2013-04-07

【週俳3月の俳句を読む】空っぽの私 岡野泰輔


【週俳3月の俳句を読む】
空っぽの私

岡野泰輔



わが頬を打たねばこの身かげらふに  新延 拳

現在の私の身体は通り過ぎつつある分子が、一時的に形作っているにすぎないものということらしい。(『動的平衡』福岡伸一)骨格があり、筋肉と脂肪と水を充填した皮の袋という構造としての身体観から、分解と再生を繰り返し、分子的流動の均衡点としての現在の私。そう、放っておくと光学現象に解消しかねない「私の身体」への危機感、そういっては大げさか?だって頬を打たねば消えてしまうのだから。同じ作者の「白木蓮の叫び尽くして暮れにけり」「木の瘤が異国語話す春の風」のように本来は物のうえに「私」が「身体」が溢れ出てくる詠み方だと思う。だから「春眠の覚めぎは我を呼べるこゑ」の淡い「私」が気になる。空洞に響く声は夢と現実どちらの岸から聞こえてくるのか。


麗らかや水に飛び込みさうな松  中田尚子

雛人形彼の言ふとほりに飾る

前項の新延の作句地点が過剰な私と空ろな身体の相克にあるとすれば、中田の「私」は最初から空っぽである。俳句的「私」とことわっておこうか。おそらくそれが写生の要諦で、俳句への最短距離なのだろう。「水に飛び込みさうな松」とは小学生のようでもあり、空っぽな、俳句と一体化した「私」が瞬時に捉まえた言葉のようでもある。もっとも雛人形を飾る私は別な私。あれはいろいろあるのですね、関西風、関東風と。


春の波何度も寄せるコンビナート  大穂照久

もうここまでの流れで空っぽの私という文脈はできてしまったのでそれでいく。中田が言葉を捉まえるために自らを空っぽにしておくとすれば、大穂のこの句はその前提すらない。事物に色をつけず定型まで運ぶとすれば私は透明である他はない、そんな感じなのだ。コンビナートという懐かしくさえある言葉もここでは脱色されている。遠く加藤郁乎を思い出しておいてもよいだろう。
「建国記念日女子の真っただ中に」進んで女子の中へというより、気がついたらそこにいた、というのではないか、そう読みたい。状況は謎だが、自分を男子という認識もなかったのではないか。放下に近い空ろぶりだから、建国記念日が味わい深い。


おぼろおぼろ我をつつみてゐし胞衣も  杉山久子

そんな記憶はない、そんな記憶はないが胎内で薄膜越しに微かな光を見るようだ。夜の薄膜につつまれ立つ私に突然胎内の記憶が降りてくる、そりゃ嘘だろうとツッコミを入れたいところだが、記憶にない胞衣の身体感覚が妙に生々しい。むしろ朧夜に立つ私のほうが空虚である。あと「荒凧の墜ちて地を刺すガガガガガ」は太い漫画の縦線を、「背鰭あるものが過ぎゆくシクラメン」は『ミセス・キャリバン』レイチェルインガルズを思った、なぜだろう。


魚島や天気は筆のごと崩れ  黒岩徳将

臨場感あふれる豪壮な景。魚島という季語がそもそも凄いので、それでこと足れりとした句が多いが、天気の急変でダメ押ししたのが好き。そもそも筆とか刷毛は空とか海とかの描写に比喩として頻出しないか?そこが素直というのではなく、捩じれていておもしろい。


第306号 2013年3月3日
新延 拳 我を呼ぶこゑ 10句 ≫読む
中田尚子 風車 10句 ≫読む
杉山久子 明日蒔く種 10句 ≫読む

第307号 2013年3月10日
黒岩徳将 切符 10句 ≫読む

第308号 2013年3月17日
大穂照久 叙景 10句 ≫読む



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