2011-03-06

〔週俳2月の俳句を読む〕生駒大祐

〔週俳2月の俳句を読む〕
俳句に限りなく近く、そして
生駒大祐


列車来ぬおのが照らせる雪衝きつつ  榮 猿丸

猿丸の言葉は俳句たらんとしてもがく。
俳句という極小の空間に入るには猿丸の言葉は運動量を持ちすぎている。

己が照らす雪を衝きつつ列車来る

としてしまうと、この俳句の良さは全く出てこない。
それはおそらく、この俳句は言葉が俳句を通り過ぎて戻ってきた姿だからだ。通り過ぎ、「映像性」という壁にぶつかってこの俳句はこちらに接近してくる。
列車の生々しい質量感をまず読者に見せ、画面が引かれることで倒置的に列車を取り巻く状況が目に飛び込んでくる。この「つつ」の迫力ったらなんなのだろう。
その運動量が私にこの猿丸という人物の衣擦れの音さえ聞こえさせるのだ。



フィギュアの如くきしめんは垂れ 冬景色  関悦史

悦史の言葉は俳句に擬態する。
水のようにとろとろと流れ、俳句という極小の隙間に悦史の言葉はいともたやすく入り込む。
その言葉の透明さがくせものだ。隙間は完全に埋められてしまい、呼吸はできない。
リンクによって参照されているのは、その言葉の意味でも裏の意味でもない。例えばきしめんという言葉は名古屋名物の食べ物を、またゲームのOPソングの空耳をも意味する。しかし、今回の悦史の俳句が真にしめしていることは、知識がなければ悦史の俳句が読めないということではなく、「意味」などという卑小な存在は作者の意図によって自由に操られる程度の代物だということだ。
くれぐれも悦史に遊ばれてはならない。
自分の読み取った「意味」と悦史の意図した「意味」の差異を笑う。それで充分だ。



冬雲におほきな指の影がある  鴇田智哉

智哉の言葉は俳句の手前で立ち止まる。
不思議な顔で、道にあいた俳句という小さな穴を覗き込んでいる。
冬の雲がある。親指は指の中では大きい部類に入る。日が差してその指の影ができた。
説明すればおそらくそういうことになる。
言葉がふわふわと集まり、あたかもひとつになったように見える、が、言葉は結合する手前で作者によって静止させられ、そのままの形で保存液に浸される。
結合の妙でも素材の妙でもない。智哉の俳句は結合の過程のもっとも中途半端なところでとまる。それが面白いのは、素材を結合させるという作者の楽しむべき工程を読者が肩代わりさせられているからだ。
人ごみで急に立ち止まられれば、後ろからぶつかった人は反射的に謝ってしまう。そんなことを思った。


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