2011-08-07

〔週俳7月の俳句を読む〕しなだしん

〔週俳7月の俳句を読む〕
それぞれの一期一会

しなだしん


去る7月30日31日と小諸へ出かけた。「第3回こもろ日盛俳句祭」に参加するためである。
この日盛俳句祭の基になっている「日盛会」は明治41年、虚子が8月1か月間、毎日開いた句会。もともと虚子は、太平洋戦争時、あしかけ3年にわたって小諸に疎開しており、その後も稽古会が小諸で開かれていた。その経緯から「虚子・こもろ全国俳句大会」が開催され、その後「こもろ・日盛俳句祭」となった。
「こもろ・日盛俳句祭」となって今回で3回目。私も3年連続で参加しているが、今回も様々な俳人や関係者との一期一会を得て、充実し時間を過ごした。

さて週刊俳句7月の各作者の一期一会を見てゆきたい。



改札にあつまる登山靴の泥   三吉みどり

作品「琉金」より。
登山人気は近年富に高く、山ガールなどという言葉も生まれ、山には色鮮やかな登山ウエアを身にまとった若い女性の姿が多いとも聞く。
作者はかねてよりの登山愛好家かもしれない。
この句の踏み込んでいるのは、登山靴ではなく、登山靴の泥まで描写したところ。これにより、これから登山に向かうのではく、山を下りてきた人々と分かる。「泥」からは変わりやす山の天気を想像することができる。
夕暮れが近いかもしれない帰りの駅だろうか。登山に向かうときの緊張感は消え、下山してきた人々は程よい疲れを纏いつつも、一期一会の風景や出会った山の草花の話にやや高揚しているかもしれない。
「改札」は、山という非日常と、戻るべき日常を隔てるものとして象徴的に使われている。



レコードの古き拍手や夜の秋   堀本裕樹

作品「浮言」より。
「レコードの古き拍手」という省略が見事である。これで、作者は古い円盤型のレコードをかけていて、そのレコードはきっとライブのLP盤だろうと想像できる。
曲のはじめか終りか、観客から拍手が起きる。このライブは割合小さなライブスペースで、たとえばボサノヴァやミディアムテンポのジャズ。観客の拍手はややまばらで口笛なんかもあったりして、客席には酒があり、煙草の紫煙が漂っている…。そんな勝手な想像がどんどん膨らむのは、「夜の秋」という季語の取合せの一期一会からだろう。



闇の雨あがりて闇の小鬼百合   橋本 薫

底紅の底闇夢の底の闇


作品「人魚姫の花壇」より。
10句の中に「闇」の句が2句。1句目、闇の使い方が面白い。「闇の雨」「闇の小鬼百合」という断定的な「闇」の掛り方がひとつの世界を成している。
2句目の闇も独特だ。「底紅の底闇」「夢の底の闇」という切れで読んだ。ちょっと回文のようなリズムで、二つの闇がメビウスの輪のようにぐるぐると廻り続ける。
〈流れ藻や涼しかるらん人魚の血〉の「涼しかるらん人魚の血」にも曳かれたが、「流れ藻」がこの句にどういう効果をあげているのかに疑問が残った。
この作品群の面白さはもうひとつ。最初の句から連想が繋がっていること。連句のようにつぎつぎとモチーフが引き継がれ、ひとつの作品群を成している。
こういう作品を通しての作者と読者の交感も、間違いなく一期一会と言える。



育児書をめくってみても青葉木菟   室田洋子

作品「青桐」より。
「育児書をめくってみても」という、どこか投げやりでアンニュイな句の成立ちに惹かれた。
季語の「青葉木菟」から、たとえば山の別荘を想像してみた。作者は山荘の中にいて、一人やや手持無沙汰で過ごしており、外からはずっと青葉木菟の声が聞こえている。青葉木菟はどこか不安な感情を誘う。
育児書というのは、そのとき、つまり育児をしている時期にはよく開かれるだろうが、その時期が過ぎれば無用のものだ。この育児書も作者のものか、山荘に置いてあった他人のものかは分からないが、今は必要としない育児書を手にして開いてみても、理由なき不安やさびしさは消えないのであろう。
私は作者の境遇を存じ上げないが、きっと育児の経験者だろうと想像する。作者にとって、わが子という存在も、無論一期一会に違いない。
そう思うと、この一遍の私小説のような句は、育児書という道具から作者、周りの森、そして宇宙をも感じさせる力を持つ。


第219号 2011年7月3日
室田洋子
 青桐 10句 ≫読む
堀田季何 Waiting for… 10句 ≫読む 
第221号 2011年7月17日
大野道夫 明日へと我も 10句 ≫読む
橋本 薫 人魚姫の花壇 10句 ≫読む
第222号 2011年7月24日
三吉みどり 琉 金 10句 ≫読む
第223号 2011年7月31日
堀本裕樹 浮 言 10句 ≫読む
ウラハイ
西原天気 原子力 10句 ≫読む

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