【週俳2月の俳句を読む】
冬野菜は最高。
岡野泰輔
冬空の下に今上天皇と香香 川嶋健佑
香香、おこうこ、お新香、冬野菜の漬物は美味。大根、蕪、白菜、冬は糖度が増すらしいのだ。庶民的な漬物も香香と表記されればなにやら高貴な香さえ漂う。今上天皇との意表をつく並列もしばらく眺めていると納得し好ましく思えてくる。今上天皇と美智子妃殿下はなにより平和への思いがことのほか深いことはよく知られている。冬空の下、凛としたお二人のお気持ちに歯応えも美味、冬の香香はよく応えるのではないか。
核咲いて亜米利加さくら咲く国に 川嶋健佑
何度も観た核実験のハイスピード映像は確かに花の咲く瞬間のそれに似ている。一方桜の花はとかく日本的なものを(散る→潔さとかね)背負わされて、特に国と結びつけられればこれはもう明治以降急速にかたち作られた日本の象徴。日本に核を投下したアメリカに核の花が咲いて、そして日本なる桜の咲く国になると読めば、屈折した反米愛国とも読める。とにかくちょっとデスパレートな風味。上の句もそうだが際どいところに突っ込んでいく作句姿勢には好感。とはいえこの手の屈折は短歌のほうがより得意ではないだろうかとの思いもふと過る。
燃えるゴミ隠れてゐたり雪の宿 黄土眠兎
雪国の旅とおぼしき連作。中ではこの句が燃えるゴミという謂わば俗中の俗が雪の宿と
いういかにも俳句向きな題材にグッドコーディネイト。この戦術そのものは普通だがゴミが隠れていることを発見したのが勝因。ゴミの居場所を屋内と読むてもあるが、ここはやはり宿の外の雪の中と読みたい。雪掻きで堆積した雪に半分隠れたからこそ回収にもれた半透明のゴミ袋の中、食材やパッケージの鮮やかな色がモノトーンの雪景色の中で際立つ。
水たまりこんな凹凸だったのか 野口 裕
水は方円の器に従うという言葉があるが、融通無碍な水のその器の方への着目。単純な事実の発見は俳句の得意とするところだが、表現そのものも単純に切りつめ、気づきの生の言葉の投げ出し、なまじなレトリックの介在しない心地よい読後感。で、季語も出る幕がないわけです。道路や地面に雨後に生じるランダムな水のアブストラクト、あれはたしかに凹凸だったのですね、と今更のように思い至る。
古草の髭根を降りて地下鉄へ 野口 裕
古草と言って髭根まで言及する出だしにふむふむと膝を乗り出す。しかしその後にびっくり!髭根から降りて地下鉄までという、この地中の行動主体は?誰?何?作者の意識、
想像力の旅だろうか。降りて地下鉄とあるので髭根までが乗物めいて、この主体は微生物のようにも、草の精のようにも。古草と髭根でとんでもない生命力とか地下水脈まで思ってしまう。普通の顔をしてこの句の根は深いぞ。
姿なき鳥のこゑより寒明くる 堀切克洋
春浅し水蛸の白透きとほる 堀切克洋
寒明とか浅春とか季節=季語の言葉の内実を姿なき鳥のこゑとか水蛸の白とかこれ以上ないほどに適切な事物でうめてみせる。俳句のある種理想の言葉の構築がここにある。
かっこいい。事物にまったく隙のない浅春の句より、こゑだけで実体を見せない寒明の句が私の好み、そして可能性も感じるのだが。
本郷の坂ふつくらと春立ちぬ 堀切克洋
東大はごつごつとして春浅し 堀切克洋
本郷と東大というトポスの力によって支えられている句のようにも読める。なるほどあの辺ね、なるほどあそこね、といった読みの共同体の同意の集積によって句がかたちづくられてゆく。ある浅い春の一日の本郷の坂のあり方の、東大のたたずまいについての、季語への回収の仕方については見事にスマートで遺漏ない。ただ、坂→ふつくら、東大→ごつごつ、といった言葉のあり方はジャーゴンにすぎないかという不満も同時に。
2018-03-04
【週俳2月の俳句を読む】冬野菜は最高。岡野泰輔
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