2018-10-14

【週俳9月の俳句を読む】9月はいろいろあって  岡野泰輔

【週俳9月の俳句を読む】
9月はいろいろあって

岡野泰輔


いや恐かった、台風24号のあんな風は初めてだ。一晩中屋根が鳴って眠れず、朝その一部が飛んでいるのを発見。台風もういや!

万策が尽きて夕立の止みし街  及川真梨子

万策尽きる主体はふつう詠み手またはある個人だが、ここでは街という個人の集合体、そしてその機構(つまり市役所など)を万策尽きる主体と読むのは強引だろうか。下の句を参照すれば嵐の後、氾濫した街の景が見える。嵐の後の夕立晴の美しくも荒涼たる景と読む誘惑に駆られる。

万策尽きるという生硬なそれだけに意想外の強い言葉の出だしが後半の静寂と釣り合っている。

市役所の泥長の痕菊日和  及川真梨子

「泥長」とはなにか?泥長靴ではないか。ゴム製の長靴をゴム長と言うしね。前の句により勝手に台風一過のとある街を想像してしまった。前日から市役所内を右往左往したであろう職員の泥靴の跡が生々しい。泥から菊へあざといまでの展開だが、嵐の後の秋晴の街が見えてくるようだ。

水遊びする子の父は祖父となり  対中いずみ

複数のテクストの重なりが美しくも豊かな俳句的時空を現出させてうっとりする。もちろんすべて読者たる私の頭の中での出来事。パラテクストとしての作者名、その下層からゆっくり現れる師田中裕明の名、そして名高い「水遊びする子に先生から手紙」。それに「水遊びする子をながく見てありぬ」を加えてもよいだろうか。それにしても水遊びする子はなんと持続する陽光を纏ってしまったことか。水遊びした子の子も水遊びする、その循環する光と水。特権的な場所から放たれたことばにせよ、その言葉はしばらく私を立ち止まらせる。「眠りゐる子の眉あげて冰る山」「をさなくて晝寢の國の人となる」等裕明の眠る子の像も揺曳させながら。

ネクターの缶かわいくてもう九月  佐藤 廉

ネクターが好きだ。ピューレ状のあの舌ざわりとほの甘さ。たしかに真夏の飲料ではない。九月は実に適切な感じがする。また歴代のパッケージデザインも果実-桃を衒いなく前面に出した王道のもの。というわけでこの句の「かわいくて」とか「もう」の俳句では忌避される語の使用による全面手放し感はまさにネクターそのもの。句形と素材の幸福な一致。

水引や自説あっさり覆す  津田このみ

十六夜の体側適当に伸ばす  津田このみ

あっさりしているのである。適当なのである。あれほど力説していた論をくるっと180度回転。

その軽やかさと水引草は合っているともいえるし、あっさり覆されて違う景物と合わされても文句は言えない。やはりあっさりがいいのか。一方二句目、体側はもっとしっかり伸ばした方がよいと作者に忠告したいところだが、何事も適当が肝要らしい。作者の最新句集『木星酒場』には「ところてんと言うてからだがところてん」があったりして適当でも体側は十分伸びているのだろう、うらやましい。季語十六夜は適当でなくこの句を俳句の側に、俳句の国の出来事に設えている。

草紅葉ゆっくり曲がる樹木希林  津田このみ

この句、9月30日号ということは樹木希林の生前に作られたものか、死後か?どちらにしても興味深い。「ゆっくり曲る」が奇妙な不思議な運動を句中で起こしているからだ。樹木希林という名前そのものが句の言葉として運動をはじめる、撓んでくる。ぎしぎしと音さえ立てているのではないか。毀誉褒貶というより最後は称賛につつまれたといってよいこの女優への句として立派に立っている。草紅葉もなにやら象徴的だ。


593号 201892
及川真梨子 隠門 10 読む
596号 2018923
対中いずみ 嫌がつて 10 読む
佐藤  かわいい缶 10 読む
597号 2018930  
津田このみ 大阪 10 読む


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