第752号 2021年9月19日 ■上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む
第756号 2021年10月17日 ■恩田富太 コンセント 10句 ≫読む
第757号 2021年10月24日 ■本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む
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俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
第752号 2021年9月19日 ■上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む
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柳俳合同誌上句会〔2020年9月〕選句結果
10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧
参加者
【週俳9月の俳句を読む】
9月はいろいろあって
岡野泰輔
いや恐かった、台風24号のあんな風は初めてだ。一晩中屋根が鳴って眠れず、朝その一部が飛んでいるのを発見。台風もういや!
万策が尽きて夕立の止みし街 及川真梨子
万策尽きる主体はふつう詠み手またはある個人だが、ここでは街という個人の集合体、そしてその機構(つまり市役所など)を万策尽きる主体と読むのは強引だろうか。下の句を参照すれば嵐の後、氾濫した街の景が見える。嵐の後の夕立晴の美しくも荒涼たる景と読む誘惑に駆られる。
万策尽きるという生硬なそれだけに意想外の強い言葉の出だしが後半の静寂と釣り合っている。
市役所の泥長の痕菊日和 及川真梨子
「泥長」とはなにか?泥長靴ではないか。ゴム製の長靴をゴム長と言うしね。前の句により勝手に台風一過のとある街を想像してしまった。前日から市役所内を右往左往したであろう職員の泥靴の跡が生々しい。泥から菊へあざといまでの展開だが、嵐の後の秋晴の街が見えてくるようだ。
水遊びする子の父は祖父となり 対中いずみ
複数のテクストの重なりが美しくも豊かな俳句的時空を現出させてうっとりする。もちろんすべて読者たる私の頭の中での出来事。パラテクストとしての作者名、その下層からゆっくり現れる師田中裕明の名、そして名高い「水遊びする子に先生から手紙」。それに「水遊びする子をながく見てありぬ」を加えてもよいだろうか。それにしても水遊びする子はなんと持続する陽光を纏ってしまったことか。水遊びした子の子も水遊びする、その循環する光と水。特権的な場所から放たれたことばにせよ、その言葉はしばらく私を立ち止まらせる。「眠りゐる子の眉あげて冰る山」「をさなくて晝寢の國の人となる」等裕明の眠る子の像も揺曳させながら。
ネクターの缶かわいくてもう九月 佐藤 廉
ネクターが好きだ。ピューレ状のあの舌ざわりとほの甘さ。たしかに真夏の飲料ではない。九月は実に適切な感じがする。また歴代のパッケージデザインも果実-桃を衒いなく前面に出した王道のもの。というわけでこの句の「かわいくて」とか「もう」の俳句では忌避される語の使用による全面手放し感はまさにネクターそのもの。句形と素材の幸福な一致。
水引や自説あっさり覆す 津田このみ
十六夜の体側適当に伸ばす 津田このみ
あっさりしているのである。適当なのである。あれほど力説していた論をくるっと180度回転。
その軽やかさと水引草は合っているともいえるし、あっさり覆されて違う景物と合わされても文句は言えない。やはりあっさりがいいのか。一方二句目、体側はもっとしっかり伸ばした方がよいと作者に忠告したいところだが、何事も適当が肝要らしい。作者の最新句集『木星酒場』には「ところてんと言うてからだがところてん」があったりして適当でも体側は十分伸びているのだろう、うらやましい。季語十六夜は適当でなくこの句を俳句の側に、俳句の国の出来事に設えている。
草紅葉ゆっくり曲がる樹木希林 津田このみ
この句、9月30日号ということは樹木希林の生前に作られたものか、死後か?どちらにしても興味深い。「ゆっくり曲る」が奇妙な不思議な運動を句中で起こしているからだ。樹木希林という名前そのものが句の言葉として運動をはじめる、撓んでくる。ぎしぎしと音さえ立てているのではないか。毀誉褒貶というより最後は称賛につつまれたといってよいこの女優への句として立派に立っている。草紅葉もなにやら象徴的だ。
第593号 2018年9月2日
■及川真梨子 隠門 10句 ≫読む
第596号 2018年9月23日
■対中いずみ 嫌がつて 10句 ≫読む
■佐藤 廉 かわいい缶 10句 ≫読む
第597号 2018年9月30日
■津田このみ 大阪 10句 ≫読む
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【週俳2月の俳句を読む】
冬野菜は最高。
岡野泰輔
冬空の下に今上天皇と香香 川嶋健佑
香香、おこうこ、お新香、冬野菜の漬物は美味。大根、蕪、白菜、冬は糖度が増すらしいのだ。庶民的な漬物も香香と表記されればなにやら高貴な香さえ漂う。今上天皇との意表をつく並列もしばらく眺めていると納得し好ましく思えてくる。今上天皇と美智子妃殿下はなにより平和への思いがことのほか深いことはよく知られている。冬空の下、凛としたお二人のお気持ちに歯応えも美味、冬の香香はよく応えるのではないか。
核咲いて亜米利加さくら咲く国に 川嶋健佑
何度も観た核実験のハイスピード映像は確かに花の咲く瞬間のそれに似ている。一方桜の花はとかく日本的なものを(散る→潔さとかね)背負わされて、特に国と結びつけられればこれはもう明治以降急速にかたち作られた日本の象徴。日本に核を投下したアメリカに核の花が咲いて、そして日本なる桜の咲く国になると読めば、屈折した反米愛国とも読める。とにかくちょっとデスパレートな風味。上の句もそうだが際どいところに突っ込んでいく作句姿勢には好感。とはいえこの手の屈折は短歌のほうがより得意ではないだろうかとの思いもふと過る。
燃えるゴミ隠れてゐたり雪の宿 黄土眠兎
雪国の旅とおぼしき連作。中ではこの句が燃えるゴミという謂わば俗中の俗が雪の宿と
いういかにも俳句向きな題材にグッドコーディネイト。この戦術そのものは普通だがゴミが隠れていることを発見したのが勝因。ゴミの居場所を屋内と読むてもあるが、ここはやはり宿の外の雪の中と読みたい。雪掻きで堆積した雪に半分隠れたからこそ回収にもれた半透明のゴミ袋の中、食材やパッケージの鮮やかな色がモノトーンの雪景色の中で際立つ。
水たまりこんな凹凸だったのか 野口 裕
水は方円の器に従うという言葉があるが、融通無碍な水のその器の方への着目。単純な事実の発見は俳句の得意とするところだが、表現そのものも単純に切りつめ、気づきの生の言葉の投げ出し、なまじなレトリックの介在しない心地よい読後感。で、季語も出る幕がないわけです。道路や地面に雨後に生じるランダムな水のアブストラクト、あれはたしかに凹凸だったのですね、と今更のように思い至る。
古草の髭根を降りて地下鉄へ 野口 裕
古草と言って髭根まで言及する出だしにふむふむと膝を乗り出す。しかしその後にびっくり!髭根から降りて地下鉄までという、この地中の行動主体は?誰?何?作者の意識、
想像力の旅だろうか。降りて地下鉄とあるので髭根までが乗物めいて、この主体は微生物のようにも、草の精のようにも。古草と髭根でとんでもない生命力とか地下水脈まで思ってしまう。普通の顔をしてこの句の根は深いぞ。
姿なき鳥のこゑより寒明くる 堀切克洋
春浅し水蛸の白透きとほる 堀切克洋
寒明とか浅春とか季節=季語の言葉の内実を姿なき鳥のこゑとか水蛸の白とかこれ以上ないほどに適切な事物でうめてみせる。俳句のある種理想の言葉の構築がここにある。
かっこいい。事物にまったく隙のない浅春の句より、こゑだけで実体を見せない寒明の句が私の好み、そして可能性も感じるのだが。
本郷の坂ふつくらと春立ちぬ 堀切克洋
東大はごつごつとして春浅し 堀切克洋
本郷と東大というトポスの力によって支えられている句のようにも読める。なるほどあの辺ね、なるほどあそこね、といった読みの共同体の同意の集積によって句がかたちづくられてゆく。ある浅い春の一日の本郷の坂のあり方の、東大のたたずまいについての、季語への回収の仕方については見事にスマートで遺漏ない。ただ、坂→ふつくら、東大→ごつごつ、といった言葉のあり方はジャーゴンにすぎないかという不満も同時に。
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この世界を自他の区別があらかじめ失われた、方向も、厚みも、重さもないものとして想像してみる、まるで生まれたての自分が包まれたように。その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつを俳句と呼ぶのならその関係の全体を「なめらかな世界の肉」と呼んでも差し支えないだろう。モーリス・メルロ=ポンティの「世界の肉」という言い回しに典拠をもつこの「なめらかな世界の肉」という呼称は、しかしながら、その哲学からのある程度の逸脱でもある。なぜなら、メルロ=ポンティにとって、「肉」とは、まさしくそれ以前の西洋の哲学が都合よく忘却してきた「厚み」の体験をその思考にふたたび導入するための言葉でもあったはずだからだ。したがって、僕たちは、その逸脱の理由を、付加された「なめらかな」という形容動詞に求めざるをえないだろう。世界を「自他の区別があらかじめ失われた」ものとして想像すること自体は「世界の肉」というメルロ=ポンティの哲学にすでに折り込み済みのことである。だから、「なめらか」という形容は、見るものとしての《私》と見られるものとしての《世界》とが明白な境界を持たずに地続きにあるという意味での「なめらか」を超えた、別のなんらかの意味での「なめらか」であるはずだ。だが、こんなふうに書くと、『なめらかな世界の肉』をひらく読者を不当に失望させることになるかもしれない。なぜなら、この句集もまた、あらかじめ分節された、その意味で「なめらか」ならざる言葉から構成されているからだ。〈まんごうやあらぬところにあるほくろ〉と書かれたときに、「まんごう」と「ほくろ」とは分かたれている。また、〈a/be/wa/ya/me/ro/a/be/wa/ya/me/ro/a/ki/no/ku/re〉と繰り返し挿入される斜線は、まさしくここに刻まれた言葉の「なめらか」ならざることを端的に示している。だが、ここで僕たちは、今一度、この書き手が「なめらかな世界の肉」と呼ぶ「関係」、そしてこの書き手にとっての「俳句」とはなにごとだったかを確認する必要がある。
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【句集を読む】
二〇世紀の成熟
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』
西原天気
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【週俳9月の俳句を読む】
ねむる前に
岡野泰輔
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【週俳500号に寄せて】
バックナンバーを眺めていると
岡野泰輔
500号おめでとうございます。10年ぐらいですか? すごいです!
ここまで続いたのは(これからも続きそう)スタート時点から変わらない風が吹いていたから。
俳壇的イデオロギーからの自由、同時代の俳句と書き手の可視化、そんなメッセージを受け取っていたように思います。それらは総合誌や個別の結社誌などだけでは満足できないこと。
同時代の俳句に対する欲求を代行する代理人であると上田信治さんが『俳コレ』冒頭で高らかにマニフェストされたように、すでに広範な欲求があったということ、時宜を得ていたということでしょう。
バックナンバーをつらつら眺めていると、他誌からの転載も含めここで私が出合った論考の数々を再び読み始めてしまいました。いけない、時間がかかる! そこで最初の方から少なからず私がインスパイアされた論とその書き手を並べてみると・・・
第20、22号
サバービア俳句について〔1〕 〔2〕 榮 猿丸×上田信治
第28号
〔サバービア俳句・番外編〕SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly lugar comum × saibara tenki
第60、61号
サバービアの風景〔前篇〕 〔後篇〕 榮 猿丸×上田信治×西原天気
第24号
前田秀樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する 関 悦史
第27号
エレガントな解答と現実 高山れおな「俳句本質論」ではなくを読んで 野口 裕
第38号~
林田紀音夫全句集拾読 野口 裕
第47号~
俳句とは何だろう 鴇田智哉
第58、59号
「われら」の世代が見えない理由~マイクロポップ時代の俳句〔前編〕 〔後編〕 相子智恵
第169号
「俳句想望俳句」の時代 小野裕三
ざっとこんなぐあい。もっとありますが、きりがない。最近では福田若之、小津夜景の書きぶりがおもしろい。これらの論考で俳句を読むおもしろさ以上に、俳句について考えることのおもしろさにハマりました。
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【句集を読む】
世界のありどころ
岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の最初のページを読む
西原天気
私の身体は世界の織目の中に取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。しかし、私の身体は自分で見たり動いたりもするのだから、自分の回りに物を集めるのだが、それらの物はいわば身体そのものの付属品か延長であって、その肉のうちに象嵌され、言葉のすべき意味での身体の一部をなしている。したがって、世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。
メルロ=ポンティ『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳/みすず書房/1966年)
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【週俳12月の俳句・川柳を読む】
射程と負荷
岡野泰輔
俳句の射程距離とそこにかけられる負荷について考えさせられた。射程を長くとり、大きな負荷をかける関悦史、それぞれの距離感で小さな負荷の相子智恵、西村麒麟、太田うさぎと並んだ十二月の俳句。
●関 悦史「水曜日の変容」
毒虫の列島へ林檎抛られむ
宇宙終はればまた始まりて鳥兜
最長の射程距離なのに言葉が薄くなっていないのがいい。それは毒虫とか鳥兜とか言葉の刺激だけによるものではないだろう。特に二句目、永劫の運動の後に復活する鳥兜の禍々しさにしびれる。林檎も鳥兜もそれぞれ歳時記に登録されている一人前の季語だが、かけられた負荷の加重に軋む音が聞こえるようだ。
冬けふも居間占むる象気にとめず
ひところ何かといえばシュール、シュールと形容する人達がいたが(さすがにこの頃はいないか?)その軽薄さがいやだった。そういう人達はこの正統シュールレアリスムを拳拳服膺していただきたい。さりげないがここに人がいること、象と人と、部屋のパースペクティブが微妙に歪んでいる気がする。
●相子智恵 「月曜日の定食」
ゴミ袋に割り箸突き出雪催
十二月の句群の中でもっとも射程距離の短いのが相子の十句。およそ半径5mの世界である。もっとも多くの俳句はこのくらいの距離で詠まれているのではないかしら、なかには30cmぐらいの接写俳句もあったりもするが。
この狭い世界へ俳句的強度をもたらすものは、みも蓋もない物の外形とそれらに囲まれている生活。タイトルの月曜日が句群に色をつけている。
鳴る革手袋や、ビニール袋を破って突き出る割り箸や、B定食の牡蠣フライは作者がこの句群に選んで持ち込んだ負荷といえなくもない。物によって語らせよ、高効率の作法だ。
吹き上ぐる落葉の中の母子かな
これはちょっと違う。リアルな景なのだろうが、新しい聖母子像に思えてしまった。「吹き上ぐる」という落葉の動きのせいだろうか?落葉の動く額縁?
●西村麒麟 「狐罠」
近くから近くへ飛ぶや寒烏
鮟鱇の死後がずるずるありにけり
紙振って乾かしてゐる十二月
数年前小野裕三が提唱した俳句想望俳句という概念をもふと思い出す。概念のつまみ食いだが、俳句形式を全肯定し、形式の内部にこそ俳句のフロンティアを求める。なるほどこの寒烏はひょっとしてそのフロンティアにいるのかもしれない。燃えるゴミの日に必ずわが町内にやってくる二羽が目に浮かぶ。
総じてこの作者にある「身をえうなきものに思ひなして」の「やつし」の感覚が鮟鱇の句や十二月の句に抑制されつつも効果的に働く。
水仙や長距離を行くフリスビー
これはいったい何だろう?この気持よさは?評語をよせつけずそこにある俳句自身という気がする。むりやり読めばこのフリスビーはやがて墜ちるということか?水仙が微妙にからんでくるよね、そこに。
●太田うさぎ 「以後」
葉牡丹に日の差す伊勢の漬物屋
小田原に広げる夜着は鶴の柄
沛然と雨の港区神の留守
このつるつると喉越しのいい句群は、射程距離の設定も、俗謡風にという負荷のかけかたもぴったり決まった。喉越しをよくするために実に繊細な工夫がされている。伊勢で漬物屋で葉牡丹とくれば、これはもう動かしようがないと思わされるし、小田原に夜着はかるく意表を突かれるが鶴の柄で決まり、港区とはなんと、俗でもあり、そうでもないような、困った。沛然がいい。
明石から港区まで東進しているね。
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