2012-02-19

『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会 (1)

新撰21』『超新撰21』『俳コレ』
総括座談会
(1)

参加:筑紫磐井、高山れおな、対馬康子、上田信治、西原天気
(乱入・西村我泥吾)

日時:平成24年1月18日
場所:帝国ホテル鷽替の間


3冊誕生の経緯
「誰が言いだして、資金はどう支払われたのか」


上田:2009年から、年一冊のペースで『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』(邑書林)の、3冊のアンソロジーが刊行されました。本日は、裏話などをぶちまけていただこうと、3冊の編纂にあたったメンバーにお集まりいただきました。

まずは、3冊の誕生の経緯から、お話いただけますでしょうか。

筑紫:宮崎斗士さんのブログ「俳句樹」で「回想の『新撰21』――いかにしてアンソロジーは生まれるか」としてもう書いてしまっているので、かいつまんでお話しましょう。実はこれは、上田さんたちが『俳コレ』を出すと言うので、どういう準備をしたらよいかをお見せしようと書いたものなのです。

上田:公開指南書と言われてましたね(笑)。

筑紫:きっかけは、「週刊俳句」に対抗して高山れおな・中村安伸氏の「―俳句空間―豈weekly」というブログが立ち上がったことです。

「週俳」は俳句をたくさん掲載していましたが、これに対して「豈weekly」は「俳句など誰も読んではいない」という刺激的な巻頭言を掲げて、評論ブログとして立ち上げたのです。案の定、「豈weekly」は「週俳」の十分の一しかアクセスがありませんでした(笑)。

ただ、このブログに、ある熱心なファンが現れ、とうとう「豈weekly」が企画する出版のパトロンになってもいいと言い出されたのです。

高山氏から、資金と企画があるのだからいい出版社を探してほしいという要請を受け、旧知の邑書林の島田牙城氏に、年も押し詰まった12月31日メールを出しました。だいぶごたごたしましたが、翌年2月に諸条件が決まったと言うのが出発の経緯です。

上田:ごたごたについては、「俳句樹」の記事で、少し(笑)。

高山:筑紫さんのコメントをうかがうと、まだ数年しかたっていないにもかかわらず、早くも物語化の兆候が現われており危険です(笑)。「豈weekly」は「週刊俳句」に対抗する目的で生まれたわけではありません。

また、私も職業編集者の端くれなのでございまして、そういう人間が、〈いい出版社を探してほしい〉などという物の言い方をすることはありえないですよ。筑紫さんは、ある種の語りの定型に陥っております(笑)。

筑紫:感想はありますが、まあ、続けて下さい(笑)。

高山:『新撰21』出版の経緯ですが、以下、やや長くなりますが、“物語化”に抗して、メールの通信記録と小生のメモ帳に基づいて厳正に申し述べます。川名大先生のストレステストにも耐え得るようにしたいと思います。

まず、出版のスポンサーのAさんとは、2008年11月1日にメールによる交流が始まりました。じつはその数年前、私も一時、ミクシィをやっていたことがあり、すぐ辞めてしまったのですが、そこでAさんと知り合ってはいたのです。

俳句にご興味があるというので私の第2句集を送ったら、お礼に江戸の町の古絵図の複製をいただきました。東海地方にお住まいの当方より数歳下の女性で、そういう教養がある人なのですね。その時はそのままやりとりは絶えたのですが、「豈weekly」が始まると当方のことを思い出されて、11月になって連絡を下さったのです。だから交流の開始ではなく、再開というべきですね。

Aさんとの話は、純粋読者として俳句を見ているものの、ネット上ではなかなか面白い句が読めない、冨田拓也の作品に興味があるが、どうしたら作品が読めるだろうか、というような雑談から始まりました。冨田さんは「豈weekly」の常連筆者だったので、小生に聞いてきたのでしょう。

また、彼女は関悦史とは古くからミクシィ友だちで、費用を持つから句集を出せ、評論を「豈weekly」に寄稿したらどうなんだとけしかけているのだが、遅筆なのかやる気がないのか埒があかないというような話も出ています。今昔の感ですね。すっかり忘れていましたが、そもそも関さんが「豈weekly」の常連筆者になるに当たっても、当方からの誘いに加えてAさんの後押しがあったわけです。ちなみにこの時点では、彼は「豈」の同人ではありません。

11月上旬にはしきりにメールが行き交っておりまして、11月6日には自費出版の費用や版元についての問い合わせも受けました。

そして翌11月7日、興味のある俳人の句集のスポンサーになりたい。何冊も本を出す程の財力はないが、合同句集ならどうだろうか、本作りをしてくれるかと、いきなり具体的な申し出がありました。スポンサーとしての条件は、合同句集のメンバーに冨田と関を入れることだけ、それ以外は全て一任するとのことでした。

そして11月10日に仕事で上京するので会えるなら会いましょう、ということになった。それで当日の夕方、銀座三越のライオン像の前で待ち合わせまして、食事がてらお話しをしました。場所は向かいの竹葉亭の2階です。細かいようですが、川名大基準では1階か2階かは重要です(笑)。

メールの感触で信用はしていましたが、とはいえ向こうはお金を出すのだし、こちらも作業を進めてから梯子を外されては困りますから、これはお互いに面接試験だったということでしょうね。筑紫磐井に相談して本を作ってゆくことになるであろう、というような段取りの話もしたはずです。

その時の正直な気分としては、面白いことになってきたというのが半分、面倒な仕事を引き受けてしまったぞというのが半分。実際、そろそろ第3句集を纏めるつもりでいたのですが、「豈weekly」の文章書きと『新撰』『超新撰』の編集に時間を取られて、いまだ刊行に至っておりません。

さて、経過の続き。筑紫さんとはまずメールで最初の相談をいたしました。しかし、年末で双方忙しかったのでしょう、話が一挙に煮詰まったのは12月20日に原宿で直接会ってからです。この年4月に亡くなった「豈」同人の長岡裕一郎との2人展を、藝大時代からの画友の方が開催なさった、そのオープニングの日でした。

当然、「豈」「円錐」関係者の飲み会となる流れでしたが、その前に筑紫さんと私とで竹下通りのマクドナルドの地下でコーヒーを飲みつつ密談をして、まず邑書林に声を掛けようということになったのです。

筑紫:そう、悪魔のつぶやきというやつでね(大笑)。竹下通りでは腹案のメモはあったのでしたっけ? 何かもっとふわふわであったような気がする。

高山:わいわいがやがや、思いつくままに若手俳人の名前をノートに書き出していったような記憶があります。ただ、その日の会合は、基本的には2人のうるわしい団結を確認するのが主目的だったようです(笑)。というのは、その翌日と翌々日、メールが2往復しておりまして、そこで本の輪郭みたいなものが双方から提案されているんですよ。

まず高山案では、合同句集の規模は21人。叩き台のリストには、その後、実際に入集する人としては、高柳克弘、鴇田智哉、村上鞆彦、田中亜美、神野紗希、相子智恵、佐藤文香、冨田拓也、関悦史、中村安伸、山口優夢、九堂夜想、谷雄介の名前がすでに入っています。ちなみに仮タイトルは、『21世紀21 現代俳句の最新鋭(ホヤホヤ)たち』

上田:もう、かなり見えていたかんじですね。タイトル以外は(笑)。

高山:私も参加させていただいた「澤」の20代、30代作家特集があったお蔭で、ある程度輪郭のようなものは摑めていたんでしょうね。原宿の会合にも持参したはずです。とはいえ、今、名前を挙げた人たちにしても、そのまますんなり最終候補になったわけでもないのですが。一方で、筑紫さんは8人程度の規模を想定していて、冨田、関、中村、谷、山口、相子、村上に加えて、『超新撰21』の方に入ることになる青山茂根の名を挙げています。

つまりこの段階では受賞歴と句集刊行年次による足切りはすでに意識されていますが、年齢制限までは考えてなかったんですね。私の挙げた21人の方にも『超新撰』の青山と榮猿丸がいて、さらにずっと年長でこんど『俳コレ』に入った谷口智行の名まで含まれています。

本の規模としては、高山案の形になったわけですが、筑紫さんはこの時、造本のフォーマットとして「セレクション俳人」の番外篇にしたらいいのではないかと言っていて、これは実際その通りになった。

編者として対馬さんに加わっていただくことや、40歳未満の年齢制限をして若手の作品集であることを明確にすること、年内刊行を目指すことなど、諸条件が固まったのは2月28日に、筑紫さん、牙城さんと私とで早稲田のリーガロイヤルホテルに集まった時でしたね。牙城さんと私は初対面で、筑紫さんにお引き合わせいただいたのではなかったかと思います。

筑紫:対馬さんに参加して頂いたのは、すでに実績のある芝不器男俳句新人賞の入選者を重要なソースとして考えたからです。一人100句ということが決まった段階で、これだけの俳句を集める実績のある新人は当時にあっては芝不器男賞に応募している人ぐらいだろうと考え、そのフィージビリティの確認や具体的な人選資料も使わせていただきました。

対馬:芝不器男俳句新人賞は松野町生まれの芝不器男を顕彰し、「今世紀の俳句をリードする新たな感性が登場することを強く願って」愛媛県文化振興財団によって設立されました。

第1回公開選考会は平成14年12月。ご存じのように冨田拓也さんがまさに「彗星の如く」出現して、世俗離れした感性も含めて私たちを驚かせました。関さん、神野さんも第1回ですね。

その後、第2回が杉山久子さん、第3回が御中虫さんと受賞し、また各選者の奨励賞5名が選ばれるのでこれまでに計18名が受賞しています。予選通過者の中にも注目すべき人材はたくさんいます。毎回話題を呼び、それぞれに活躍しているのはとても嬉しいです。

10年前、俳壇が停滞していると言われていた中で、蓋を開いてみたら150編近く応募があった。若い俳人のエネルギーのかたまりが、初めて目に見えるかたちで現われたということです。

なにしろ4年ごとという長いタームがあるので、年齢制限で再チャレンジができない場合もあり、それに、毎回100編を超える応募者の俳句に対する熱意に応えたいという思いがあったので、磐井さんから若い人だけを集めたセレクションを作りたいというお話をいただいたときは、何かまた新しい風が吹くようでわくわくしました。

筑紫:俳句甲子園以上に芝不器男賞は『新撰21』を生む必然性が強かったと言えるでしょう。こうした関係性があったからこそ俳句の愛好者に『新撰21』が受け入れられたのではないでしょうか。

ちょっと『新撰』話が長くなりすぎました。上田さんが痺れを切らしているようなので、それじゃあ、『俳コレ』の方をうかがいましょう。

我尼吾:ちょっと待ってください。突然乱入させていただきます。このパターンはかつての国際プロレスや、新日などでよくみられたパターンで申し訳ないですが・・。

芝不器男俳句新人賞の一番の特徴は、受賞者のアフターケアに相当力を入れているということです。俳壇の心ある人からは、ときどき贔屓の引き倒しとか、過保護賞とかいわれて眉をひそめられています。かつて異常なまでに新人に厳しかった俳壇を経験している世代としては、新人は甘やかさないと出て来れないと思っています。

その観点から『新撰』が不器男賞の作家達に貴重な機会を提供してくれたことはほんとに涙が出るほど有難いと思っています。甘やかすと言いながら、不器男賞はそのインターバルの長さ、100句という非常識なハードルのため涙をのんだ心ある作家達が多くいることをブログなどで知っています。参与の立場からは、予選を通過した人々はすべて明日の俳壇を支える力があると確信しています。予選通過者はその意味で宝の山だと思っています。

上田:第2回の芝不器男賞の時、佐藤文香と谷雄介にいっしょに応募しようと誘われて、思いっきり年齢制限を超えていたので、苦笑したことを思い出しました。

筑紫:では、あらためて『俳コレ』の話を。

上田:えーと経緯は、さいきんspica(俳コレ制作秘話,)でもしてしまったので、これもかいつまんで。

むこうでも話しましたけど、2010年は「私家版ゼロ年代100句撰」「新撰超新撰世代・150人150句」というミニアンソロジーを二つ作りました。

ほんとうに人の句ばっかり読んでた一年だったんですが、そのおかげで、なんとなく、今の俳句の布置のようなものが頭に出来て、してみると新人アンソロジーは、まだ何冊か出せそうだ、という気がしてきてたんですよ。

そう思っていたもので、とうぜん牙城さんから、その年の暮れの『超新撰』の出版記念会「竟宴」の席上で、第三弾の発表があるだろうと、大変期待していたわけです。ところが、来年もパーティーやります、という予告だけ出て、本を出すという話が無い(笑)。

それどころか、牙城さん、翌24日に、Twitter上で『新撰』アンソロジーは打ち止めです、と書いちゃった。えー、それは、どういうことだろうと思って、そのクリスマスイブの晩に牙城さんに電話したんですね「あれ、もう一冊やらないんですか?」「本無しでパーティーだけやるんですか?」と。

そしたら、牙城さん「撰者が、2年にわたる討議の末、最高の人選として42人を出したんだから、あれ以上はない。あれは、もうあれでいいんだ」と言われるんですね。じゃあ(磐井さんたちには失礼ですけど)「撰者を替えて、また続けるというのは、だめですか?」と聞くと、「撰者もベストの3人をお願いしているのだから、それは撰者に失礼で、考えられない」と言って、うんと言って下さらない。

ぼくも、こういう時だらだら粘るほうなんで、いろいろ言いながら、一時間以上しゃべったと思います(二人とも、だいぶお酒は入ってました)。ぽろっと、牙城さんが「週刊俳句編でやる?」と言われたんで、即座に「ありがとうございます。天気さんと相談します」と言って、電話を切りまして(笑)。

西原:付言しますと、「竟宴」の二次会で、「三冊目は出ないのか」「邑書林がやらないなら、週刊俳句でやったらどうか」という声がありました。酒席の個人的な話題として、ですが。

筑紫:私は『超新撰』に上田さんが入った時、第3弾が出ることをうすうす想像していた(笑)。

上田:じゃ、誰もが予感していた道筋だったわけですか。ぼくは運命にあやつられてたのかもしれませんね。

筑紫:『俳コレ』の入集作家に、熱心な人がいれば第4弾があるわけです(笑)。

上田:で、25日、天気さんに「密談」というタイトルのメールで、「週俳」編集、新アンソロジーやれるかも、ということを電話の経緯とあわせて書いて送りました。すぐ会って話しましょうか、と言ったら、天気さん、まあ年末年始ゆっくり考えましょう、と。どうどう、みたいに制されまして。

西原:そうでしたっけ? 怠け者ですね。すみませんでした。私にはアンソロジー関連の発想も具体的なアイデアもありませんでした。

それと、この席上でこんなことを言うのは場違いに水を差すようですが、個人的には、この手のアンソロジーについて、意義を認めつつ、またおもしろがりつつも、一方で、「制度的」なものを感じ、一定の距離をとってしまうところがあります。その意味で信治さんとは温度差があったのでしょう。

このあたり話がややこしくなるので、「制度的」の3文字で忖度していただくとして、ともかく、信治さんは「年末年始ゆっくりと」などせず、力強く企画を進めたわけです。

上田:たまたま年末31日、牙城さんが、これから上京とtwitterで書かれたのを見て、すぐ電話して(twitter、便利ですね、人が何してるかすぐ分かる)、用事が終わられたら新宿で会うことになりました。新宿中村屋の3階でしたっけ、ファミレスみたいなところです。飲茶セットとビールか何かを頼み、牙城さんに、出版の意志を確認しました。

邑書林の条件は、最低の買い取り数の保証と、『新撰』シリーズとの連続性を作らないこと、でした。具体的には、装丁は間村さん以外で、タイトルは『○撰』以外でやる、ということ。約束した買い取り数は、俳壇配布分ということで、たぶん編集費を除く制作費用の1/2に満たない数字だったと思います。『新撰』の、出資者むけの経費内訳も見せてもらいました。

筑紫:やはり、資金確保が問題ですよね。『新撰』はほとんど資金問題から出発しましたし。

上田:『超新撰』の時、ぼくはそこそこ冊数買って、「里」や、「週刊俳句」でお世話になった方に、どーっと配ったんですけど、そしたら、たくさんお手紙をいただくじゃないですか。こんな嬉しいことはないな、と。お手紙で書き抜いてくださった句を記録しておくと、すごく面白い資料になりますし。

自分で買って配ることのメリットを知っていたので、入集作家の方にちゃんとお勧めすれば、それなりの数を購入していただけるだろう、リスクを取ってくれた邑書林に損はさせない、という勝算はありました。

(つづく) ≫第2回

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