【週俳7月9月10月の俳句を読む】
冬のはじめがよく晴れて
岡野泰輔
ちょうど一年前ぐらいに出版されたアンソロジー『はじめまして現代川柳』(小池正博編 書肆侃侃房)は日頃いかにもな俳句的結構に倦んだ目にはとても新鮮に映った。編者小池によると川柳とはひとつの断言の形式であるらしい。
ゆるキャラが当然もつべき悪意 湊 圭伍
なるほど、湊のこの句はひとつの断言だ。ゆるキャラにおしなべて標準装備されているはずの善意、その真逆=悪意がここにきっぱりと断言される。「当然」とか「べき」の強調がその断言性をきわだたせている。すべての善意は悪意の裏づけがあってこそと思わせる。当然とかべきの措辞の効果である。あのふなっしーの度を越した狂騒ぶりなども内に悪意を想像すればさらに味わい深い。殺人鬼のサンタクロースが登場する映画シリーズもあるように、善意の内なる悪意はポップアイコンに相性がいい。
ここで前述の『はじめまして現代川柳』から湊の《機関車トーマスを正面から殴る》をふと思い出す。たしかにトーマスを殴るなら正面からだろうというのはさておいても、ここでの悪意は対象のこちら側、子供のそれではないか、と思い至り少し驚く。
マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ 同
こういう句を前にして何を語ればいいのか。もちろん語らない自由はこちらにあるのだけど、《階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石》を例にあげ、たしか三島ゆかりが「三物衝撃」といっていたが、それにあたるだろうか? 違うか?
閒石の句をいま見れば、階段、海鼠、日暮、が薄い類縁=情緒でつながっている。
一方湊の句は三物がそれぞれつながりを断とうと三方向へ最大限の推力を発揮している。おそらく慎重に離したであろうマキャベリと桔梗、マキャベリと炒める、桔梗と炒めるはまあできなくはないが、縁はない。と、ここで「いつも」が断言の形式川柳としての力を、効果を発揮しているように読める。ちょうど閒石にあって「かな」-詠嘆が俳句を保証しているように。
生きかたが尻とりの彼氏 同
ホイホイと一面に載るG7 同
この浮薄さこそを楽しめばいいのだろう。特に後者の軽さはどうだ。G7とかG20とかの略称にまつわるそもそもの軽薄さ、特に日本人の自尊感情をくすぐる7とか20の数字。いそいそと雛段に並ぶ首脳、それも短躯日本人首脳の軽さがホイホイで悲しいまでの可笑しさに。
住むことの今年花栗にほふ夜に 上田信治
翡翠のこゑとぶ雨の山つつじ 同
くらい日の水に日のゆれ半夏生 同
静謐な美しさを湛えた句群。花栗、翡翠、半夏生などの実に俳句的な景物が無理なく一句の季題として働いている。仔細に見ていけば名詞、動詞、形容詞の情報量は少なくない。その情報量が気にならないほどなめらかにつながって、ある美的統御がなされている。聞きやすい高さにおさめられた声調(トーン)もそのひとつ。でもどうしたんだろう、上田信治とはもっと過激な作家ではなかったかと、私は氏の第一句集『りぼん』(邑書林2017)を思い出している。例えば《春は古いビルの頭に人がゐる》。この句の過激さ異様さはどうだ。ビルの屋上に人が立っているのが見える、それだけのことが、春はの「は」、古いの「い」など普通に見えてそれぞれ普通でない方へずれていく仕様。極めつけはビルの頭、直後に人がみえるので日常の符帳の域を超えている。細部の少しずつのずれが全体として白昼夢のような景を現出していた。
とはいっても一句目、《住むことの今年》には特に惹かれる、花栗と相まってざわざわとしみじみする。静かな句だけとり上げて云々するのもフェアでない。
階段は遠目に枇杷が生つてゐる 同
この助詞「は」の不思議さ、遠目ということさらな言及、それでいて全体がなめらかにつながる。上田は健在なのである。
神は見ない水に砂糖の溶けてゆく 同
水に溶ける砂糖をじっと見ている目と、見ないと否定してもそこにある神の目によ
る視線の二重性。ただ事が永遠の真実に交差する一瞬の詩情を感じる。
根切虫きみどり色の町の夜を 同
フィルターがかかったようなきみどり色の町と根切虫はちょっと禍々しい、こんなふうに書かれると根切虫は季を離れて怪物のような大きさを獲得する。
ともあれ作家は変貌する。『リボン』以降の上田はどこへ行って我々を待っているのだろうか、私は捜しあぐねているのかもしれない。上田の行跡を追うことは俳句の秘密にふれるよろこびでもある、困ったことに。
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第757号 2021年10月24日 ■本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む
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