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2021-11-14

岡野泰輔【週俳7月9月10月の俳句を読む】冬のはじめがよく晴れて 

【週俳7月9月10月の俳句を読む】
冬のはじめがよく晴れて

岡野泰輔


ちょうど一年前ぐらいに出版されたアンソロジー『はじめまして現代川柳』(小池正博編 書肆侃侃房)は日頃いかにもな俳句的結構に倦んだ目にはとても新鮮に映った。編者小池によると川柳とはひとつの断言の形式であるらしい。

ゆるキャラが当然もつべき悪意  湊 圭伍

なるほど、湊のこの句はひとつの断言だ。ゆるキャラにおしなべて標準装備されているはずの善意、その真逆=悪意がここにきっぱりと断言される。「当然」とか「べき」の強調がその断言性をきわだたせている。すべての善意は悪意の裏づけがあってこそと思わせる。当然とかべきの措辞の効果である。あのふなっしーの度を越した狂騒ぶりなども内に悪意を想像すればさらに味わい深い。殺人鬼のサンタクロースが登場する映画シリーズもあるように、善意の内なる悪意はポップアイコンに相性がいい。

ここで前述の『はじめまして現代川柳』から湊の《機関車トーマスを正面から殴る》をふと思い出す。たしかにトーマスを殴るなら正面からだろうというのはさておいても、ここでの悪意は対象のこちら側、子供のそれではないか、と思い至り少し驚く。

マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ  同

こういう句を前にして何を語ればいいのか。もちろん語らない自由はこちらにあるのだけど、《階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石》を例にあげ、たしか三島ゆかりが「三物衝撃」といっていたが、それにあたるだろうか? 違うか?

閒石の句をいま見れば、階段、海鼠、日暮、が薄い類縁=情緒でつながっている。

一方湊の句は三物がそれぞれつながりを断とうと三方向へ最大限の推力を発揮している。おそらく慎重に離したであろうマキャベリと桔梗、マキャベリと炒める、桔梗と炒めるはまあできなくはないが、縁はない。と、ここで「いつも」が断言の形式川柳としての力を、効果を発揮しているように読める。ちょうど閒石にあって「かな」-詠嘆が俳句を保証しているように。

生きかたが尻とりの彼氏  同

ホイホイと一面に載るG7  同

この浮薄さこそを楽しめばいいのだろう。特に後者の軽さはどうだ。G7とかG20とかの略称にまつわるそもそもの軽薄さ、特に日本人の自尊感情をくすぐる7とか20の数字。いそいそと雛段に並ぶ首脳、それも短躯日本人首脳の軽さがホイホイで悲しいまでの可笑しさに。

住むことの今年花栗にほふ夜に  上田信治

翡翠のこゑとぶ雨の山つつじ  同

くらい日の水に日のゆれ半夏生  同

静謐な美しさを湛えた句群。花栗、翡翠、半夏生などの実に俳句的な景物が無理なく一句の季題として働いている。仔細に見ていけば名詞、動詞、形容詞の情報量は少なくない。その情報量が気にならないほどなめらかにつながって、ある美的統御がなされている。聞きやすい高さにおさめられた声調(トーン)もそのひとつ。でもどうしたんだろう、上田信治とはもっと過激な作家ではなかったかと、私は氏の第一句集『りぼん』(邑書林2017)を思い出している。例えば《春は古いビルの頭に人がゐる》。この句の過激さ異様さはどうだ。ビルの屋上に人が立っているのが見える、それだけのことが、春はの「は」、古いの「い」など普通に見えてそれぞれ普通でない方へずれていく仕様。極めつけはビルの頭、直後に人がみえるので日常の符帳の域を超えている。細部の少しずつのずれが全体として白昼夢のような景を現出していた。

とはいっても一句目、《住むことの今年》には特に惹かれる、花栗と相まってざわざわとしみじみする。静かな句だけとり上げて云々するのもフェアでない。

階段は遠目に枇杷が生つてゐる  同

この助詞「は」の不思議さ、遠目ということさらな言及、それでいて全体がなめらかにつながる。上田は健在なのである。

神は見ない水に砂糖の溶けてゆく  同

水に溶ける砂糖をじっと見ている目と、見ないと否定してもそこにある神の目によ
る視線の二重性。ただ事が永遠の真実に交差する一瞬の詩情を感じる。

根切虫きみどり色の町の夜を  同

フィルターがかかったようなきみどり色の町と根切虫はちょっと禍々しい、こんなふうに書かれると根切虫は季を離れて怪物のような大きさを獲得する。

ともあれ作家は変貌する。『リボン』以降の上田はどこへ行って我々を待っているのだろうか、私は捜しあぐねているのかもしれない。上田の行跡を追うことは俳句の秘密にふれるよろこびでもある、困ったことに。


第741号 2021年7月4日 湊圭伍 あまがみ草紙 10句 ≫読む

第752号 2021年9月19日 上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む 

第756号 2021年10月17日 恩田富太 コンセント 10句 ≫読む

第757号 2021年10月24日 本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む


2020-09-13

柳俳合同誌上句会〔2020年9月〕選句結果

柳俳合同誌上句会〔2020年9月選句結果

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧

参加者

〔柳人〕
樋口由紀子
竹井紫乙
瀧村小奈生
川合大祐
柳本々々
〔俳人〕
岡野泰輔
こしのゆみこ
竹内宗一郎
生駒大祐
岡嶋真紀

※選外の句にも随意にてコメントいただいています。

【紙】

脱色してヤンキーになってる紙  竹井紫乙
◯竹内宗一郎
■感光して色の変った紙だろうか、ヤンキーの喩えが面白い。(竹内宗一郎)
■ヤンキーは金髪になるが、この紙は何色?日晒しで反りかえった紙か?(岡野泰輔)
■脱色するとヤンキーになるのか…よくわからないけれどそうかもしれないと思わせられてしまう。(瀧村小奈生)
■「なってる」と句自体がヤンキー化しているところが興味深いです。(川合大祐)

猪に勝つて紙面の小見出しに  竹内宗一郎
■じゃあ、大見出しは何だったのか。「猪突猛進にうっちゃり!」が大見出しで、「イノシシから金星の田中さん」が小見出し・写真付きみたいな妄想をしてしまった。(瀧村小奈生)

〈     〉を〈紙にプリントするように〉  川合大祐
◎岡嶋真紀
■私は『〈     〉』を「空白」と読み取りました。何もない全くの空白を印刷機で出力してしまったとき、印刷機から出てきた白紙は何かプリントされているような、特別な何かに感じられます。それに加えて「〈紙にプリントするように〉」の柔らかくも念押しのようなフレーズが続いていて、どこか神託のような雰囲気があって面白いと思いました。(岡嶋真紀)
■何か面白そうなのに、手にとりきれないもどかしさを感じる。(瀧村小奈生)

鏡台のうしろに落ちた秋の紙  樋口由紀子
◯生駒大祐
■なんでもない内容なんですが、「秋の紙」という静かなふざけかたがいいですね。(生駒大祐)
■「秋の紙」は何なのだろう、鏡台の後ろに落ちたら拾うのだろうか、そのままになってしまうのだろうかなどと彷徨っている。(瀧村小奈生)

ユニコーンの匂いは紙に似ている  柳本々々
◎竹井紫乙◯岡野泰輔◯瀧村小奈生◯樋口由紀子◯こしのゆみこ
■誰も嗅いだことのないユニコーンの匂いについて勝手に断定しているわけですが、このパターンは川柳ではよくあります。この句は取り合わせが美しい。ユニコーンは白馬のような姿だったり、白っぽい薄い水色で描かれた姿がポピュラーです。そこに「紙」の取り合わせがとてもクール。ユニコーンは実在しない。紙に書かれたことも本当のこととは限らない。幻の匂いは紙の匂いかもしれない。(竹井紫乙)
■一角獣だし、獣の匂い、性的、宗教的な暗喩も呼びやすいが紙の匂いはそのすべての問を外している。穿った解釈を寄せつけないとりつく島のなさがおしゃれ。長編詩や小説の語り出しみたい。(岡野泰輔)
■ユニコーンはその姿に目を奪われ、匂いまで思いが及ばなかった。紙のような匂いがするのか。その断定に納得。(樋口由紀子)
■本当は紙じゃなくてもいい気がする。紙よりもっといい匂いというわけでもない、もっと特別なものがいいです。でもこの措辞はとても素敵でした。(こしのゆみこ)
■ユニコーンの匂いと言われてもよくわからないのだが、匂いがなさそうなところが紙と似ているのかもしれない。「匂い」という言葉で、ユニコーンも紙もなまめかしく感じられておもしろい。(瀧村小奈生)
■紙がユニコーンの匂いに似ている、ではないところが凄いです。ユニコーンの匂いが確かに存在すると、疑わないことが前提の世界観。(川合大祐)
■どことなく粉っぽくて、ほんのり甘い匂いなんでしょうか。存在しない生物のユニコーンを、紙にぶつけたことによって変な説得力をもたせたのが面白いと思いました。(岡嶋真紀)

紙でつくる東京のうへ鰯雲  岡野泰輔
◯川合大祐
■「東京」を紙でつくっているのか、更にはその「うへ」の「鰯雲」をつくっているのか、広がりを持つ句でした。(川合大祐)
■紙をしわくちゃにしてちぎってばらまけば、うまく出来上がるかな。深読みすれば政治的な句ともとれるけれど、そういう読み方はむしろつまらないような気がしました。(竹井紫乙)
■「鰯雲」とか「紙でつくる東京」の頼りなさとか素材が魅力的。(瀧村小奈生)

紙蓋のサイズの違う秋夕焼  こしのゆみこ
◯瀧村小奈生
■紙蓋は紙の落し蓋のことでよいのだろうか。落し蓋のサイズの合わないのは、まあいいんだけれども哀しさと違和感が残る。秋夕焼けは、そういう心の屈託を帳消しにしてくれる美しさを持っていると納得した。(瀧村小奈生)
■紙蓋にも硬いものと柔らかいものがありますが、サイズが違う気持ち悪さがあまりぐずぐず感じられないのは秋夕焼のせいなのでしょう。(竹井紫乙)
■何に蓋をするのか、そもそも何を入れようとしたのか、「秋夕焼」と言う季語の無限星が勉強になります。(川合大祐)

筆洗や月へ及べる紙の冷  生駒大祐
◯瀧村小奈生◯樋口由紀子
■「月へ及べる」とはなんと素敵な言葉だろうか。紙のひんやりした感触が伝わってきそうだ。ていねいに表現している。(樋口由紀子)
■書道にはまったく無縁なので、この句はどこをとってもかっこよく思える。月の光と紙の冷、しんとした秋の夜が気持ちよく感じられた。(瀧村小奈生)

鞄には他人になる紙星月夜  岡嶋真紀
■一読、離婚の句なのかと思ったのですけど。でも鞄の中に紙はいつまでも入ったままなのかもしれないし、自分の鞄ではないのかもしれない。自分が別人になる紙なのかもしれず、どうとでも読もうとすれば読める。鞄はブラックホールですね。(竹井紫乙)
■鞄の中に入っている紙に意識をとられながら星月夜を歩いている感覚に共感する。「他人になる紙」の不思議さに惹かれながら、離婚届だったらどうしようと躊躇してしまった。何でもないただの紙だったらいいのになあ。(瀧村小奈生)
■普通に考えれば離婚届なんですが、偽造身分証明書ととらえても「星月夜」のシステム感の前の無力さが出ていると思いました。(川合大祐)

紙コップ立つ秋の日のコカ・コーラ  瀧村小奈生
◎柳本々々
■紙コップが立つしゅんかんってたしかにきもちいいんだよなあと思う。そうそうあれあれ、と思った。とくにそれが秋の日でコカ・コーラならさわやかの嵐でいい。(柳本々々)
■あの赤い蓋を回した時に鳴る音が高らかに響いてくるような。秋の痛快な気持ちいい日に、痛快な飲み物を飲むワクワクを「紙コップ立つ」から伝わってきました。(岡嶋真紀)

【魚】

たなびきし楽市楽座魚座どち  こしのゆみこ
■たなびいていたのは楽市楽座の幟旗?そんなお店もあったような。「座」だけでつながる魚座も楽しい。(瀧村小奈生)

てのひらの魚の熱をどうしよう  樋口由紀子
◎岡野泰輔◯竹井紫乙◯柳本々々◯岡嶋真紀◯生駒大祐
■どうしよう! 変温動物らしいから死んじゃうよ。手のひらに載る小さな魚の熱を気にして戸惑っているのが、ばかばかしくも、すごくいい。小さなもの、柔らかなもの、弱いものへの無垢で残酷な視線がスタイリッシュ。(岡野泰輔)
■魚の熱は作者自身の熱なのだと読んだ。どうしようもないよね。どうしようもないことをどうしようもなく書いているところが良いと思いました。(竹井紫乙)
■マジでどうしてくれようか。この魚は生きてるんでしょうか。だからここまで取り乱したのかな。低いはずの魚の体温を、たしかな熱として感じ取れるところが凄いと思いました。生き物に慣れていない不器用さ、優しさ、そして怯えとが詰まっていて、そこが魅力だと思います。(岡嶋真紀)
■どうしようと迷い始めているのがよかった。とくに終わりに。迷って終わる。これからどうなるかわからない。魚の熱とての熱がゆきかっている。すこし命もすれちがってる。でも短詩だからそこで終わる。それがよかった。(柳本々々)
■「魚の熱」という意味領域でのわかりにくさからの「どうしよう」の不安な感じに繋げる感じ、いいですね。(生駒大祐)
■てのひらにある魚のとりつく島のなさ…まさに「どうしよう」かと。てのひらの熱のどうしようもなさでもあると思う。(瀧村小奈生)
■「死」って言うことを、直接には言ってないのですが、死/生を一番感じた句です。(川合大祐)

よく晴れて広場に魚の降る時間  岡野泰輔
◎竹内宗一郎◎瀧村小奈生◯竹井紫乙◯樋口由紀子◯生駒大祐
■「魚の降る時間」なんでないのですが、あってもいいような気がして不思議。よく晴れた日の広場なら、まるで祝祭のようだ。(瀧村小奈生)
■空から魚が降ってくる、そんなニュースがあった。鳥の仕業かなどと。晴れた日の広場という設定もよい。(竹内宗一郎)
■水族館で魚の群れを眺めていると、スピードが速くてきらきらしていて眠たくなります。ぼんやり眠い、いい時間。それを晴れた広場に持ってくるとさらに幸福感が増す感じ。(竹井紫乙)
■「『空から何かが降る』ということには、歌人をそそるなんらかの要素があるらしい」(『青じゃ青じゃ』(高柳蕗子著)。俳句でも川柳でもそうかもしれない。映画のラストシーンのようで、降ってくる魚はきっとぴちぴちと跳ねている。(樋口由紀子)
■最初に明るさを見せることで降ってくる魚のきらめきが見えてきます。陽気な句。(生駒大祐)
■「広場」にせよ「時間」にせよ、区切られていて、だからこそ「降る」と言う言葉に説得力があるのかもしれません。(川合大祐)

雑木紅葉水の育ちを魚に問ふ  生駒大祐
■美しい紅葉をもたらす水の氏素性を魚に尋ねてみたくなったのだろうか。きっと育ちのよい水だと思う。(瀧村小奈生)

秋澄みてシーラカンスの魚拓かな  岡嶋真紀
■枯れている。そして澄んでいる。魚拓とか化石とかドライなものが恋しくなる不思議。(竹井紫乙)
■秋の清澄な空気の中でシーラカンスの魚拓を見る。どこまでも潔く気持ちのよい句だ。(瀧村小奈生)
■季語のことはよくわからないのですが、せっかくの秋が澄んだ日に、わざわざシーラカンスの魚拓を取るところが無意味でよかったです。もしかしたら、魚拓は過去に取ったもので、ずっとそこにあったものかもしれませんね。「澄み」=「墨」なのかとも思ったり。(川合大祐)

太刀魚のひかりをするするとしまう  瀧村小奈生
◎樋口由紀子◎生駒大祐◎こしのゆみこ◯川合大祐◯岡嶋真紀
■太刀だから光はつきものなのだけれど、そして太刀だからしまうものだけれど、しまうときの「するする」がぞくぞくするほど魚ぽい。太刀魚っぽい。やさしいことばの腑に落ち具合がここちよい。(こしのゆみこ)
■新鮮な太刀魚は銀色に光っていて、まばゆいくらいだ。その光を仕舞うという。するすると瞬間にだろう。そのさまがいい。「太刀魚」の漢字が映える。光と影の絶妙のコントラスト。(樋口由紀子)
■「太刀魚のひかり」までは常套なんですが、するすると仕舞われてしまって光を失ってゆく太刀魚を想像するとコクがあります。中七下五の句またがりも効いていると思います。(生駒大祐)
■ひかりをしまう、だけじゃなくて「するすると」が入っているところが凄いです。doの「する」と読むのは読みすぎでしょうか。(川合大祐)
■魚に慣れている人の句。「太刀魚のひかり」にこだわりを感じました。あんなに長くて平たくて銀色の綺麗な魚を、手妻のように鮮やかに簡単にしまってみせたんでしょうね。(岡嶋真紀)
■太刀魚のベールとかショールがあれば便利だろうなあ。するする。(竹井紫乙)
■太刀魚自身の動きをこう言ったのか? 海中で見たことないが、きれいかも。(岡野泰輔)

痛風やじつとしてゐる熱帯魚  竹内宗一郎
◯川合大祐
■熱帯魚の静止、と「痛風」という病気の「動き」が対比されていて、面白かったです。(川合大祐)
■痛風は作者とみるのが妥当だが、熱帯魚だとすると餌を変えた方がよい。(岡野泰輔)
■痛風と熱帯魚がこんなふうに結びつくとは!痛風を患っているのは作中主体なのだろうが、熱帯魚との境界線が曖昧になる感じがおもしろい。(瀧村小奈生)

肺の辺に付ける魚卵製造機  竹井紫乙
■なぜ肺の辺りに? なぜ魚卵製造機? ちょっと怖い感じも。(瀧村小奈生)
■肺の辺りってところが面白いです。この魚卵、孵ったら肺呼吸するのでしょうか。(川合大祐)

父親は痩せていたのか魚竜釣り  川合大祐
■魚竜の存在を始めて知った。「父親は痩せていたのか」という問いとの距離感がおもしろい。(瀧村小奈生)
■「魚竜釣り」のインパクトが凄い。父親が実は痩せていたことに気づくのが、魚竜釣りの時という不条理なおかしさと衝撃。ドリフのコントみたいなセンスですね。(岡嶋真紀)

問100で魚と星とまぜられている  柳本々々
◯岡野泰輔◯川合大祐
■では問99まではどうだったのか、101問目からはどんな試験が展開されるのか、そもそもこれは試験なのか、いろいろと妄想できる句です。(川合大祐)
■問100まで真面目につき合ってきたのにひどい出題者だ。出題者側組織の悪意を感じるカフカ的世界。魚と星がまぜられた問題が中空にきらきらしてそれは壮観だろう。(岡野泰輔)
■根性のない私は問100まで持ちこたえられそうにもない。もう魚と星がまぜられていても気づかないにちがいない。(瀧村小奈生)

【聴覚関連】

うどん屋で振り向いたのはオペラ歌手  樋口由紀子
◯柳本々々
■うどんとオペラが一緒の場にいられたことを発見できたらもうこれはこれとしてなにもいうことなくいいんじゃないか。(柳本々々)
■オペラ歌手は振り向いたときに揺れる空気がもうすでにオペラなのかも。それがたとえうどん屋であっても。大胆な力技に脱帽。(瀧村小奈生)

コアラ以前のキャーッコアラ以後のキャーッ  柳本々々
◯竹井紫乙
■有袋類のコアラなので親離れの句と読みました。コアラのマーチを初めて食べる前の幼児と、食べてみた後の幼児、と読んでもいいのかもしれない。コアラの鳴き声ってわりとびっくりする。幼児のキャーッも、どきどきする。(竹井紫乙)
■分かってしまうことにいたたまれないけれど、以前と以降にはたしかに大きな違いがありますね。(岡嶋真紀)
■何かの以前と以後では「キャーッ」という叫び声すらまったく違ったものに聞こえるのだろう。時節柄、「コアラ」はコロナの聞き間違いかと思ってしまう。キャーッ(瀧村小奈生)

ツクツクツクボーシと下り電車ゆく  瀧村小奈生
◯竹内宗一郎◯こしのゆみこ
■字数をそろえたのか「ツク」が多いのも楽しい。簡単そうだけど、こんな感じに自然に書き切るのは案外難しい。もうちょっとなにか情報を入れてリズムを狂わせるのがオチである。「上り」でも「下り」でも同じ感じがするけれど、「下り」の方が断然いい。「上り」はおつとめ、下りはレジャーなのである。最初、洋服かなんかに掴まったツクツクボーシと電車に乗ったのかと思ったが、「ツクツクボーシ」とのどかに伸ばしているのは外だ。などといろいろな風景を想像できるのもうれしい。(こしのゆみこ)
■下り電車だから都心から離れてゆく、ツクツクツクがそんな感じを佳く表出している。(竹内宗一郎)
■ツク=着くかもしれませんね。「下り」にしたところが見事だと思いました。(川合大祐)

稲妻やまださけびなきNASA動画  川合大祐
◯岡嶋真紀
■宇宙のBS特番に出るNASAのあの映像に、音がつくようになったらきっと「さけび」がつくだろうという確信に驚きました。稲妻程度の大きさでは済まないんでしょうね。とてつもないエネルギーから、いったいどんなものが聞こえるんでしょう。NASAの動画にいつか「さけび」がついたとき、果たして我々は正気を保てるんでしょうかね。(岡嶋真紀)
■「稲妻」は「さけび」を導き出す修辞なのだろうか。序詞的なおもしろさを感じた。(瀧村小奈生)

空耳をたよりに島の月もがな  岡野泰輔
◯こしのゆみこ
辞書には「もがな」はあればいいなあ、という意味とあるから空耳をたよりに島の月を探しているのだろうか。私は「もがな」は捥ごうとしている? 月を捥ぐ? 空耳の鳴る方にみちびかれて月を捥ぎに行くとよみたい。空耳も島の月も非現実的で実に美しい。どちらにしてもわくわくする。(こしのゆみこ)
■空耳アワー。を思い出すのはもはや少数派なのでしょうか。「もがな」は雅なような、ふざけているような、なぜか藤原道長を連想してしまうのでした。空耳をたよりにするのは危険ですね。(竹井紫乙)
■島の月があったらなあというつぶやきに好奇心をそそられて、空耳で何を聞いたのか知りたくなる。(瀧村小奈生)

山縦に伸びて鹿鳴くこと二日  生駒大祐
竹内宗一郎◯岡野泰輔◯樋口由紀子◯こしのゆみこ
■山はたしかに縦に伸びていく、その冗語法が鹿の鳴き声にも掛って哀切。古典的な深山と妻恋の鹿の構図を借りている。作者は家にいて聴いている「今宵は鳴かず寝ねにけらしも」みたいに、鳴くこと二日がその構図にはまる。(岡野泰輔)
■山が縦に伸びていくという感覚が新鮮。鹿が鳴いたのはほんの二日なのか、たっぷり二日なのか。二日間の心情も気になる。(樋口由紀子)
■「山縦に伸びて」は鹿の鳴き声の比喩なのだろうか、山が縦に伸びるなど地殻変動が起こったとしか思えない。いずれにしても鹿の哀切な声が二日続いているのである。胸が締め付けられるような句だ。こんな風に哀しみを描写出来ることがすごい。(こしのゆみこ)
■山が空へ伸びてゆく感じ、これは錯覚だろう。鹿の鳴き声はその錯覚を起こさせたトリガーか。(竹内宗一郎)
■山は折れ線グラフの山だろうかと思ったら基礎体温表になってしまった。それは困る。こんなゆかしい言葉が並んでいるのにそんな簡単な話では困る。(瀧村小奈生)
■時間と空間の「伸び」が「鹿鳴く」で結節されていて、なるほどと思いました。(川合大祐)

住宅街歩く房事やと思う  竹井紫乙
◯岡嶋真紀
■人気のない住宅街を歩くとき、気まずさやいたたまれなさを感じます。それを「房事」と表現したのが凄いと思いました。自転車・おもちゃ・洗濯物などと、住宅街の至る所で目に入るものから、住んでいる人々の情報が分かりますよね。どことなくその乱暴さには、房事と共通するどぎまぎする何かがあることに強く共感しました。(岡嶋真紀)
■歩くで切れて、聞こえてしまったという状況か。房事やのやは切字ではないよね。とすると関西弁か?昼間と思った方がおもしろい。(岡野泰輔)
■静まり返った住宅街を歩く。静かだが息づくものの気配のある人の世の夜なのだと了解する。(瀧村小奈生)

新しい歯ブラシの音鰯雲  岡嶋真紀
◯竹内宗一郎◯瀧村小奈生
■自分が歯ブラシをつかう音なら「新しい歯ブラシの音」は外からではなくて中から聞こえる音。それは聴覚だけではなくて、いろいろな感覚の総合として聞こえてくる音だ。だから「新しい」こともちゃんとわかるし、白くて美しい鰯雲にもつながっていく。(瀧村小奈生)
■自分にしかわからない新しい歯ブラシの満足感が巧く表現できていると思う。(竹内宗一郎)
■「新しい歯ブラシの音」と「鰯雲」のぶつけ方が、とても面白かったです。鰯雲と歯垢の視覚イメージを結びつける、以上のことがなされている気がします。(川合大祐)

夜の秋ことば少ないあそびせり  こしのゆみこ
◯岡野泰輔◯柳本々々
■聴覚が消えたなかでものこってゆく遊びの感覚。秋で、夜で、だれかがめのまえやとなりにいて、まだあそびができるじぶんもいて、ことばはいらなくて。いいんじゃないか。(柳本々々)
■「ことば少ないあそび」がひとつのことしか思い浮かばない頭になっています。房事でおしゃべりという方は少数でしょう。それにあれは言葉以前の声?夜の秋は実に適切、涼しくなってきたし、そろそろ。(岡野泰輔)
■「ことば少ないあそび」をする人の耳に何が聞こえているのかが気になる句である。(瀧村小奈生)
■「秋の夜」ではないところが面白いです。「ことば少ない」のは17音字の宿命ですが、「あそび」の限りを尽くしているところが、「夜の秋」に集約されているようで、考えされられました。(川合大祐)

肛門や祭太鼓に共鳴す  竹内宗一郎
◎川合大祐◯竹井紫乙◯柳本々々◯生駒大祐
■強烈な共鳴。体内からこの句自体が響いてくるようです。(川合大祐)
■耳から離れた肛門で音をうけるのがいい。しかも「肛門や」と肛門に切れ字がついて、肛門からくうかんがひろがってゆく。芭蕉の「閑さや」はもしかしたら肛門からも読み直せるんじゃないか。(柳本々々)
■あまり現実の身体感覚と直接的に結びつけずにナンセンスな句として読んだ方が面白いように感じます。良いバカバカしさ。(生駒大祐)
■なんといっても聴覚関連の句というのがお題ですから、この句が一番「音」を感じました。音は体全体で受けるものだと思うので。共鳴しました。(竹井紫乙)
■確かに祭り太鼓はびんびんとからだじゅうを震わせる。私はまだ自分の句に「肛門」という言葉を使ったことがない。(瀧村小奈生)
■太鼓のそばにいるときの、腹の下がムズムズする感覚をは確かに「共鳴」ですね。「肛門」としたところに思わず笑ってしまいました。(岡嶋真紀)

以上30句。

2018-10-14

【週俳9月の俳句を読む】9月はいろいろあって  岡野泰輔

【週俳9月の俳句を読む】
9月はいろいろあって

岡野泰輔


いや恐かった、台風24号のあんな風は初めてだ。一晩中屋根が鳴って眠れず、朝その一部が飛んでいるのを発見。台風もういや!

万策が尽きて夕立の止みし街  及川真梨子

万策尽きる主体はふつう詠み手またはある個人だが、ここでは街という個人の集合体、そしてその機構(つまり市役所など)を万策尽きる主体と読むのは強引だろうか。下の句を参照すれば嵐の後、氾濫した街の景が見える。嵐の後の夕立晴の美しくも荒涼たる景と読む誘惑に駆られる。

万策尽きるという生硬なそれだけに意想外の強い言葉の出だしが後半の静寂と釣り合っている。

市役所の泥長の痕菊日和  及川真梨子

「泥長」とはなにか?泥長靴ではないか。ゴム製の長靴をゴム長と言うしね。前の句により勝手に台風一過のとある街を想像してしまった。前日から市役所内を右往左往したであろう職員の泥靴の跡が生々しい。泥から菊へあざといまでの展開だが、嵐の後の秋晴の街が見えてくるようだ。

水遊びする子の父は祖父となり  対中いずみ

複数のテクストの重なりが美しくも豊かな俳句的時空を現出させてうっとりする。もちろんすべて読者たる私の頭の中での出来事。パラテクストとしての作者名、その下層からゆっくり現れる師田中裕明の名、そして名高い「水遊びする子に先生から手紙」。それに「水遊びする子をながく見てありぬ」を加えてもよいだろうか。それにしても水遊びする子はなんと持続する陽光を纏ってしまったことか。水遊びした子の子も水遊びする、その循環する光と水。特権的な場所から放たれたことばにせよ、その言葉はしばらく私を立ち止まらせる。「眠りゐる子の眉あげて冰る山」「をさなくて晝寢の國の人となる」等裕明の眠る子の像も揺曳させながら。

ネクターの缶かわいくてもう九月  佐藤 廉

ネクターが好きだ。ピューレ状のあの舌ざわりとほの甘さ。たしかに真夏の飲料ではない。九月は実に適切な感じがする。また歴代のパッケージデザインも果実-桃を衒いなく前面に出した王道のもの。というわけでこの句の「かわいくて」とか「もう」の俳句では忌避される語の使用による全面手放し感はまさにネクターそのもの。句形と素材の幸福な一致。

水引や自説あっさり覆す  津田このみ

十六夜の体側適当に伸ばす  津田このみ

あっさりしているのである。適当なのである。あれほど力説していた論をくるっと180度回転。

その軽やかさと水引草は合っているともいえるし、あっさり覆されて違う景物と合わされても文句は言えない。やはりあっさりがいいのか。一方二句目、体側はもっとしっかり伸ばした方がよいと作者に忠告したいところだが、何事も適当が肝要らしい。作者の最新句集『木星酒場』には「ところてんと言うてからだがところてん」があったりして適当でも体側は十分伸びているのだろう、うらやましい。季語十六夜は適当でなくこの句を俳句の側に、俳句の国の出来事に設えている。

草紅葉ゆっくり曲がる樹木希林  津田このみ

この句、9月30日号ということは樹木希林の生前に作られたものか、死後か?どちらにしても興味深い。「ゆっくり曲る」が奇妙な不思議な運動を句中で起こしているからだ。樹木希林という名前そのものが句の言葉として運動をはじめる、撓んでくる。ぎしぎしと音さえ立てているのではないか。毀誉褒貶というより最後は称賛につつまれたといってよいこの女優への句として立派に立っている。草紅葉もなにやら象徴的だ。


593号 201892
及川真梨子 隠門 10 読む
596号 2018923
対中いずみ 嫌がつて 10 読む
佐藤  かわいい缶 10 読む
597号 2018930  
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2018-03-04

【週俳2月の俳句を読む】冬野菜は最高。岡野泰輔 

【週俳2月の俳句を読む】
冬野菜は最高。

岡野泰輔


冬空の下に今上天皇と香香  川嶋健佑

香香、おこうこ、お新香、冬野菜の漬物は美味。大根、蕪、白菜、冬は糖度が増すらしいのだ。庶民的な漬物も香香と表記されればなにやら高貴な香さえ漂う。今上天皇との意表をつく並列もしばらく眺めていると納得し好ましく思えてくる。今上天皇と美智子妃殿下はなにより平和への思いがことのほか深いことはよく知られている。冬空の下、凛としたお二人のお気持ちに歯応えも美味、冬の香香はよく応えるのではないか。

核咲いて亜米利加さくら咲く国に  川嶋健佑

何度も観た核実験のハイスピード映像は確かに花の咲く瞬間のそれに似ている。一方桜の花はとかく日本的なものを(散る→潔さとかね)背負わされて、特に国と結びつけられればこれはもう明治以降急速にかたち作られた日本の象徴。日本に核を投下したアメリカに核の花が咲いて、そして日本なる桜の咲く国になると読めば、屈折した反米愛国とも読める。とにかくちょっとデスパレートな風味。上の句もそうだが際どいところに突っ込んでいく作句姿勢には好感。とはいえこの手の屈折は短歌のほうがより得意ではないだろうかとの思いもふと過る。

燃えるゴミ隠れてゐたり雪の宿  黄土眠兎

雪国の旅とおぼしき連作。中ではこの句が燃えるゴミという謂わば俗中の俗が雪の宿と
いういかにも俳句向きな題材にグッドコーディネイト。この戦術そのものは普通だがゴミが隠れていることを発見したのが勝因。ゴミの居場所を屋内と読むてもあるが、ここはやはり宿の外の雪の中と読みたい。雪掻きで堆積した雪に半分隠れたからこそ回収にもれた半透明のゴミ袋の中、食材やパッケージの鮮やかな色がモノトーンの雪景色の中で際立つ。

水たまりこんな凹凸だったのか  野口 裕

水は方円の器に従うという言葉があるが、融通無碍な水のその器の方への着目。単純な事実の発見は俳句の得意とするところだが、表現そのものも単純に切りつめ、気づきの生の言葉の投げ出し、なまじなレトリックの介在しない心地よい読後感。で、季語も出る幕がないわけです。道路や地面に雨後に生じるランダムな水のアブストラクト、あれはたしかに凹凸だったのですね、と今更のように思い至る。

古草の髭根を降りて地下鉄へ  野口 裕

古草と言って髭根まで言及する出だしにふむふむと膝を乗り出す。しかしその後にびっくり!髭根から降りて地下鉄までという、この地中の行動主体は?誰?何?作者の意識、
想像力の旅だろうか。降りて地下鉄とあるので髭根までが乗物めいて、この主体は微生物のようにも、草の精のようにも。古草と髭根でとんでもない生命力とか地下水脈まで思ってしまう。普通の顔をしてこの句の根は深いぞ。

姿なき鳥のこゑより寒明くる  堀切克洋

春浅し水蛸の白透きとほる  堀切克洋

寒明とか浅春とか季節=季語の言葉の内実を姿なき鳥のこゑとか水蛸の白とかこれ以上ないほどに適切な事物でうめてみせる。俳句のある種理想の言葉の構築がここにある。
かっこいい。事物にまったく隙のない浅春の句より、こゑだけで実体を見せない寒明の句が私の好み、そして可能性も感じるのだが。

本郷の坂ふつくらと春立ちぬ  堀切克洋

東大はごつごつとして春浅し  堀切克洋

本郷と東大というトポスの力によって支えられている句のようにも読める。なるほどあの辺ね、なるほどあそこね、といった読みの共同体の同意の集積によって句がかたちづくられてゆく。ある浅い春の一日の本郷の坂のあり方の、東大のたたずまいについての、季語への回収の仕方については見事にスマートで遺漏ない。ただ、坂→ふつくら、東大→ごつごつ、といった言葉のあり方はジャーゴンにすぎないかという不満も同時に。




堀切克洋 きつかけは 10句 ≫読む
第564号 2018年2月11日
野口 裕 酒量逓減 10句 ≫読む
第565号 2018年2月18日
黄土眠兎 靴 10句 ≫読む
第566号 2018年2月25日
川嶋健佑 ビー玉 10句 ≫読む

2018-02-11

【句集を読む】あの方向なくひらかれた窓の痕跡 岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』 福田若之

【句集を読む】
あの方向なくひらかれた窓の痕跡
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉

福田若之

 『群青』第18号(2017年4月)より転載
初出時は連載「物語としての俳句」の第14回として掲載された

岡野泰輔は、その第一句集である『なめらかな世界の肉』の命名について、あとがきに次のとおり記している。
この世界を自他の区別があらかじめ失われた、方向も、厚みも、重さもないものとして想像してみる、まるで生まれたての自分が包まれたように。その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつを俳句と呼ぶのならその関係の全体を「なめらかな世界の肉」と呼んでも差し支えないだろう。
モーリス・メルロ=ポンティの「世界の肉」という言い回しに典拠をもつこの「なめらかな世界の肉」という呼称は、しかしながら、その哲学からのある程度の逸脱でもある。なぜなら、メルロ=ポンティにとって、「肉」とは、まさしくそれ以前の西洋の哲学が都合よく忘却してきた「厚み」の体験をその思考にふたたび導入するための言葉でもあったはずだからだ。したがって、僕たちは、その逸脱の理由を、付加された「なめらかな」という形容動詞に求めざるをえないだろう。世界を「自他の区別があらかじめ失われた」ものとして想像すること自体は「世界の肉」というメルロ=ポンティの哲学にすでに折り込み済みのことである。だから、「なめらか」という形容は、見るものとしての《私》と見られるものとしての《世界》とが明白な境界を持たずに地続きにあるという意味での「なめらか」を超えた、別のなんらかの意味での「なめらか」であるはずだ。だが、こんなふうに書くと、『なめらかな世界の肉』をひらく読者を不当に失望させることになるかもしれない。なぜなら、この句集もまた、あらかじめ分節された、その意味で「なめらか」ならざる言葉から構成されているからだ。〈まんごうやあらぬところにあるほくろ〉と書かれたときに、「まんごう」と「ほくろ」とは分かたれている。また、〈a/be/wa/ya/me/ro/a/be/wa/ya/me/ro/a/ki/no/ku/re〉と繰り返し挿入される斜線は、まさしくここに刻まれた言葉の「なめらか」ならざることを端的に示している。だが、ここで僕たちは、今一度、この書き手が「なめらかな世界の肉」と呼ぶ「関係」、そしてこの書き手にとっての「俳句」とはなにごとだったかを確認する必要がある。

「俳句」、それは「その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつ」の名である。したがって、ここで「俳句」と呼ばれているのはここに集められた無数の作物ではない。むしろ、それらの作物を生成するために世界と触れあう営為そのものが「俳句」だったのである。だから、僕たちはこの句集には決して「俳句」そのものが書き込まれているのではないことを認めなければならない。ここにあるのは、「俳句」の痕跡でしかないのだ。

生前に書いておきますサフランのこと


「俳句」、それはたとえば「サフランのこと」を「生前」に書いておくことだ。そして、僕たちはそれらの痕跡を、たとえば「字」あるいは「文字」と呼びうるだろう。

完市が字を書いてゐるかいやぐら
文字を書くときはことさらきりぎりす


そう、ここに書かれ、残されているのは「字」であり、「文字」でしかない。そしてこれらの二句によってかろうじて指し示されている営為、あれらの「書く」ことがすなわち「俳句」なのである。ここでとりわけ阿部完市の名が呼ばれるのは、彼もまた生涯を「書く」ことに賭けたひとだったからにほかならないだろう。

ここで、「なめらか」ということが、この句集においては、なによりもまず運動を語るための形容であるということに留意しておく必要がある。そのことは次の句の書き込みに表れている。

なめらかに木犀過ぐるもの速し


過ぎるということは運動それ自体にとって本質的な運動である。運動とは過ぎ去る出来事であり、あとにはその痕跡しかないだろう。過ぎ去る出来事としての運動は、ある程度の持続を伴っており、その持続にこそ「なめらか」さがあるのだ。「なめらかな世界の肉」と呼ばれている「関係」の「なめらか」さもまた、そうした持続的な「なめらか」さであったはずだ。なぜなら、あの肉的な「関係」は静的な様態ではなく触れ合いだったのであり、触れ合いとはすなわち持続する運動だったのだから。そして、触れ合いが全的な出来事でもあった以上、世界はあらかじめ方向からも厚みからも重さからも解放されていなければならなかったはずなのである。

だが、「なめらかな世界の肉」は刻まれた。「書く」ことはつねにすでにあの肉的な「関係」の自壊だったのだ。「なめらかな世界の肉」という言葉は、それ自体がもはや肉的な「関係」の痕跡でしかないかぎりにおいて、痕跡としての句集を題する。痕跡は秩序づけられている。《小鳥来るあゝその窓に意味はない》というとき、この「窓」という字は意味している。だが、窓には意味などなかったはずである。「小鳥」と《私》との区別をあらかじめ失わせていた、あの方向なくひらかれた窓には。


【句集を読む】二〇世紀の成熟 岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』 西原天気

【句集を読む】
二〇世紀の成熟
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉

西原天気

『船団』第112号(2017年3月1日)より転載
若干の改稿

安田猛、七〇年代に活躍したヤクルト安田の投球を見ているような句集。あるいは、ザーサイのとびきり旨い港近くの中華料理店のような句集。

どのように喩えても喩えきれない。『なめらな世界の肉』の魅力は多面多層多様で、例えば、16音の後に切れて、1音の季語。

音楽で食べようなんて思ふな蚊  岡野泰輔(以下同)

「形式へのいたずら」ともいうべきこの句の趣向を面白がるだけでじゅうぶんに満足なのだが、ちょっと待てよ、この句、誰に向かって言っているのだろうと、あるときふと。

久しぶりに帰郷した息子・娘の折り入っての話に、父親が説教という図を一読想像したが、いや、そうではなくて、自分に向かって、と読むこともできる。過去のある決断のとき、みずからの夢と野心を抑え込んだ。そう読むと、この句の興趣はひと味違ったものになる。

あつたかもしれぬ未来に柚子をのせ

「人はひとつの人生しか生きられない」という事実は、残酷ではあっても、生きていくうえの縁(よすが)とするしかない。こんなはずではなかったと悔いてみても、「こんな現在」を受け入れるしかない。それが成熟というものだろう。

俳句の話から離れてしまっているようで、そうではない。句集を読むとは、作者に付き合うことだ。句の連なりをまとめて読むだけという態度ではいられない。魅力的な句集に出会うと、いやおうなく作者を、作者の来し方を見る、見つめたくなる。

菜の花や見張り塔から人が来る

朧夜やぼくらはみんな藁の犬

今をときめくボブ・ディランの楽曲というよりジミ・ヘンドリックスの歌と演奏に思いを馳せる「All Along the Watchtower」。そして、サム・ペキンパーの七一年作品。こうしてみると、サブカル以前・サブカル前夜の空気を吸ってきた作者像が浮かぶ。

真ん中が桃の匂ひの映画館

劇団の子の垢抜けぬ水着かな

こうした句にも「あの当時」感が濃い。街に数軒あるうちの一軒は素敵にいかがわしかったのは今むかし。劇団員はすでに二一世紀的に垢抜けている。

映画に素材をとった句はまだある。

名月やみなアメリカの夜めいて

トリュフォー七三年。昼間撮った絵をレンズの操作で夜に見せるアメリカ方式。そこに月? だいたいにして岡野さんのような作家が「名月」と大上段に切り込んだときはウソや虚やフマジメが隠されていると思うべきなのだ。 

つちふるや映画のなかの映画美し

入れ子構造に設えられた俳句の虚実、『なめ肉』の虚実には、二〇世紀を生きた人の屈託がきわめてキュートなかたちで宿っている。

電車から見えるナイターらしき空

秋日濃し売り上げ順にホストの顔

都市生活のなにげない景色にもきちんと斜(はす)な視線が宿る。

冷房や「無題」が題の絵が並び

内装がしばらく見えて昼の火事

シニカルで酷薄。これはしかし、この世の重だるさをやわらかく受け止める、あるいは身をかわす、洗練の態度。

いちばんに顔の裸が恥づかしく

花冷えや脳の写真のはづかしく

脳とか顔とか、身体ヒエラルキーの上位にあるものこそが恥ずかしいとう自嘲。これもオトナの態度。

セーターの中の案外抱き重り

風呂吹や目を見て話されてもこまる

色恋にも含羞。私が女性なら、まちがいなく惚れてしまう。

と、まあ、愉しみどころが満載の『なめ肉』。ここには、ある男が、ある時空(ざっくりと二〇世紀後半)を暮らした固有の経験、そのなかで相応の成熟をとげた固有の歴史がある。

未来の読者が、これをどう読むかは知らないが、現在の読者たる私は、懐かしいような、それでいて(いや、それだから)親しく近しい世界を見せていただいた。その意味で、作者が隣にいるような句集。ひょっとしたら、とある日、とある映画館で、私は隣り合っていたかもしれません、この句集の作者と。


〔週刊俳句:過去記事〕
世界のありどころ 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の最初のページを読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_65.html

〔俳句的日常:過去記事〕
〈主婦〉の誕生、あるいは花柄のイコノロジー 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の一句
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/08/blog-post_23.html
学校モノ俳句 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の3句
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/08/3.html
組句:劇団員
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.html


2017-10-15

【週俳9月の俳句を読む】ねむる前に  岡野泰輔

【週俳9月の俳句を読む】
ねむる前に

岡野泰輔


ねむる前に俳句のこと、詩のこと、言葉のことを考えるのは危険である。言葉が絵を呼び、その絵が次の絵を呼び、いつしか出発点を見失っている自分がいる。

かつて田中裕明は思考の揺蕩いを地図の海岸線をたどるうちに対象を見失うという卓抜な比喩で書いていた。彼が夜の形式と呼ぶそれに近い感覚はたしかにあるのだ。他人の句を読んでいながら、いつしか心は句中の一語に触発されて遠いところをさ迷っている。その場所を惜しみつつ元の場所に戻る、うまく戻れるといいのだけれど。ねむるにはまだ少し時間がある。


ねむりびとまたひとり増え星流れ  柳元佑太

どうやら土佐までの旅をテーマにした気持ちのよい連作は結句のこの句になって視野が広がり、それまでの一人称視点から作者を超えた集合的視点(それを神と言ってもいいが)に上昇し連作の終わり方としてとても気が利いている。
例の「太郎を眠らせ~」三好達治のように地上の人間を慈しむような視線が感じられる。ひとり眠り、ふたり眠りと眠る人を数えている。やがてひとつの町や地方がほとんど眠りにつくころ星が流れる。とても美しいが星が流れることによって眠るのは死を含意しているのではないか?との思いがふと過る。でもそれはこの句の傷ではなく、詩の含意する世界の厚みとなって響いてくる。

秋雲や千切れて飛べる雲の中
みづうながすみづの流れや澄みてをり 

二句とも同質の中の微細な運動の変化をいかにも俳句的な発見の目で捉えている。水の中は先行句が犇めき不利な場所だが、雲の中はそうでもなく新鮮。


核の世の網棚に置く榠樝の実  森澤 程

夭折の小説家が丸善に画集を積み上げたころ、その上にひとつの檸檬を置いたころ、世界はまだ核をもたなかった。すでに核が偏在する世界に住み、あらゆる都市がテロルの標的となる時代、かつて小説家をとらえた「心のなかのえたいの知れない不吉な塊」もひろく人のなかに偏在することとなった。画集の上の黄色く輝く檸檬がハイカラな書店を爆破するイメージは古都の薄闇のなかで花火のように美しくさえあったが、網棚に置かれたずっしりと持ち重りのする榠樝の実はあのハイスピードの映像としてのみ知っている花の開くような核の雲を目の前に呼ぶ。それにしても網棚とは不思議な言葉だ。今では金属かプラスチックになって、すでに網ですらない。網と書かれていることで榠樝の実の重量に漁網のような網が撓む様子がリアルに現れる。現在、榠樝の実を置く場所として網棚という選択は実に正解であったというべきか。

階段も雲もテンペラ小鳥来る

この階段は空に向かっているのだろう。一読、田中裕明の「空へゆく階段のなし稲の花」を思い浮かべつつ、夭折の画家有本利夫の静謐な絵が浮かんだりもする。古雅なマチエールのテンペラで描かれた先端が雲に隠れている階段がそう思わせるのか。有本もマチエールに凝る作家で、ピエロ・デラ・フランチェスカなど初期ルネサンスのフレスコやテンペラに学んだ。そして小鳥来るからはジョットの小鳥に話しかける聖フランチェスコのフレスコ(アッシジ聖フランチェスコ大聖堂)を思わないではいられない。要するにそういうことなのだ。この句に初期ルネサンスの芳しい香をかぐ。そうなるとプレテクストの数々の美しいマチエールが本テクストを織り上げる過程を勝手に想像するのは楽しいし、小鳥来るという季語もそのためにあったような気がしてくる。もうひとつ、空にゆく階段ならどうしても『天国への階段』(1946年、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督、英映画)だろう。(今ならコーエン兄弟かウォシャウスキー姉弟のような監督・脚本デュオ。ほかに『赤い靴』『黒水仙』など)。昔NHKで観た記憶があるが天国と地上を結ぶ階段を主人公のデヴィッド・ニーヴンが往復していた。
天国がモノクロ、地上がテクニカラーらしいが、当時我が家のテレビはモノクロでその効果分からず。田中裕明の空へゆく階段の句に出合ったときもすぐこの映画のことが思われた。そうか、裕明は階段の先に天国を見ていたのかと。


香水の文字の中まで入り込む  伊藤蕃果

香水が主題の句は、それが使用されている空間とか時間とか、人を詠む。要するに人事を詠むことがほとんど。香水の液体としての物質性そのものを主題としてとり上げるのは珍しいのではないか。この文字が書かれてあるものはなんだろうか。書物?手紙?メモ?その他この香水の持ち主の生活空間にロマネスクな思いを馳せることも可能だが、ここではモノそのもの、香水瓶のラベルと読みたい。すでに何度も使われて、瓶の口から漏れた香水がラベルに染みているのである。意匠を凝らした瓶のかたちとか、レトリックと書体にも神経をつかったブランド名。それらが香水によってちょっと無残に汚されている。「入り込む」まで言ったことで、ある時間経過まで読み取れ、いい景である。

天道虫星あざやかに朽ちてをり

ナナホシテントウムシが死んでいる。死の後も、鞘翅と言うのか、感覚的には背中の七つの黒い星はオレンジ色の地との対比で鮮やかである。生き生きと死んでいるのである。とまあ真っ当に読めばそういうことになる。もうひとつはテントウムシと星空を一挙に視界に入れる大胆な手。今、肉眼に鮮やかに瞬いている星のいくつかは何光年もかけて地球の視界にたどり着いた光。この瞬間にも星は燃え尽きて朽ちている。そのような巨大なもの(時間)とテントウムシのもつ小さなからだと小さな時間、の句中でのかっこいい共存。



豊永裕美 この町あの町 10句 ≫読む
鈴木陽子 あの町この町 10句 ≫読む
柳元佑太 土佐夕焼 10句 ≫読む
第543号 2017年9月17日
森澤 程 レモン捥ぐ 10句 ≫読む
伊藤蕃果 天象儀 10句 ≫読む

2016-11-20

【週俳500号に寄せて】バックナンバーを眺めていると 岡野泰輔

【週俳500号に寄せて】
バックナンバーを眺めていると

岡野泰輔


500号おめでとうございます。10年ぐらいですか? すごいです!

ここまで続いたのは(これからも続きそう)スタート時点から変わらない風が吹いていたから。

俳壇的イデオロギーからの自由、同時代の俳句と書き手の可視化、そんなメッセージを受け取っていたように思います。それらは総合誌や個別の結社誌などだけでは満足できないこと。

同時代の俳句に対する欲求を代行する代理人であると上田信治さんが『俳コレ』冒頭で高らかにマニフェストされたように、すでに広範な欲求があったということ、時宜を得ていたということでしょう。

バックナンバーをつらつら眺めていると、他誌からの転載も含めここで私が出合った論考の数々を再び読み始めてしまいました。いけない、時間がかかる! そこで最初の方から少なからず私がインスパイアされた論とその書き手を並べてみると・・・

第20、22号
サバービア俳句について〔1〕 〔2〕  榮 猿丸×上田信治

第28号
〔サバービア俳句・番外編〕SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly  lugar comum × saibara tenki

第60、61号
サバービアの風景〔前篇〕 〔後篇〕  榮 猿丸×上田信治×西原天気

第24号
前田秀樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する  関 悦史

第27号
エレガントな解答と現実 高山れおな「俳句本質論」ではなくを読んで  野口 裕

第38号~
林田紀音夫全句集拾読  野口 裕

第47号~
俳句とは何だろう  鴇田智哉

第58、59号
「われら」の世代が見えない理由~マイクロポップ時代の俳句〔前編〕 〔後編〕  相子智恵

第169号
「俳句想望俳句」の時代  小野裕三

ざっとこんなぐあい。もっとありますが、きりがない。最近では福田若之、小津夜景の書きぶりがおもしろい。これらの論考で俳句を読むおもしろさ以上に、俳句について考えることのおもしろさにハマりました。
    


2016-08-28

10句作品 岡野泰輔 焦げる

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焦げる  岡野泰輔

口唇やとほく砕ける秋の潮
九月の水着深田恭子でもなくて
まんじりともせずに下田にのこる月
そのうちに終り焦がれる花火かな
蛍籠したたる闇に焦げるもの
日に焦げて松帆の浦におりる鴫
定家忌のパンを焦がして待つをとこ
蜩や森に大きな鏡立て
稲妻のテント芝居にしきりなり
裸火の頂にいま秋の風

2016-07-03

【句集を読む】世界のありどころ 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の最初のページを読む 西原天気

【句集を読む】
世界のありどころ
岡野泰輔なめらかな世界の肉』の最初のページを読む

西原天気






1句目

肩を? 誰の? 作者か。

cf. 《鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波 》

2句目

付加。

《花種の袋に花の絵がありぬ  今井杏太郎》+空


3句目



http://mettapops.blog.fc2.com/blog-entry-767.html

4句目







次のページ以降? もちろん読みました。

すでにして愛読書と言っていいんだろうと思います、この『なめらかな世界の肉』(略して「なめ肉」)。

俳句を書くとは、世界というプレテキスタイル(造語です)を親しくする作業なのだなあ、と、あらためて。

私の身体は世界の織目の中に取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。しかし、私の身体は自分で見たり動いたりもするのだから、自分の回りに物を集めるのだが、それらの物はいわば身体そのものの付属品か延長であって、その肉のうちに象嵌され、言葉のすべき意味での身体の一部をなしている。したがって、世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。
メルロ=ポンティ『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳/みすず書房/1966年)




2016-01-17

【週俳12月の俳句・川柳を読む】射程と負荷 岡野泰輔

【週俳12月の俳句・川柳を読む】
射程と負荷

岡野泰輔


俳句の射程距離とそこにかけられる負荷について考えさせられた。射程を長くとり、大きな負荷をかける関悦史、それぞれの距離感で小さな負荷の相子智恵、西村麒麟、太田うさぎと並んだ十二月の俳句。

●関 悦史「水曜日の変容」

毒虫の列島へ林檎抛られむ  
宇宙終はればまた始まりて鳥兜

最長の射程距離なのに言葉が薄くなっていないのがいい。それは毒虫とか鳥兜とか言葉の刺激だけによるものではないだろう。特に二句目、永劫の運動の後に復活する鳥兜の禍々しさにしびれる。林檎も鳥兜もそれぞれ歳時記に登録されている一人前の季語だが、かけられた負荷の加重に軋む音が聞こえるようだ。

冬けふも居間占むる象気にとめず

ひところ何かといえばシュール、シュールと形容する人達がいたが(さすがにこの頃はいないか?)その軽薄さがいやだった。そういう人達はこの正統シュールレアリスムを拳拳服膺していただきたい。さりげないがここに人がいること、象と人と、部屋のパースペクティブが微妙に歪んでいる気がする。

●相子智恵 「月曜日の定食」

ゴミ袋に割り箸突き出雪催     

十二月の句群の中でもっとも射程距離の短いのが相子の十句。およそ半径5mの世界である。もっとも多くの俳句はこのくらいの距離で詠まれているのではないかしら、なかには30cmぐらいの接写俳句もあったりもするが。

この狭い世界へ俳句的強度をもたらすものは、みも蓋もない物の外形とそれらに囲まれている生活。タイトルの月曜日が句群に色をつけている。

鳴る革手袋や、ビニール袋を破って突き出る割り箸や、B定食の牡蠣フライは作者がこの句群に選んで持ち込んだ負荷といえなくもない。物によって語らせよ、高効率の作法だ。

吹き上ぐる落葉の中の母子かな

これはちょっと違う。リアルな景なのだろうが、新しい聖母子像に思えてしまった。「吹き上ぐる」という落葉の動きのせいだろうか?落葉の動く額縁?

●西村麒麟 「狐罠」

近くから近くへ飛ぶや寒烏   
鮟鱇の死後がずるずるありにけり
紙振って乾かしてゐる十二月

数年前小野裕三が提唱した俳句想望俳句という概念をもふと思い出す。概念のつまみ食いだが、俳句形式を全肯定し、形式の内部にこそ俳句のフロンティアを求める。なるほどこの寒烏はひょっとしてそのフロンティアにいるのかもしれない。燃えるゴミの日に必ずわが町内にやってくる二羽が目に浮かぶ。

総じてこの作者にある「身をえうなきものに思ひなして」の「やつし」の感覚が鮟鱇の句や十二月の句に抑制されつつも効果的に働く。

水仙や長距離を行くフリスビー

これはいったい何だろう?この気持よさは?評語をよせつけずそこにある俳句自身という気がする。むりやり読めばこのフリスビーはやがて墜ちるということか?水仙が微妙にからんでくるよね、そこに。

●太田うさぎ 「以後」

葉牡丹に日の差す伊勢の漬物屋
小田原に広げる夜着は鶴の柄
沛然と雨の港区神の留守

このつるつると喉越しのいい句群は、射程距離の設定も、俗謡風にという負荷のかけかたもぴったり決まった。喉越しをよくするために実に繊細な工夫がされている。伊勢で漬物屋で葉牡丹とくれば、これはもう動かしようがないと思わされるし、小田原に夜着はかるく意表を突かれるが鶴の柄で決まり、港区とはなんと、俗でもあり、そうでもないような、困った。沛然がいい。

明石から港区まで東進しているね。



第451号 2015年12月13日
相子智恵 月曜日の定食 10句 ≫読む
関 悦史 水曜日の変容 10句 ≫読む 
樋口由紀子 兼題「金曜日」 10句 ≫読む
第452号 2015年12月20日
角谷昌子 壮年の景 10句 ≫読む
太田うさぎ 以 後 10句 ≫読む 
西村麒麟 狐 罠 10句 ≫読む