【週俳12月の俳句・川柳を読む】
射程と負荷
岡野泰輔
俳句の射程距離とそこにかけられる負荷について考えさせられた。射程を長くとり、大きな負荷をかける関悦史、それぞれの距離感で小さな負荷の相子智恵、西村麒麟、太田うさぎと並んだ十二月の俳句。
●関 悦史「水曜日の変容」
毒虫の列島へ林檎抛られむ
宇宙終はればまた始まりて鳥兜
最長の射程距離なのに言葉が薄くなっていないのがいい。それは毒虫とか鳥兜とか言葉の刺激だけによるものではないだろう。特に二句目、永劫の運動の後に復活する鳥兜の禍々しさにしびれる。林檎も鳥兜もそれぞれ歳時記に登録されている一人前の季語だが、かけられた負荷の加重に軋む音が聞こえるようだ。
冬けふも居間占むる象気にとめず
ひところ何かといえばシュール、シュールと形容する人達がいたが(さすがにこの頃はいないか?)その軽薄さがいやだった。そういう人達はこの正統シュールレアリスムを拳拳服膺していただきたい。さりげないがここに人がいること、象と人と、部屋のパースペクティブが微妙に歪んでいる気がする。
●相子智恵 「月曜日の定食」
ゴミ袋に割り箸突き出雪催
十二月の句群の中でもっとも射程距離の短いのが相子の十句。およそ半径5mの世界である。もっとも多くの俳句はこのくらいの距離で詠まれているのではないかしら、なかには30cmぐらいの接写俳句もあったりもするが。
この狭い世界へ俳句的強度をもたらすものは、みも蓋もない物の外形とそれらに囲まれている生活。タイトルの月曜日が句群に色をつけている。
鳴る革手袋や、ビニール袋を破って突き出る割り箸や、B定食の牡蠣フライは作者がこの句群に選んで持ち込んだ負荷といえなくもない。物によって語らせよ、高効率の作法だ。
吹き上ぐる落葉の中の母子かな
これはちょっと違う。リアルな景なのだろうが、新しい聖母子像に思えてしまった。「吹き上ぐる」という落葉の動きのせいだろうか?落葉の動く額縁?
●西村麒麟 「狐罠」
近くから近くへ飛ぶや寒烏
鮟鱇の死後がずるずるありにけり
紙振って乾かしてゐる十二月
数年前小野裕三が提唱した俳句想望俳句という概念をもふと思い出す。概念のつまみ食いだが、俳句形式を全肯定し、形式の内部にこそ俳句のフロンティアを求める。なるほどこの寒烏はひょっとしてそのフロンティアにいるのかもしれない。燃えるゴミの日に必ずわが町内にやってくる二羽が目に浮かぶ。
総じてこの作者にある「身をえうなきものに思ひなして」の「やつし」の感覚が鮟鱇の句や十二月の句に抑制されつつも効果的に働く。
水仙や長距離を行くフリスビー
これはいったい何だろう?この気持よさは?評語をよせつけずそこにある俳句自身という気がする。むりやり読めばこのフリスビーはやがて墜ちるということか?水仙が微妙にからんでくるよね、そこに。
●太田うさぎ 「以後」
葉牡丹に日の差す伊勢の漬物屋
小田原に広げる夜着は鶴の柄
沛然と雨の港区神の留守
このつるつると喉越しのいい句群は、射程距離の設定も、俗謡風にという負荷のかけかたもぴったり決まった。喉越しをよくするために実に繊細な工夫がされている。伊勢で漬物屋で葉牡丹とくれば、これはもう動かしようがないと思わされるし、小田原に夜着はかるく意表を突かれるが鶴の柄で決まり、港区とはなんと、俗でもあり、そうでもないような、困った。沛然がいい。
明石から港区まで東進しているね。
2016-01-17
【週俳12月の俳句・川柳を読む】射程と負荷 岡野泰輔
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