【週俳2月の俳句を読む】
珈琲店で雑文を書くⅡ
瀬戸正洋
珈琲店には珈琲の神さまがいらっしゃる。珈琲店に入ったときに、確かに、あのひとが神さまだと確信するひとがいる。素知らぬ顔でカウンター席に座る。私はざわついている場所が好きだ。音楽が流れていても苦にならない。懸命に生きているひとたちの何気ない会話に引き付けられる。珈琲店は、そんな「ことば」の宝庫だ。だが、不思議なことに、原稿用紙に書き写してみると、その瞬間に陳腐なものになってしまう。その陳腐な「ことば」を、時間をかけて再構築するのだ。その作業を句作というのかも知れない。
羽の国の熱燗よろし冷も良し 堀切克洋
「羽の国」とは何か調べたら、スーパーマリオが出てきた。この場合は、相模の国、出羽の国といったようなもので、地域を指すものなのだろう。羽とは鳥類が飛行するのに必要なものである。作者は、空に興味があるのかも知れない。鳥人にとって熱燗も冷も旨いのだろう。ひとにとっても、熱燗も冷も旨いのである。「旨い」とは書かず「良し」としたことにも何か訳があるのかも知れない。酔うほどに、あたまの中は混沌として、ますます、訳がわからなくなっていく。
日脚伸ぶ赤子のおなら逞しく 堀切克洋
生れてまもない子どものおならを逞しく感じたのである。昼がだんだん長くなり、少しずつ春が近付いてきたと感じはじめたころ、空も大地も動きはじめるのだ。生きとし生けるものの何もかもが動きはじめるのである。赤子のおならは、春に対する叫び、季節に対する叫びなのかも知れない。
姿なき鳥のこゑより寒明くる 堀切克洋
季節の変わり目を見ることはできない。春を知るということは感じることなのである。すがたのない鳥の声を聴くことにより寒が明けたことを感じたのである。五感を自由気ままに働かせること、春の訪れを喜ぶとは、そういうことなのである。
本郷の坂ふつくらと春立ちぬ 堀切克洋
本郷の坂がふくらむように、やわらかそうに見えたのである。風もなくおだやかな日だったのだ。また、本郷の坂には人生にとっての思い出があるのである。それも、ふくらむような、やわらかそうな思い出があるのである。青春の思い出なのかも知れない。これからは、少しずつ春が近付いて来るのである。
東大はごつごつとして春寒し 堀切克洋
視覚ではでこぼこしていて硬いのである。感覚では無骨で荒っぽいのである。それを東京大学だという。作者は「春」を待っている。待っているから寒いと感じるのである。作者は希望を捨てていない。ごつごつとしていても、そのなかには自分に必要な何かがあると信じている。
梅にほふ寺を訪ふもののなく 堀切克洋
曇っているのかも知れない。晴れているのかも知れない。小さなお寺なのかも知れない。境内には梅が咲いている。境内は白く染まっているようにも思える。ひとがいないので、その白さが際立って感じる。名も無き寺の昼下がりの情景。
春浅し水蛸の白透きとほる 堀切克洋
小料理屋のカウンターの冷蔵のショーケースに包丁の入っている水蛸がある。カウンターの中のひとが「水蛸の刺身はお勧めだよ」などという。常連はいつも同じものをたのむか、お勧めのものをたのむか、そんなところなのである。カウンターの中のひとの、水蛸についてのうんちくをひととおり聞いたあと出された小皿を見ると水蛸の白く透きとおっていることに気付く。春まだ浅く、となりの椅子にはコートとマフラーが置いてある。
きつかけは二月に彼と会ひしこと 堀切克洋
仕事も適当に済ませ、眠る時間も割いて夢中になっていること、それは二月に彼に会ったことがきっかけなのであった。彼女ではなく「彼」であったこと、「二月」であったことがイメージを膨らます。ひとと出会っても碌なことのないご時世なのである。結果は誰にもわからない。一歩でも前に進むべきだと思う。
犬ふぐりなみなみとあをあふれけり 堀切克洋
犬ふぐりの花の咲いているすがたを見て「なみなみとあを」としたのだろう。その「あを」があふれているのだから咲き誇っているのだと思う。咲き誇るとは悲しいことなのである。あとは、枯れていくだけなのだから。もちろん、咲き誇ることのできない悲しさもないわけではないが。
春風に吹かるる鳩を見て帰る 堀切克洋
春風といっても少し強い風なのだと思う。その風に鳩があおられている。そんな光景なのだと思う。鳩は見ようと思って見たのではなく目に飛び込んできた。そんなところだろう。でも、それは脳髄のどこかにぴたっと収まってしまったのだ。帰宅途中に、作者はそのことだけを考え続けている。
山眠るLANケーブルの消失点 野口 裕
LANケーブルの消失点は屋内にある。LANケーブルの中にも消失点はある。動画、写真、絵画が移動していく。現実の世界にも消失点はあり、非現実の世界にも消失点はある。消失点を見るひとの眼の不思議さを感じない訳でもない。目の前には静まり返った冬の山がある。
雪道に続く土道また雪道 野口 裕
雪の積もっている道を歩いていたら積もっていない道に出た。しばらくすると、また、雪の積もっている道に出た。雪が積もっていようとなかろうと同じだということなのである。人生には楽な道などどこにもないのである。誰もが苦労して生きていくのである。
風邪薬しゃりんと振って残業へ 野口 裕
壜に入っている風邪薬の錠剤なのであろう。振ればしゃりんと音がする。飲まなくても、ここに風邪薬があると思えば気も楽になる。とにかく、残業を終わらせることが肝心なのだ。子どもの頃、老人から聞いた「昔ばなし」がある。風邪をひいたひとの耳元で、竹筒に入れた米の音を聞かせると、それで元気になったと。こんな「昔ばなし」をしてくれる老人は、私の周りには、もう、どこにもいない。
のど飴を温めている紙懐炉 野口 裕
おそらくのど飴はポケットに入っていたのだろう。のど飴をなめたとき温かく感じたのである。紙懐炉はひとを温める。紙懐炉は間接的にのど飴を温めていたことになる。内ポケットに入れた手帳も万年筆も温かくなっていることに気付く。
鮒去りぬ氷の下の泥煙 野口 裕
氷の上だろうと下だろうと、氷の中だろうと生物はいる。氷の下で泥煙が上がったのである。薄い氷だったのかも知れない。おやと思い視線を向けると鮒の尾びれが見えた。鮒にとっては何でもないことなのだが、それを見たひとにしてみれば、すこしの驚きを覚えたのである。
袋から飛び出て溝に節分豆 野口 裕
かたちだけでは済ますことのできないのである。すべての部屋の窓を開け放ち豆撒きをする。玄関の扉も開けて豆を撒く。庭に向かって豆を撒こうとしたとき袋から飛び出した豆が溝に落ちてしまったのである。真剣に豆を撒けば、豆にだって勢いが生れる。だから、袋から豆が飛び出たのである。幸福とは、このようにして掴むものなのである。
古草の髭根を降りて地下鉄へ 野口 裕
これは土のなかの話なのである。ひとではないだろう。何故ならば、古草の髭根を降りるのだから。地下鉄に乗るのか、向かって歩いていくのか、それも不明なのである。とにかく「髭根を降りて」を、どう考えればいいのか。遠くから、近くから、この作品を、ひたすら眺めてみなくてはならない。
まじり合わぬ空気のかたまり春の雪 野口 裕
空気にはかたまりがあり、それはまじり合わないものだという。何故ならば、春の雪が降っているのだから。水にもかたまりがあり、それもまじり合わないものなのである。何故ならば、春の雪が降っているのだから。
春寒や鉛筆尻の芯の欠け 野口 裕
鉛筆の尻の芯が欠けている。尻の芯はなかなか欠けるものではない。異常な衝撃があったとか、ひとの手によるものだとか。私は故意によるものだと思う。故意にしたのではなければ面白くない。そのひとが何故、そんなことをしたのか、私も尻の芯の欠けた鉛筆を眺めながら考えるのである。春まだ浅い珈琲店の椅子に座って。
水たまりこんな凹凸だったのか 野口 裕
水たまりが乾いて底を見たら凹凸だったのである。つまり底は「凹」だと思っていたのである。自然は、そんなに甘いものではないことに感動したのである。当然、人生も、そんなに甘いものではないのだ。そんなことは誰でも知っている。これからの私の人生に試練が訪れるのなら、なんとか、耐えられる程度であって欲しいと切に願うのである。
中軽の駅正面に風花す 黄土眠兎
中軽井沢駅の正面に立ち中軽井沢駅を見ている。中軽井沢駅にこころが動いたのだ。晴れているのに雪が風に舞う。風花である。風花にもこころが動いた。見たもの、触れたもの、食べたものの何もかもにこころが動いた。たびひとだからである。作者は自分自身の前に立ち、自分自身を正面から見ている。たびびとであるから、自分のこころの動きが、いつもよりわかるのである。
雪靴の試し履きなり雪を踏む 黄土眠兎
雪靴をはじめて手にしたのだと思う。試しに履いてみた。履けば雪の上を歩きたくなる。雪靴を履くことは楽しい。雪を踏むことは決して不快ではない。暖かい地方で暮らすものにとっては、雪とはひとつのあこがれなのである。
姿見の下の屑籠暮れかぬる 黄土眠兎
春は日暮れが遅く感じる。室内であれば、それがなおさら遅く感じるのかも知れない。ホテルにしても旅館にしても姿見の近くには屑籠が置いてある。姿見と屑籠とはなくてはならぬ関係なのである。何故ならば、姿見とは、ひとのすがたを映すものだからなのである。すがたを確認すれば必ず不要なものが目についてしまう。それを捨てるために屑籠が必要なのである。そこでひとは暮れかねてしまうのである。春の夕刻、姿見のなかのひとも、姿見を見ているひとも、屑籠も、何もかもが暮れかねているのである。
寒灯やうたがひ深き泥の靴 黄土眠兎
疑い深くなってしまったのは泥がついたからなのである。「靴」にしたって疑うことは不快なのである。だが、泥で汚れてしまった。さらには、寒そうな冬の灯の下なのである。こころが荒んでいるのである。「靴」にしたって疑いたくもなるのだ。たとえば、おだやかな灯の下ならば、そんなこころが生まれるはずもない。「靴」が疑い深くなれば、その「靴」を履いているひとであっても疑い深くなるのは当然のことなのである。
汝を試すために寒暮の来たりけり 黄土眠兎
「試されるのは結構です」と言うことにしている。「老人を試してもしかたがないでしょう」と言うことにしている。そのかわり、ひとを試すこともしないようにしている。疲れることは真っ平なのである。だが、寒暮ならしかたがないのかも知れない。暑さ寒さはしかたがないのかも知れない。そのようにして、耐えることのできるところまで生きてみるのである。
ブレーカー落つ白菜は食べごろに 黄土眠兎
白菜が食べごろになったのは漬けたひとのちからではない。ましては、白菜のちからでもない。ブレーカーが落ちたからなのである。ひとが幸福であるのは、そのひとの努力ではない。たまたま、ブレーカーが落ちたからなのである。そのことを忘れてしまうと人生は狂い始めるのである。
燃えるゴミ隠れてゐたり雪の宿 黄土眠兎
分別してある「燃えるゴミ」なのである。旅館のものは業務用廃棄物といい分別もせず有料で業者が集めに来る。つまり、これは個人的な家庭用の「燃えるゴミ」なのである。雪の宿にも家庭はあるのである。慎ましい生活があるのである。たびひとには見せないように隠しておいたのかも知れない。あるいは、気を利かせた雪が隠してあげたのかも知れない。
長靴に雪深ければ流人墓 黄土眠兎
雪が深くなければ流人墓へは行かなかったのである。長靴を履いていなければ流人墓へは行かなかったのである。ふたつの偶然がひとつの行為となったのである。このようなことは暮らしの中ではよくあることなのである。ところで、これは偶然ではなく必然であったなどと言うひともいると思う。つまり、偶然も必然も考え方の違いだけなのである。このようなことも暮しのなかではよくあることなのである。
春暁の山の機嫌を見て帰る 黄土眠兎
機嫌にたいして敏感なひとなのだろう。「敏感」な故にうまく立ちまわれるのだと思う。だが、考えてみれば、誰もがそうなのである。争えば疲れる。家のなかぐらいはおだやかな気持ちでいたいと願っている。老妻は怖いのである。四六時中、老妻の顔を伺う生活は辛い。「春暁の山を見て帰る」だから、自然なのである。「山の機嫌」だから自然なのである。
あたたかや新幹線にコンセント 黄土眠兎
この作品を読み、新幹線にコンセントのあることを知った。このコンセントは乗客に対するサービスの一環なのだろう。作者は、新幹線に乗る前からあたたかかったのである。やさしいひとたちに囲まれて時を過ごし、おだやかな気持ちで帰宅するところだったのである。そこで、コンセントを発見した。コンセントのやさしさを実感した。こんなときは、どんなことでも、やさしく感じ、あたたかい気持ちになってしまうのである。
ビー玉を落として跳ねて鳥渡る 川嶋健佑
落したビー玉が跳ねるのはビー玉が跳ねようとしたからなのではない。鳥が渡ってくるのも渡っていくのも鳥の意思なのではない。それは風の意思なのである。落ちたビー玉が跳ねずに転がっていくところを見たことがあるだろう。渡り鳥がどこへも行かず、その場所で、じっしているすがたを見たことがあるだろう。ビー玉も渡り鳥も、ただひたすらに風の指示をまっているのである。
二の腕が摘まめて泣けてきて無月 川嶋健佑
空が曇っているから名月を観ることができないのである。それも風情があるといって折り合いをつける。二の腕が摘まめたので泣けてきたのである。何故、泣けてきたのかは知らない。生きていれば、泣きたいことなどいくらでもあるのだ。誰もが耐えて生きているのである。
万国旗ずたずたにして冬に入る 川嶋健佑
万国旗をずたずたにした。万国旗に対して、何らかの思いがあるのである。万国旗に対する感情とは、自分自身に対しての感情なのである。そんなことをすれば万国旗は傷つくに決まっている。自分自身も傷つくに決まっている。冬となる日、少しばかりの後悔と少しばかりの満足感。
山眠り難民白い波に散る 川嶋健佑
白い波に散るのは難民ばかりではない。誰もが白い波に散ってしまうのだ。ニュースで流れる画像を見て、それが、ひとごとだとは思ってはいけないのである。日本人も難民なのである。亜米利加人も難民なのである。どこかの国から木造船に乗った日本人が流れ着く。冬の山は表情を隠して静まり返っているだけだ。
地雷鳴る地球の隅っこには菫 川嶋健佑
菫とは平和のことなのである。地球上どこにでも地雷はある。そして、爆発するのだ。菫の咲いている僅かな空間、そこに希望があるという。それを頼りに生きていかなければならないのだ。だが、それを希望と呼んでいいのか否かは、誰も知らないのである。
核咲いて亜米利加さくら咲く国に 川嶋健佑
亜米利加でさくらが咲くのは、亜米利加でさくらを咲かせたいと願うひとがいるからである。亜米利加で核の花が咲くのも、亜米利加で核の花を咲かせたいと願うひとがいるからなのである。願うひとがいる以上、それはしかたのないことなのである。さくらは滅びる。核も滅びる。ひとも滅びる。当然、地球も滅びるのである。
夕焼けて訃報を聞けば喪に服す 川嶋健佑
何も考える必要はないのである。何も悩む必要はないのである。夕焼けのなか訃報を聞けば喪に服せばいいのである。夕焼けのなか吉報を聞けばみんなで酒盛りをはじめればいいのである。この先、碌なことしか待っていないと思えばいいのである。すこしでも幸せだと思ったら、目いっぱいその幸せに酔ってしまえばいいのである。
鯨潜り国境線は地図の上 川嶋健佑
日本の国境線は海上にある。領海は「国連海洋法条約」で決められている。つまり、国境線は地図の上になどないのである。海の上にしっかりと引かれているのだ。鯨には、国境線など関係はない。ひとが決めた領海など関係がない。自由気ままに潜りどこへでも行くのである。
冬空の下に今上天皇と香香と 川嶋健佑
今上天皇と香香を並べることに違和感がない訳ではない。だが、作者には、そうしなければならない理由があったのだ。冬空の下、この作品を眺めながら、そんなことを考える。ただ、否定しても何も生まれない。否定したら、その先がないからだ。肯定しなければ自分の作品につながっていかない。
ビー玉を拾い集めてある平和 川嶋健佑
平和とは何かを考えてみる。住んでいる社会が安心安全であるということなのだ。「安心安全」という言葉が使われ出したのは最近のことだ。だが、この場合の「平和」とは精神のはなしのような気がする。入れ物に入っていたビー玉を入れ物ごと落としてしまった。ビー玉は飛び散る。それを拾い集めたのである。その時のこころの動きを「ある平和」としたのである。
2018-03-04
【週俳2月の俳句を読む】珈琲店で雑文を書くⅡ 瀬戸正洋
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