが今の俳句にとって持つ大きな可能性のひとつに、俳句を『まっさらな目』で見られることがあると思う。例えば、俳壇をめぐるさまざまな歴史や対立が残した悪しき先入観がなくて済むということもある。そしてそれ以上に、俳句を純粋な詩的フィクションの対象物として見られるということもある。旧仮名も歳時記も、最初から一種のフィクションと割り切って接することができる。であるがゆえに、それは彼らにとって最初から詩を産出する異空間として存在しうる。喩えて言うなら、新興俳句の俳人たちが季語・歳時記を離れて異空間としての『戦争』から詩を紡ぎだそうとした『戦火想望俳句』があるが、その構図がちょうど逆転してしまった。今、彼らの目の前には異空間としての『季語・歳時記』がある。あるいは異空間としての『俳句』がある。彼らが紡ぐ俳句は、『俳句想望俳句』とでも名づけるべきか[4]」という形で、現代の若手俳句作家の作品に対する呼称として「俳句想望俳句」という語を提唱している。

ここでひとつ注意するべきは、小野の「俳句を継ぐ者」は越智の作品に寄せられた文章であるが、その中における、「俳句想望俳句」の提唱は明らかに越智以外の若手作家の俳句を強く意識してなされているという点である。その証拠に、たとえば前掲の引用の中に「俳句を純粋な詩的フィクションの対象物として見られるということもある。旧仮名も歳時記も、最初から一種のフィクションと割り切って接することができる。であるがゆえに、それは彼らにとって最初から詩を産出する異空間として存在しうる[5]」とあるが、越智は旧仮名を「十八歳」の中ではいっさい用いていない[6]し、新撰21竟宴シンポジウムの中で、『新撰21』に収録されている他の作品に対する印象として、「全体的に歴史的仮名遣いの方が多いなということを非常に感じました。(中略)なんでわざわざ今の言葉を歴史的仮名遣いで書くのかというのがすごく疑問で、それが俳句を俳句らしくしているっていうような感じがして、少し受け入れ難いなと思いました[7]」と語っている。「俳句を継ぐ者」の中で「俳句想望俳句」は、「二十一世紀最初の新人たちの作品集というコンセプト」で編まれた『新撰21』[8]で歴史的仮名遣いが多数派を占める、まさしくそういう若手の俳句全体を指す言葉として、提唱されているのである。

そしてそれに次ぐかたちで、「『俳句想望俳句』の時代」の中で、小野は「俳句想望俳句」を、越智の作品から離れたかたちで再定義している。この文章の中で小野は、「『俳句想望俳句』は俳句に対する『肯定』から始まる[9]」とし、さらに「俳句想望俳句は、俳句を全肯定する。さらには、俳句を偏愛する。俳句に見られる作法を、その美意識を。その姿かたちや立ち振る舞いのすべてを。それは、一種のフェティシズムですらある。俳句に対するフェティシズムであると同時に、それを支える俳句的美意識に対するフェティシズムでもある。もっと言えば、日本語や日本文化に対する一種のフェティシズムともそれは繋がりうる[10]」と述べているのである。そしてこの定義は、「俳句を継ぐ者」の中での定義とはいくぶんか異なっているように見える。また、その論旨も、「俳句を継ぐ者」が現状に対する認識を述べたものであったのに対し、「これまでの俳句の遺伝子をすべて肯定するところから、次の十年は始めてみるべきなのだ[11]」と、いわば個人的な理想を述べる「べき」論に終始してしまっているように感じられる。

2. 『記号の国』という「歳時記」

上で見てきたように、「『俳句想望俳句』の時代」における小野の論には飛躍がある。そこで、その飛躍の穴を埋めるためにも、ここではまず、小野が、「俳句想望俳句」とは「俳句に対するフェティシズム」であり、「俳句的美意識に対するフェティシズム」であり、「日本文化に対する一種のフェティシズム」とも繋がりうる、という趣旨の論述をしている[12]ことに注目したい。ここにはロラン・バルト『記号の国』の「このような」の中で述べられている彼の認識、すなわち、「結局、わたしが俳句とよぶのは、不連続な描線すべてのことであり、わたしの読みに提供されるような日本の生活のできごとすべてのことである[13]」という認識と相通ずる感覚があるように思われる。ロラン・バルトの言う「描線」とは、「書き手が自分自身についてあたえたいと思っているうぬぼれたイメージから解放されているので、雄弁に表現することはなく、描くものをただ存在させるだけ」のようなもの[14]である。そしてここで言われる「日本」は、「ささやかな現実をえがいたり分析したりすること(西欧の言説の多くがみせる態度だ)などまったく望まずに、世界のどこか(かなた)の国からいくつかの描線(書画についても言語についても用いられる言葉である)を採取して、その描線から意図的にひとつの体系を作りだすこともできる。そのようにして作りだした体系を、わたしは日本と呼ぼうとおもう」というロラン・バルト自身の言葉[15]に基づけば、現実の日本から採集されたいくつかの描線から作り出された虚構の体系としての日本である。複数の「不連続な描線」つまり複数の「俳句」を採集して綴りなおしたものとして、『記号の国』は編まれている。

複数の俳句を採集して意図的に作られたひとつの体系、といって想像されるのは歳時記である。2009年版『俳句年間』に掲載された、片山由美子による巻頭提言「歳時記を考える」でも「近年、歳時記と実生活が大きくずれているという指摘がある。西瓜が秋の季語であるのはおかしい、というように。暑い夏に食べてこそのものであり、夏に分類すべきであるというので、実際に夏の季語にしてしまった歳時記もある」と述べられている[16]。このように、歳時記というのは、現実の日本の生活から乖離する可能性を持った虚構である。

上の片山の文章をなぞる形で考えてみると、たとえば、「西瓜」は『合本 俳句歳時記』には「秋」の季語として収録されていて、「栽培法の進歩で初夏のころから出回るが、もとは初秋のものであった」とその理由が説明されており、例句には

こけざまにほうと抱ゆる西瓜かな 去来

をはじめ、「秋」の季語として「西瓜」を詠み込んだ句が並ぶ[17]。こうして「秋」の季語としての「西瓜」が成立するのである。さらには、こうした虚構としての「秋」の季語が集積されることによって、虚構としての「秋」が成立し、同様の手法で作り出された「春」、「夏」、「冬」、「新年」と並列されることで、全体としてひとつの虚構としての季語の体系、歳時記が成立する。そして、その歳時記から読み取れる「日本文化」は、架空の「日本」の文化であるといえよう。さて、このことは上に見た通り『記号の国』についてもいえることで、日本に取材しながら、筆者の目に止まった「描線」のみを抽出した結果として、そこに描き出されるのは(まさしく「描き出される」という叙述は筆者の以下の認識から来るものであるが)虚構の体系としての「日本」である。そういう比喩的な意味で、ロラン・バルトの『記号の国』はひとつの「歳時記」であるともいえよう。

歳時記が虚構の体系であることに対して俳人たちが自覚的になったのは、片山によれば「近年」のことである[18]。自らが素材としている「日本文化」が、ひとつの虚構であると認識していることは、小野の想定する「俳句想望俳句」の作り手(完全にそれと思考が一致する作家がいるかどうか、はひとまず置いておく)とロラン・バルトとのひとつの個性的な共通点であるといえよう。

また、ロラン・バルトは『記号の国』で、「わたしにとっては東洋はたんに描線の宝庫なのであり、それらの描線を響きあわせたり、思いつきで戯れたりすることで、西欧の体系とはかけ離れた驚くべき象徴体系についての考え方を『かきたてる』ことができるのである」と述べている[19]。このロラン・バルトの「描線の宝庫」に対する向き合い方は、「俳句想望俳句」の作者たちが虚構の体系を土台にして俳句を作ろうとする姿勢と同一のものなのではないだろうか。ロラン・バルトのこの文言を小野の想定する「俳句想望俳句」の作家たちの意識にひきつけてもじると、こういうことになるだろう。「『俳句想望俳句』の作家にとっては歳時記はたんに想望の対象としての俳句の宝庫なのであり、それらの俳句を響きあわせたり、思いつきで戯れたりすることで、いまここにある現実生活の体系とはかけ離れた驚くべき象徴体系についての考えを『かきたてる』ことができるのである」

では、小野の想定する「俳句想望俳句」の作家が歳時記から考える「現実生活の体系とはかけ離れた驚くべき象徴体系」とは、何であろうか。

小野は「『俳句想望俳句』の時代」のなかで、「俳句想望俳句」について述べたつづきに「もうひとつ、次の十年間に注目すべき動きとしては、やはりネット俳句の動向を挙げておきたい。俳句に限らず文芸、もしくはもっと広く言って文化全体を変革しうるものとして、やはりインターネットの存在は無視できない。しかし、当然ながらネットで俳句活動を展開すれば、自然に俳句もしくは俳句界が新しくなるという単純なものではない。もっと質的な変革に踏み込んだ『俳句2.0』の登場が期待される。そして『俳句2.0』の登場のためには『句会2.0』もしくは『選者2.0』が必要となる。要するに俳句を生成(句会2.0)して精製(選者2.0)する仕組み自体が進化せずして、新しい俳句の潮流も起きえない、ということだ。そしてこのことは、決してこれまでの俳句的遺伝子を肯定して偏愛する『俳句想望俳句』とも矛盾しない」としている[20]。小野の想定する「俳句想望俳句」の作家が歳時記から考える「現実生活の体系とはかけ離れた驚くべき象徴体系」とは、少なくとも小野の想定の中では、まさしくこの「俳句2.0」なのではないだろうか。

3. 「俳句想望俳句」と『第二芸術』

ところで、そもそもなぜ小野は「俳句想望俳句」にこうした期待を抱くのだろうか。この問いに答えるには、小野の俳句史観に触れる必要があるだろう。「近代という時代との軋みの中で、俳句を突き動かしてきた衝動は俳句に対する肯定よりもむしろ否定だった。俳句から逃げようとする力が俳句を進展させてきたし、実際に新興俳句、前衛俳句と呼ばれた運動もそういったものだったと位置づけることができるだろう。それは言い方を変えれば、俳句という器に俳句以外のものを盛り込もうとした力だったと言ってもいい。近代という時代が持つそのような暗黙の衝動と連動するように『第二芸術論』もあった。逆説的ではあるが、俳句という存在を全否定しようとした『第二芸術論』の姿勢こそ、近代俳句の進化を突き動かしてきた力と同一のものだった」と小野は語る[21]。ここでいう「第二芸術論」は、桑原武夫『第二芸術』所収の、「第二芸術――現代俳句について――」に見ることが出来る。この文章の初出は敗戦からまもなくの、雑誌『世界』1946年11月号である[22]

およそ芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは、あえてアランを引き合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである。しかるにかかる修行法が、その指導者によって説かれるというところに、私は俳句の命脈を示すものを感じる。そして、その描かんとするものは何か。『自然現象及び自然の変化に影響される生活』、言葉をかえてはっきりといえば、植物的生である[23]」「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかしかかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか[24]」「しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を『第二芸術』と呼んで、ほかと区別するがよいと思う[25]」「もし文化国家建設の叫びが本気であるのなら、その中身を考えねばならず、従ってこの第二芸術に対しても若干の封鎖が要請されるのではないかと思うのである[26]

小野の認識で近代俳句を捉えるならば、それは極めて卑屈なものに映るであろうということはこの引用から容易に想像できることであろう。「第二芸術論」の姿勢がそれを動かしてきたという前提のもとに近代俳句史を捉えるならば、それはおそらく、他の芸術へのひけ目を感じながらそれらへの模倣をしてきた俳句の歴史であるとともに、国家のために俳人たちが自主封鎖をして細々と俳句を作ってきたという歴史であると認識されるだろうからである。

そして、小野が「俳句想望俳句」にこだわる真意もここにきて見えてくる。つまり、俳句が「第二芸術」とされる理由の一つは、それが「他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとする」から[27]であって、俳句を偏愛することで、すなわち俳句のみに俳句の方法を学ぶことで、「第二芸術論」の呪縛から解放されることを願っているのであると考えられる。

4. 「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか?

しかし、そもそも「およそ芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは、あえてアランを引き合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである[28]」ということ自体が、はなはだ疑問であるし、「あえてアランを引き合いに出すまでもなく[29]」などというが、実際には引き合いに出せるほど説得力のある論述が見出せなかったというだけなのではないかと勘ぐりたくもなる。筆者の興味の範囲で(しかしあえて筆者の個人的な好みそれ自体を根拠に語ることを避けつつ)反例を挙げると、たとえば大塚英志によれば「村上春樹の小説はある部分でサイコ・サスペンス映画や、ラヴクラフトやブラッドベリといったアメリカのパルプフィクションやホラー小説、あるいはもっと昔の、アメリカの三流雑誌のラフカディオ・ハーンといった『ジャンク』な物語をかき集めてつくられている [30] 」が、高橋源一郎が「本屋の店頭を村上春樹(ほんとうは「ハルキ・ムラカミ」なのかも)の『1Q84・BOOK3』が埋め尽くしている」と表現した[31]光景は、筆者の記憶にも新しい。あるいは、ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスは「コミックを描くようなカンジで、作曲していくんだ。ミュージック・コミックっていうのかな。頭の中に浮かんでくるものに耳を傾けて、奇妙なフラッシュ・バック体験みたいなカンジで描いていく。音にはストーリーがある。『フォクシー・レディ』もそうなんだけど、音と言葉とは切り離せないものなんだ」と語っている[32]が、この「フォクシー・レディ」はヘンドリックスがアメリカでの成功を決めたライブの曲目のひとつだった[33]

もちろん、人気や売れ行きだけが作品の芸術性を測る指針となるわけではないだろう。しかし一方で、こうした作品およびその作り手の人気は、これら作り手の作品の芸術性が数多くの人に認知(理解ではない)された結果として生じたものとも思われる。

そして、実のところロラン・バルトも「他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとする[34]」作者のひとりであった。「俳句という短い形式の魅力に触れたことによって、彼は『断章(フラグマン)』について考えはじめる。それ以前にも短い形式を多用していたバルトであったが、自分のえらぶべき形式として断章を意識するのは、この『記号の国』がはじめてである。その二年後には、断章形式を理論化して語り、みずからのエクリチュールとしてさだめることになるだろう。 さらに、この作品では『わたし』という言葉がもちいられていることも重要である。『わたし』は六○年代のバルトがけっしてもちいなかった言葉だからである。バルトの考えによると、『わたし』とは、批評家の書きえない、小説家だけが書くことのできる言葉であった。しかし、俳句に出会ったことによって、バルトは『わたし』の新たな可能生(本文ママ……福田註)に気づき、みずから『わたし』を書いてみたいと思うようになる。それゆえに、この『記号の国』は、第一行めから『もしわたしが……』とはじめられている」と石川美子は分析する[35]。この姿勢の違いは、小野の想定する「俳句想望俳句」の作家たちとロラン・バルトとの間にある大きな相違だろう。

ロラン・バルトは俳句に多くを学んだが、一方で彼には、「西欧人が拒まれている言葉である俳句[36]」という言い方や、「俳句においては、言葉を制限するために、私たち西欧人には想像もつかないような配慮がなされている[37]」といった上で「言葉に節度を持たせることには西欧人はもっとも向いていない[38]」とする論調にうかがえるように、西洋人である彼自身には俳句を(少なくとも、「日本」的な俳句を)詠むことはできないという意識があり、だからこそ、その上で何か新しいものを作り出そうとしたのである。
一方で、小野の想定する「俳句想望俳句」の作家たちについて、高山れおなは、『俳句年鑑 2011年版』に掲載された文章「俳句想望と昭和想望」の中で、自らに最も刺激を与えた“今年の評論”として、小野の「『俳句想望俳句』の時代」を挙げ、このような分析をしている。「『戦火想望俳句』をもじった『俳句想望俳句』という用語がなんとしても鮮烈である。近代(小野は特に『戦後』を意識している)の俳句表現上の遺産を総体として肯定することから始めようという提言であり<俳句固有の磁場>の肯定によって、俳句外の価値観(そのもっとも端的な例が第二芸術論)を背景に持っていた伝統派対前衛派という硬直した図式を止揚しようとする意図は悪くないようではある。しかしこれに、筑紫が提示した構図を引き当てるとどうなるか。すなわち、俳句の技法的な遺産を、理念抜きで『俳句上達』の資本と化すためのセオリーということにはならないか[39]」。文中の「筑紫が提言した構図」について少し補足すると、高山は筑紫磐井がブログ『俳句樹』に発表した「長編・『結社の時代』とは何であったのか」という文章から「実際、現代の俳句の至上の理念は『俳句上達』である。多くの賞の評価基準は『俳句上達』である。また、これからどんな若い世代が登場しようとも、『俳句上達』の枠の中で活躍するに止まるのではなかろうか。なぜなら彼らは『俳句上達』以外の俳句を知らないから」という文章を引用している[40]。文脈上、「筑紫が提言した構図」とはまさしくこの構図のことを指している語と捉えるのが自然だろう。高山の推論が正しいとするならば、小野の想定する「俳句想望俳句」の作者とは「俳句外の価値観」を捨てることによって既存の俳句の技法的な遺産を「俳句上達」の資本にする作り手、ということになり、その作品は既存の俳句技法を習熟していくことになる。「俳句想望俳句」が伝統俳句や前衛俳句の技法を模倣するとき、その理由は直接的にはフェティシズムなのである。先人の俳句を巧いと思うけれど、先人と理念をひとつにはできないから、先人の俳句の文体を形式的に模倣する。そして、その文体を会得しようとする。そうすることで、先人の俳句の形式を上手に使いこなした俳句が詠めるようになる。それをもって俳句が上達した、という。「俳句想望俳句」は「俳句上達」と必然的に結びついているのだ。そしてそこには「先人のような巧い俳句を詠みたい」ということ以外に、理念的なものは存在しない。

ところで、バルトの俳句に対する理解には言語的制約が伴っていた(「バルトが手に入れることのできた俳句関係の本はごくかぎられており、山田菊による一九二〇年代のフランス語訳と、ブライスによる英語訳くらいしか見あたらなかった[41]」)ため、かえって彼は韻律や定型といった形式そのものに気をとられることなく、俳句をその理念から認識することができた。そして彼は「俳句の短さとは、形式上のことではない」と語るのである[42]。彼は「俳句においては、言葉を制限するために、わたしたち西欧人には想像もつかないような配慮がなされている。なぜなら重要なのは、簡潔であることではなく(すなわち、シニフィエの密度を減じずにシニフィアンを縮めることではなく)、その反対に、意味の根幹そのものに働きかけることだからである。そうして、その意味が噴出したり、内在化したり、暗黙裏に認められたり、解き放たれたりすることのないようにする。隠喩の無限の広がりのなかや、象徴が作用する諸領域のなかに、意味が流れ出したりしないようにする」と[43]、その短さが、意味の曖昧さ、隠喩的な難解さを忌避するために選ばれた手段であることを指摘する。ある世界観を表現するための手段として選ばれた形式を、その目的意識を共有することなくフェティッシュに模倣する「俳句想望俳句」は、ロラン・バルトのような、俳句に対する理念的な把握(もちろん、彼の把握を完全に肯定できるかというのはまた別の問題であると同時に、個々の作り手が実作の中で考えるべき問題であろうが)をもとに新しいものを作り出そうとする姿勢を持たない。そして、作品をつくる姿勢というのが、作家およびその作品のありかたを大きく変えるのは自明のことである(しかし、根拠の提示を不精することは先に触れた『第二芸術』と同様の過ちを犯すことにつながりかねないので、例を挙げるならば、まさにこのために小野の想定する「俳句想望俳句」の作り手は率先して「日本」的な俳句を詠むし、バルトはそれをせず、「断章」をつづろうとしたのだ、といえるだろう)から、その意味において、「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか? という問いに対しては、ひとまずノーというべきなのだと思う。

5. おわりに――そのレッテルを一度はがす――

このレポートの最後に筆者の言いたいことは、「俳句想望俳句」と名指しされた俳人たちが今後の時代を担うことは大いにありうるとしても、彼らの俳句は小野の想定する「俳句想望俳句」の範疇に必ずしも収まることはないだろうということである。そしてその時代には、小野の言う「俳句想望俳句」の意識よりはむしろ、「俳句」から「断章」を導き出したロラン・バルト的な意識が表出するのではないかと思う。『新撰21』に登場する作家たち[44]の中でも、たとえば鴇田智哉が「多くの人が僕の句を、『それは俳句じゃない』と言うのなら、最終的には『俳句』という呼び名にはこだわらないです」と言い[45]、また神野紗希がこれに賛同する形で「この発言は、それが俳句であるよりも、もっと大切な達成点があると、彼が考えていることを示している。私自身、いい句が読んで詠めればそれでいいので、俳句じゃないといわれても、それが満足いくものであれば、別にかまわない」とし[46]、「少なくともいえることは、私は、俳句や日本文化の伝統を守りたくて俳句をつくっているわけじゃない。(中略)きっと、『本物の俳句』なんてない。ただ、どこかに、私が俳句によって書いておきたいなにものかがある。そのくらいの緩い定義で俳句にかかわっていても、いいと思っている」と述べる[47]ように、あるいは、関悦史が「いかにもその季語の代表句として歳時記に収録されているような句をこれから作ろうとは私は思わないのです、季語の本性の延長線上で行くというのは」と語る[48]ように、既存の俳句を肯定しながらも、表現したい内容や世界観にあわせて、かならずしも従来の俳句とは一致しない自分の表現をおこなおうとする意識を持った作家がいる。

もちろん、それは彼らの中に「俳句上達」的な考え方がまるで無いということではない。実際、鴇田は「俳句の型を身につけるのは、スポーツみたいなところがあるけれど、それには、有季定型でやるのがとても効果的だと思います。季語を調べたりしながら人の句を読んでいき、自分も作っていく中で、切れとか省略とかが分かってくる。僕自身それを実感しています」と語っている[49]。しかし、彼らのそれは俳句であることに固執する「俳句上達」というよりはむしろ、従来の俳句の範疇にこだわらず、自己の主題に合った新たな表現のフロンティアを開拓する姿勢の現れであるだろう。それは別の言い方をすれば、俳句に限らず既存のありとあらゆる表現が、形式に閉じこもることによって見過ごしてきてしまった、いわば真空の宇宙空間に、新たなもの(それは形式ではなく理念によって俳句とみなされるような、新しい「俳句」であるかもしれないし、もはや俳句でさえない何かかもしれない)を作り上げようとする姿勢であって、「俳句のフロンティアは俳句の中にこそある」とする小野の考え方[50]とは一線を画すように思われる。

高柳克弘は(彼も『新撰21』の作家のひとりである[51]が)、「『新撰21』に登場する作家、特に十代から二十代前半にかけた世代には、形式への強い思い入れは認められない」とし[52]、「彼らは、形式としての完成度をいったんカッコでくくることで、現代に向き合った悪夢的なイメージと乾いた情趣を手にしたのである」と分析した[53]上で、彼らの作品づくりに関して「何もない荒野に直面せざるをえなかった彼らは、先行世代の心配をよそに、荒野の枯木や小石をむしろ楽しんで手に取り、その荒野に住むべき屋をみずから築こうとしている。彼らが作り出そうとしているものは、かつての俳句史の偉人たちが作り出してきた荘重な宮殿に比べれば、貧弱で頼りない藁屋にすぎないかもしれない。だが、その一歩一歩の手探りの歩みこそが、詩人というものの本来の歩き方ではないだろうか」と述べる[54]

もちろん、『新撰21』の外側に「俳句想望俳句」は見出せるかもしれないし、『新撰21』の中に入っている作家たちのなかにも、やがてはかつての俳句へ深く深く入り込んでいく「俳句想望俳句」的な表現方法を見出す作家がいるかもしれない。あるいはすでにそうした方法を見出している作家がいるかもしれない。そして、もちろん筆者は、特定の作家やその作品を、その実作の成果に対する分析を抜きに、理念的な方法論によって否定するつもりは無い。だが、「俳句想望俳句」という一つの特殊な方法論を時代の主流とし、「遺伝子をきちんと受け継ぐことが肝心だ[55]」という脅迫観念に俳壇全体がとらわれるとしたら、それは「第二芸術論」の支配したとされる近代俳句の歴史とは逆の向きで、俳句にとって不幸な時代になりはしないか。

小野が直感的に述べる「少なくとも、戦後俳句が抱えてきたカルマのようなものから、俳句が自由になりつつある[56]」ということを、筆者は否定しない。いや、だからこそ、「俳句想望俳句」というレッテルによって若手の作家を無分別に呪縛することに対して抵抗を感じるのである。そして、そのレッテルを一度はがす必要があるように感じるのである。そうやってはがしたレッテルを、それぞれの作家に対する評価が確立した後のしかるべき未来に、もう一度いくらかの作家に貼りなおす分には、評論は自由なのであるから。


参考文献

[1] 小野裕三「『俳句想望俳句』の時代 2010年代の俳句を占う」.『俳句誌 豆の木 No.14』.こしのゆみこ編.「豆の木」代表 こしのゆみこ,2010.p.62.
[2] 小野裕三「『俳句想望俳句』の時代 2010年代の俳句を占う」 週刊俳句 Haiku Weekly http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/07/2010.html (2011年1月4日閲覧)
[3] ページごとのアクセス数は不明であるが、 週刊俳句 Haiku Weekly トップページ(http://weekly-haiku.blogspot.com)によれば、同ホームページへの2007年4月22日から2011年1月4日17時50分(日本時間)現在までの総アクセス数は、1,677,207件である。
[4] 小野裕三「俳句を継ぐ者――越智友亮小論」.『セレクション俳人 プラス 新撰21』筑紫磐井,対馬康子,高山れおな編.邑書林,2009.p.18.
[5] 前掲論文、小野「俳句を継ぐ者」.『新撰21』p.18.
[6] 越智友亮「十八歳」.前掲書、『新撰21』p.7~17.
[7] 『邑書林ブックレットNo.1 今、俳人は何を書こうとしているのか――新撰21竟宴シンポジウム全発言』邑書林編.邑書林,2010.p.19.
[8] 小澤實,筑紫磐井,対馬康子,高山れおな「合評座談会」.前掲書『新撰21』筑紫磐井,対馬康子,高山れおな編.邑書林,2009.p.260.
[9] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.62.
[10] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.63.
[11] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.64.
[12] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.63.
[13] ロラン・バルト『ロラン・バルト著作集7 記号の国1970』.石川美子訳.みすず書房,2004.p.132.
[14] 前掲書、バルト『記号の国』.p.125.
[15] 前掲書、バルト『記号の国』.p.7~8.
[16] 片山由美子「巻頭提言 歳時記を考える」『俳句年鑑 2009年版』.河合誠編.角川学芸出版,2009.p.32.
[17] 『合本 俳句歳時記 第四版』.角川学芸出版編.角川学芸出版,2008.p.631.
[18] 前掲論文、片山「歳時記を考える」『俳句年鑑 2009年版』.p.32.
[19] 前掲書、バルト『記号の国』.p.8.
[20] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.65.
[21] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.62~63.
[22] 桑原武夫『第二芸術』.講談社,1976.p.34.
[23] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.29~30.
[24] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.30.
[25] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.31.
[26] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.31.
[27] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.29.
[28] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.29.
[29] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.29.
[30] 大塚英志『初心者のための「文学」』.角川書店,2008.p.301.
[31] 高橋源一郎「『日本文学』から『ニッポン文学』へ。」.『ブルータス 2010年6月1日号』.西田善太編.マガジンハウス,2010.p.28.
[32] 『クライ・ベイビー――ジミ・ヘンドリックス語録集』.トニー・ブラウン編,上田茉莉恵訳.アップリンク,1998.p.170~171.
[33] チャールズ・R・クロス『ジミ・ヘンドリクス――鏡ばりの部屋』.栗原千恵訳.ブルース・インターアクションズ,2008.p.283.
[34] 前掲書、桑原『第二芸術』.p.29.
[35] 石川美子「第七巻について」.前掲書、バルト『記号の国』.p.ⅶ.
[36] 前掲書、バルト『記号の国』.p.124.
[37] 前掲書、バルト『記号の国』.p.115.
[38] 前掲書、バルト『記号の国』.p.116.
[39] 高山れおな「俳句想望と昭和想望」.『俳句年鑑 2011年版』.鈴木忍編.角川学芸出版,2011.p.197.
[40] 前掲論文、高山「俳句想望と昭和想望」.『俳句年鑑 2011年版』.p.196.
[41] 石川美子「訳者あとがき 俳句に誘われて――断章と写真と小説」.前掲書、バルト『記号の国』.p.186.
[42] 前掲書、バルト『記号の国』.p.115.
[43] 前掲書、バルト『記号の国』.p.115.
[44] 「『新撰21』の作家たち」として本文ではまず鴇田智哉、神野紗希、関悦史の三人に触れるが、前掲書、『新撰21』において鴇田智哉の作品「黄色い凧」はp.247~257に、神野紗希の作品「誰かの故郷」はp.079~089に、関悦史の作品「襞」はp.235~245に、それぞれ収録されている。
[45] 榮猿丸,鴇田智哉,関悦史,大谷弘至「特集座談会 若手俳人の季語意識――季語の恩寵と呪縛」『俳句 6月号』.河合誠編.角川学芸出版,2010.p.80.
[46] 神野紗希「週刊俳句時評 第10回 『俳句に似たもの』のゆくえ」 週刊俳句 Haiku Weekly 
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/09/10_5953.html (2011年1月4日閲覧)
[47] 前掲の、神野「『俳句に似たもの』のゆくえ」 (2011年1月4日閲覧)
[48] 前掲の、榮,鴇田,関,大谷「特集座談会 若手俳人の季語意識」、『俳句 6月号』.p.87.
[49] 前掲の、榮,鴇田,関,大谷「特集座談会 若手俳人の季語意識」、『俳句 6月号』.p.86.
[50] 前掲論文、小野「俳句を継ぐ者」.『新撰21』p.18.
[51] 高柳克弘「ヘウレーカ」.前掲書、『新撰21』p.103~113
[52] 高柳克弘「現代俳句の挑戦 第14回 若手作家から見える『今』」.『俳句 2月号』.河合誠編.角川学芸出版,2010.p.149.
[53] 前掲論文、高柳「若手作家から見える『今』」.『俳句 2月号』.p. 154.
[54] 前掲論文、高柳「若手作家から見える『今』」.『俳句 2月号』.p. 154.
[55] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.63.
[56] 前掲論文、小野「『俳句想望俳句』の時代」.『豆の木 No.14』.p.65.

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