2011-03-20

〔週俳2月の俳句を読む〕岡村知昭

〔週俳2月の俳句を読む〕
「七」の駆け引き
岡村知昭


  サーフボードの尖見ゆ山茶花垣の上  榮猿丸

  トイレタンクの上の造花や冬日差す  同

上七から入るこの2句を小さく何度も口ずさんでみるとき、「サーフボード」に「トイレタンク」の物としての存在感がより増していることに驚かされる。もちろん山茶花の垣や冬の淡い日差しとの取り合わせの力によるところも大きいのであろうが、上七の音感がもたらす強さが取り合わせを一層引き立たせ、物の力を読み手に向かって引き出させようとしているのでは、との思いを持ってもう一度「さーふぼーどの」「といれたんくの」と口ずさんでみる。あるときは海の匂いすら感じられないまま垣に干されているサーフボードの尖りがまるで自分に向けられた切っ先であるかのような恐れをかすかに抱く瞬間、またあるときはトイレタンクのまっさらに磨かれた白とその上の使い込まれている様子が色つやにうかがわれる造花から切り取られる冬の真昼のある風景、そのどちらに上七が選ばれたことによって発生した存在感が作り上げた像の確かさがはっきりと見て取れる。

  冬至湯に頭まで浸かりぬくよくよするな  同

こちらは下七の一句、しかも「くよくよするな」と言い切ってしまっている。ただでさえ間延びを感じさせる字余りになる可能性が高い下七で結論まで出してしまったらもうそれまでではないの、と言われてしまえばその通りであろう。しかしこの句の下七がどうにも魅力的に思えてならないのは「くよくよするな」の字余りを選択するのに「くよくよ」していないからだろう。「浸かりぬ」から続くひらがなの流れは風呂に満ち溢れる湯の量と湯気を思わせ、そこに自ら何かしらの迷いを断ち切らんとする意思を持って湯に潜る自分自身の姿は、下五できちんとまとめられていたならばますます単なる意思の表明にとどまっていたのではないか、と考えられたりもするのである。とりとめもなく襲う「くよくよ」をなんとか断ち切らんと湯に沈む自分自身の像は、「するな」から生まれた間延び感を使うことで外からの視点を獲得できたようである。

  ピカソの眼頸し生牡蠣啜りたる  同

  電波塔伸ぶ贋お化け煙突凍つ  同

上七・下七と見てきて次は中七というわけではないが、この2句においては取り合わせの転換点に当たるところがちょうど中七にはっきりとした切れを感じさせて存在する。強いまなざしで自分を見つめてくる(と感じさせる)ピカソに対抗するかのように生牡蠣を一気に啜りこむ自分(いや生牡蠣を啜っているのはピカソかも)、一段と空へ高さを伸ばす電波塔(スカイツリーのイメージか)とそれをただ呆然と見上げるほかない真冬の「贋お化け煙突」。二物衝撃の瞬間に生まれる景や像の歪み、さらにはそこから発生するさまざまな形の抒情(とここではしておく)が読み手のなかに作らせていく楽しみがどちらの作品にも確かにある。上・中・下の「七」をめぐる一句の駆け引きを通して見えてくるのは、物の存在感をより際立たせるところから風景を発見しようとする作者の確かな姿勢なのであろう。


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