八田木枯 戦中戦後私史
第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫
≫承前:第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス
『晩紅』第20号(2004年11月30日)より転載
芭蕉忌記念俳句大会
木枯 戦中の話は、そろそろ終わりにして戦後に入りたいと思いますので、いままで話し忘れていたことや後で思い出したことなどに触れておきたいと思います。
一つは、ホトトギス発行所に行って、句稿のぶ厚い綴じ込みを繰り入選句を調べることが、どうしてできたのか、そのきっかけを思い出したのです。私は、東京牡丹会という句会に出ていたのですが、その指導者に市川東子房先生がいました。市川先生は、虚子先生や星野立子さんと同じように、ホトトギス発行所に毎日つめていましたので、なにかのときに「発行所に来れば、入選句が分かりますよ。よければ、いちど発行所に来なさい」と声をかけてくださったのでした。
――そうですか。それでは一般の人がだれでも立ち入れるところでもなかったのですね。
木枯 でも、入るとすぐに机があって、その上にぽんと句稿の綴りが置いてあったのですから…。
――同人の人なら、見ることができたのかもしれませんね。
木枯 もう一つ、昭和十八年十一月に伊賀上野で開かれた全国俳句大会のことをお話ししたいと思います。たしか芭蕉の二百五十年忌を記念した行事だったと思うのですが、当時は、戦争中のことで、ホトトギスだけでなくいろいろな結社が集められて報国俳句協会といったような全国組織が作られて、そこが主催した大会でした。芭蕉の旅姿に似せた俳聖殿もこのとき作られたのです。そんなわけで、名の知れた俳人のほとんどすべてが伊賀上野に集まったのです。もっとも、新興俳句の人は別だったかもしれませんが…。
――呼ばれなかったでしょうね。
木枯 おそらくそうだったでしょう。そのとき、何百人という参加者全員の記念写真を俳聖殿の前で撮りました。その中に私も写っているのです。
――ぜひ、拝見したいですね。
木枯 詰め襟の学生服姿で前の方に小さく写っているはずです。写真は戦災で焼けてしまいました。でも伊賀上野あたりには残っているのじゃないかといろいろ探しているのですが…。
――俳人として呼ばれて参加したのですか。
木枯 いやいや、三重県ホトトギス会の一員として参加しました。俳句大会では、あらかじめ投句したものを、虚子先生はじめ二十人ほどの選者が選句して、りっぱな冊子が作られました。芭蕉忌献句集ですね。じつは、その虚子選の最初に私の句がありました。
――それは、すごいですね。どんな句でしたか。
木枯 冊子は、これまた焼けてしまいましたが、句は覚えています。
あをあをと伊賀の山なみ稲架日和
――いい句ですね。でも、どうして十八歳でこんな挨拶句が詠めるのですか、しかもホトトギス調の…。
素逝先生との八知(やち)吟行
木枯 前回、昭和十九年十二月の伊勢湾大地震のことをお話ししましたが、その少し前に、長谷川素逝先生との吟行句会がありました。戦争がいよいよ激しくなって、俳句どころではなく、まして吟行など考えられない時代でしたので、つよく印象に残っています。
出かけたのは、奥伊勢の八知という幽谷です。句帳には十月二十四日と記してありますが、稲架日和というような天気のいい日でした。素逝先生は八知が好きで、八知を詠んだいい句を残していますが、このころは病気も進んでいて、ときどき咳込んだりしながらの参加でした。
――吟行したメンバーはどんな人たちでしたか。
木枯 三重県ホトトギス会の人たちで、橋本鶏二先生もいました。ホトトギスの巻頭を取ったり、頭角を現しはじめたころですね。
――二泊三日ぐらいの吟行ですか。
木枯 とても、とても。そんな悠長なことができる時代じゃありません。もちろん日帰りでした。素逝先生だけは三日ぐらい八知に泊まっていたようですが…。とにかく戦争中ですから、吟行だからといっても、うろうろしながら、メモでも取っていたら、スパイと間違われてたいへんなことになりかねません。ただ歩いているだけでも、見知らぬ土地では怪しまれて「何しているんですか」なんて声をかけられたりします。普段から、俳句をやっていることなど他人には言わず、夜中にこっそり作ったりしていたくらいです。
――八知吟行では、どんな俳句が作られたのですか。
木枯 そのときの俳句をメモした句帳がありましたので、抜き出してみます。
ころがれる榾にとまりて鶲(ひたき)かな
背なの子のおもしろがるや芋運び
(以上鶏二句)
茶の花の蕊には濃ゆき深山の日
芋の葉のおのおのが立ちなほ暮るる
かけ稲の前後ろなる日の匂ひ
(以上素逝句)
――素逝、鶏二、さすがにうまい句ですね。木枯先生はどんな句を…。
木枯 こんな句を作っています。
山影ののびきし稲架のうしろかな
霧しづくして地にとどく稲穂かな
すでにして去りし夕日や枯木の根
柿吊つて厩母屋と一と屋根に
当時は、ホトトギスの虚子選に入選することが最高の目標でしたから、忠実に先輩の言葉を守っていました。しかし、一方では、前にも言いましたように、誓子、草城、白泉、三鬼、鳳作などに大きな憧れを抱いていたのです。
――素逝はどんな指導をしていたのですか。
木枯 指導は、いつも要点を言うだけでした。写生をしておればいい、理屈なしに写生をしなさい、ということでしたね。
――鶏二の指導の方はどうだったのでしょうか。
木枯 鶏二先生の方は、彫るとか、刻むとか、写生が求心的なものでしたね。高野素十よりも松本たかしを高く買っていたのを覚えています。
焼け跡ではじめた貸本屋
木枯 昭和二十年の七月二十八日に、私の住んでいた津もアメリカ軍の空襲による焼夷弾攻撃で町が全焼し、焦土となってしまいました。そして八月十五日の終戦ですね。あの日は、だれが書いたのを読んでも、抜けるような青い空で、日がぎらぎらと照りつけていて、蟬がしきりに鳴いていた、とありますが、津でも同じでした。
――終戦の詔勅は聞きましたか。
木枯 聞きました。
――それは、どこでですか。
木枯 津の焼け跡でした。近所のだれかの家のラジオじゃなかったかと思います。
――みんなが集まって聞いたのですか。
木枯 そうです。電話はない、新聞も来ないという焼け跡ですから、どうして伝わったんでしょうか、大事な放送があるというので集まってきたんですね。ただ、話の内容は、ラジオがガーガー言っているだけで、さっぱり分かりませんでした。それでも天皇がラジオで直接話すというだけで、たいへんなことでしたし、とにかく戦争は終わったらしいよ、ということでした。その前から、広島に何か特殊な爆弾が落ちて大勢死んだらしいぞ、だから戦争ももうおしまいじゃないのか、という噂も聞いていましたので、やっぱり終わったのか、と思いましたね。
――木枯先生の家も焼けたのですか。
木枯 何から何まできれいに焼けました。
――材木もですか。
木枯 いや、そのころは統制経済といって、個々の材木屋が商売をすることはありませんでしたので、広い倉庫はがらんとして何もありませんでした。
――焼け出されてあと、どう生活していたのですか。
木枯 最初は親戚の家で世話になったりしましたが、なにしろ自分の家が材木屋ですから、はやばやとバラック建ての仮住まいをもとの敷地に作りました。そうこうしているうちに、十月ごろから、そのバラックで貸本屋をはじめたんです。
――えっ、貸本屋ですか。でも、蔵書が焼けてしまったのではないですか。
木枯 ええ、父の蔵書は焼けてしまいました。でも疎開してあった自分の本とか、ほかに知人や友人から借りたりして集めたんです。あの当時は、本がなかったので、貸本屋がとてもはやったんです。津にも何軒かできたんですが、私がいちばん早かったと思います。
――二十歳にして、木枯青年は、ずいぶん商才があったのですね。
木枯 その貸本屋の名前が、梨影文庫と言うんです。そう名づけたのは、ちょうど同じころ、鎌倉文庫が有名だったからです。あれも、もともとは久米正雄、川端康成、高見順などの鎌倉文士が、戦争中に蔵書を持ち寄ってはじめた貸本屋なんですね。戦後には出版社になり、文芸誌「人間」を発行したりしましたが…。
――本を読みたいという文化的な欲求に応えたのですね。
木枯 ええ。珍しがられて、地元の新聞に取り上げられたこともありました。
青年俳句雑誌と銘打って
木枯 じつは、「ウキグサ」という名の句誌を、戦争中からやっていたのです。句誌といっても、仲間五人ほどで互選した俳句を手書きしたザラ紙の冊子で、郵便で回覧して、お互いに感想を書き入れたりしていました。
――いつごろからですか。
木枯 昭和十七年ごろからだったと思います。
――仲間は、同じ年頃の人たちだったのですか。
木枯 そうです。もう、みんな死んでしまいましたが、その中の一人は郡山の橋本石斑魚(うぐい)さんです。
――どうして浮草と名づけたのですか。
木枯 そりゃ、浮草みたいなものでしょ。東京へ行ったと思えば、すぐに京都へ出かけたり…。
――ということは、「ウキグサ」のリーダーは、木枯先生だったのですね。
木枯 まあ、そうです。その句誌を、終戦になってからガリ版刷りにしたんです。
――何部ぐらい印刷したのですか。
木枯 せいぜい百部ぐらいだったでしょう。これが実質的な創刊号ということになります。発行所は、梨影文庫です。そして昭和二十一年に入ってからですが、長谷川素逝先生に選者をお願いするようになりました。その最初の号は素逝先生の句稿をそのまま表紙にして発行しました。
――ご病気でも、まだ選がおできになったのですね。
木枯 しかし、まもなく先生の病気が重くなって、選ができないようということで、あとを橋本鶏二先生に引き受けていただくようになりました。素逝先生に選をしていただいたのは二号ほどでしたね。
――そうすると、素逝先生との出会いは、時間的にはわずかの間だったのですね。
木枯 ええ。昭和二十一年の十月十日に亡くなられましたから、先生にお会いして、直接指導していただいたのは、せいぜい四回ぐらいだと思います。しかし、戦中戦後の切迫した時期が時期でしたので、感銘を受ける度合いというものが、普通の時とまったく違って、非常に密度の濃いものだったのです。師との出会いというものは、時間の長さや回数の多さではないんですね。一期一会といいますが、そういう大事な時期に会えたということが重要で、中身が違ってくるんですね。
――「ウキグサ」に俳句を出す仲間は、やはり五人だったのですか。
木枯 いえ、いえ。ガリ版刷りの句誌になってからは、一般からも投句を募集しましたから、投句者は百人ぐらいになっていました。
――えっ、百人もですか。
木枯 「青年俳句雑誌」と銘打って募集しましたので、全国からたくさんの投句が集まりました。なにしろ、終戦まもなくでしたから、俳句雑誌など他になかったんです。貸本屋をしながら、そこで句会をしたり、句誌を作ったり、このころは俳句中心の生活でしたね。すこし後のことになりますが、やはり関係する俳句雑誌に鷹羽狩行さんとか、寺山修司さんなんかも投句してきたこともありました。
――すごいですね。
木枯 その話は、次回以降に詳しく触れるつもりですが、貸本屋に神生彩史(かみおさいし)が訪ねてきたことがありました。
――お知り合いだったのですか。
木枯 いえ、まったくの初対面です。神生彩史といえば、日野草城の「旗艦」でも目立った存在でしたから、ずっと注目していたのです。それだけに、突然の訪問にはびっくりしました。昭和二十一年だったと思います。
じつは、駅前の本屋が「ウキグサ」をぜひ置かせてほしいというので、店頭に置いてもらっていたのです。当時は、発行される出版物が少なかったので、薄っぺらな俳句雑誌でも並べたかったのでしょう。その「ウキグサ」がたまたま松阪出身の神生さんの目にとまったらしいんです。自分も俳句をやっていたから、よほど嬉しかったんでしょうね、奥付の住所を見て、駅前からはかなりの距離があるのに、焼け跡の中を歩いて、わざわざ貸本屋まで来てくれたのです。まだ兵隊から帰ってきたばかりらしく、軍服軍帽姿でした。
――どんな話をされたのですか。
木枯 草城の話はあまり出なくて、しきりに山口誓子のことを話していました。とにかく自分たちは、誓子に大きな影響を受けたのだと言っていたのが印象的でした。
ホトトギスへの入選句
木枯 話は戻りますが、素逝先生は、昭和二十一年の五月に、野村泊月に託されて「桐の葉」の主宰になりました。しかし、半年も経たずに病死されましたので、編集を担当していた橋本鶏二先生が跡を継ぎます。橋本先生は、運の強い方で、翌年には名古屋の「牡丹」を主宰していた加藤霞村が亡くなって、その跡も継ぐことになるんですね。「牡丹」は、私が出ていた東京牡丹会の本部にあたる、ホトトギス傍系誌です。
それはともかく、「桐の葉」は、橋本さんが主宰になってまもなく「桐の花」と改題されるのですが、私も編集を手伝ってほしいと言われて、ちょくちょく伊賀上野に出かけていました。橋本先生という人は、次々と句を作る人で、作った傍から、「木枯さん、こんな句どう思う」「こんな句は、どう」と次々に聞いて来るんです。
――ずいぶん多作の人だったのですね。
木枯 ええ。しかし、他のホトトギスの人と違って、句は上手でしたので、私にも大きな刺激になりましたね。
――ここに、木枯先生の終戦直後の句(別掲)が抜き書きされていますね。
木枯 最初の二句は、ホトトギスの虚子選に二句投句して二句とも入選しました。当時のホトトギスは薄い雑誌でしたので、巻頭でも二句掲載でした。たしか、このときは、十番目ぐらいじゃなかったかと思います。
――すごいですね。
木枯 次の二句は、長島(三重県桑名郡)吟行のときの句で、同じく虚子選に入ったものを、橋本さんが「桐の花」の巻頭句に取り上げ、わざわざ長文を執筆して誉めてくれたものです。
――ホトトギスへの投句は、戦争中からずっと続けていらしたんですか。
木枯 もちろんそうです。
――ホトトギスに欠かさず投句して、吟行があれば、それにも参加し、そして傍系誌の編集も手伝う。一方では、貸本屋を営みながら、「ウキグサ」の主宰でもあったという、まさに充実した二十歳でしたね。
(次回に続く)
終戦直後の入選句
椅子二つ一つに毛糸玉置いて
西洋間ありて大きな瀧の寺
以上「ホトトギス」虚子選(昭和20年)
水郷や舟に案山子を寝かせ漕ぐ
水の上を黄いろく来たり稲の舟
松に降る雨うつくしや扇置く
稲刈の鎌ふり家に用事かな
葉桜の太き枝あり折れさがり
麦秋の留守の大黒柱かな
以上「桐の花」巻頭句(昭和21年)
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