【週俳3月の俳句を読む】
ぺらぺら
瀬戸正洋
日本酒の呑み比べをした。一口呑みミネラルウォーターで舌を戻し、また、一口呑む。辛いだ、甘いだ、酸っぱいだ、などと能書きを言っているうちに何がなんだか訳がわからなってしまった。僕は「物」の価値についてよくわからない。日本酒もスコッチウイスキーも背広も値が張るものが良いものだとしている。その考え方で八割は当たっていると思う。日本酒もスコッチウイスキーも値が張れば旨いと思うし背広だって着心地はいい。「金」でしか判断することのできない僕の精神は悲しいくらい貧しいのだ。店を出ると歩くことができない。引っ繰り返ってしまう。歩こうと思うと何度でも引っ繰り返る。他人の足だけが目の前を通り過ぎる。何度も引っ繰り返っているうちに一冊の本を拾った。道に本を置く人はいないだろうから落ちていたのだと思う。しばらくして、誰かがタクシーを拾ってくれた。誰かとは見知らぬ誰かである。運転手は直に嫌な顔をした。窓を全開にしてタオルとビニール袋を渡し「吐きたくなったらすぐに言って下さい。車を停めますから」と言う。「どちらまで」と聞かれたので「東名高速道路の横浜町田インターへ。そこから東名高速に乗り大井松田インターまで。」と言った。運転手の態度がすこし変わった。保土ヶ谷バイパスの手前、自動販売機の並んでいる前で運転手は僕をタクシーから降ろし缶珈琲をご馳走してくれた。夜風が酔いを醒まさせる。運転手との真夜中の珈琲タイムだ。僕はこんな上っ面の「やさしさ」で十分に幸せになることができた。嘘でも何でも他人の笑顔はいいものだ。僕の人生など所詮その程度のものなのだ。だが、よく考えてみると、上っ面の付き合いの中で幸福に生きようとすることは必要なことなのかも知れない。上っ面に接することの中に本当の何かが隠されているのかも知れない。正しく生きようとすると弾かれてしまうのが世の中だとしたら、その「正しさ」は間違っているのだ。僕らが過去の自分について卑屈になったり悔いたりすることは現在の自分を肯定しているからなのだろうか、それとも、否定しているからなのだろうか。
姿見の中の密会春灯 新延拳
密会をしているのは作者自身である。その情景は姿見を通して映画のひとコマのように作者にも見ることができる。まるで密会をしているのは自分ではないかような錯覚に陥る。この錯覚は罪悪感から来るものだ。「春灯」とは薄暗いあたたかな灯り。全体はぼやけ倦怠感さえ漂う。これからは作者自身姿見がなくとも自分自身を離れて見る術を知った。密会について考えることは人生にとって何か大切なものを知るきっかけになるのかも知れない。「悪」について考えることも必要なことなのだ。「ろくろっくび」とは首がのびる妖怪だ。この妖怪はいったい何を暗示しているのだろう。他に、「桜咲くわが夢の中われはゐず」に興味を覚えた。確かに、この作者の「夢」には自分が登場しないことが何となく理解できるような気がすると書くと言い過ぎか。また、「水に傷つけて初蝶淫らなる」「遅き日の菊坂のほりくる一葉」の作品も面白いと思った。
拾った本とは「ルキリウスへの手紙/モラル通信」である。セネカ著、塚谷肇訳とあった。セネカを読むことははじめてのことだ。セネカはイエス・キリストとほぼ同年である紀元一年頃生まれ、暴君ネロの命令により自害したのが紀元六十五年頃。人というのは二千年経っても何も変わっていないのかも知れない。≪わたしたちはある対象やものごとに恐怖をいだくが、実際にその場に立ちあい直面すると恐怖の度合いははるかに減少する。どんな災難であっても、最終段階になればもうたいしたことではなくなっているはずだ。≫とある。確かに僕らはこういった経験を何度もしている。僕らにとって最大の災難である「死」であっても同じことだという。反対に、たとえば「お正月」。「もういくつ寝ると」ってやつだが、そう唄っている時が一番楽しく、待ち遠しいのであって除夜の鐘を聞いたとたん、「正月」は、あっという間に過ぎ去ってしまうのだ。つまり、「苦」も「楽」も、その日までのことであり「その時」は普段と何も変わらない平々凡々なひと時と同じなのである。
麗らかや水に飛び込みさうな松 中田尚子
堤防、あるいは海の近くにあたかも人が水に飛び込もうとするような「すがた」の松が見える。それを眺めている作者は何故か楽しい気持ちになってきた。「麗らか」とは幸福な言葉だ。生きているということは僕らの考えることの出来る他の全てのことより、ただそれだけで十分に価値のあることなのだ。他に、「パンに塗るレバーペースト日の永し」「雛人形彼の言ふとほりに飾る」「風呂敷にふるさとの酒大石忌」に興味を覚えた。「彼の言ふとほりに」も嬉しい。それから、僕はふるさとの酒の銘柄は何か知りたいと思った。
地球より生えきて春の葱となる 杉山久子
葱畑の葱を眺めて人間の都合のよいように歪められてしまっていると言ったのは尾崎一雄だ。畑の作物を眺めて人間に飼いならされている、不自然だと言ったのだ。もちろん、この「葱」も人の手が加わり歪められたものなのだが「地球より生えきて」「春の」と置いたことにより、あたかも大自然に育てられた歪められていない野生の葱のような「錯覚」に陥る。他に、「てふてふに酸化はじまる地震のまへ」「背鰭あるものが過ぎゆくシクラメン」が面白いと思った。実景はよくわからなかったが「文字」の配列の中に面白い「何か」を僕は感じたのかも知れない。
水音は風の足音春キャベツ 黒岩徳将
水が流れているのは、水音が聞こえるのは、風のせいなのである、春キャベツのせいなのである。そんなことを考えていたら、いつのまにか水の音は風の足音のような気持ちになってきた。こう思った理由も春キャベツのせいなのであった。他に「花束の中で朧を待っている」の作品が面白いと思った。花束の中で朧を待っているのは誰なのだろうか。その誰かの待っている朧とはいったいどのようなものなのだろうか。
花屋より流れ出てくる春の水 大穂照久
花屋より流れ出る水は「春の水」と言っても、花屋の花を生かし花々に触れ役目を終えて店先に流れて出て来た水なのである。満々と水を湛えているイメージではない。だが、その水が巡り巡って花屋の店先までやって来て流れ出たのだ。花屋の店先には人間が「育てた」色とりどりの美しい春の花々。この作品からは春の花屋の花の美しさよりも店先を訪れる人々を思い浮かべてしまう。男は照れくさそうな顔をして選ぶだろうし、ご婦人たちは笑顔を浮かべて眺めているのだろう。店先を訪れる様々な人々を想像することは楽しいものだ。花屋とは「水」の力を借りて人々を幸福にする商売なのだ。
塚谷は、「序」の中で≪わたしたちの近代文学史は戦前、戦中期に、自分のライフスタイルを徹底的につらぬいた文士を存在させた。フランスから帰国した後の永井荷風だ。時代の動向、政治、社会、風潮がどうであれ、徹底的に自分自身でありつづけることを放棄しなかった男だ。石けんや紅茶の選択に至るまで、みずからに固有なライフスタイルをつらぬいたのには頭がさがる思いだ。≫と書いている。俳人は俳句を作るのが楽しいから作るのだと思うし、荷風には到底及ばないにしても自分自身であり続けるために俳句を作るのだ。最後に誤解されないように書くのだがタイトルの「ぺらぺら」とは僕のことであり「ぺらぺら」の僕が感想を書いたということである。決して、感想を書かせていただいた作品、及び、作者のことを「ぺらぺら」だと言っているのではない。
ところで、僕にとっての日本酒の一番は「獺祭」なのである。尊敬する人から頂いたものだからかも知れない。
第306号 2013年3月3日
■新延 拳 我を呼ぶこゑ 10句 ≫読む
■中田尚子 風車 10句 ≫読む
■杉山久子 明日蒔く種 10句 ≫読む
第307号 2013年3月10日
■黒岩徳将 切符 10句 ≫読む
第308号 2013年3月17日
■大穂照久 叙景 10句 ≫読む
2013-04-07
【週俳3月の俳句を読む】ぺらぺら 瀬戸正洋
●
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿