【週俳7月9月10月の俳句を読む】
霜月の72句雑感
瀬戸正洋
エプロンのポケットにあんなものこんなもの 湊圭伍
作業時に服が汚れないことを目的としている。あんなものこんなものとあるので、その作業に必要なものを入れるのだろう。そもそも、ポケットが膨らむと作業はやりにくくなる。痛し痒しである。エプロンのポケットには、キャラメル、キャンデー、ビスケットetc...でも入れておけば面白いのかも知れない。
ゆるキャラが当然もつべき悪意 湊圭伍
地域、企業のPRに利用する、ゆるいマスコットキャラクターのことを「ゆるキャラ」という。「ゆるい」とか「利用する」などと言われ軽蔑されているのだから、悪意を持つなと言われても無理なことなのかも知れない。
「悪意」とは、深く、そして、限りなく美しい言葉だと思う。
生きかたが尻とりの彼氏 湊圭伍
誰にでも「かたち」というものはある。「かたち」を知ることができれば、より浅く理解することができるようになる。浅くでも理解することができれば、それで十分なのである。尻とりをすることで、すこしでも深さを抑えることができるのなら、それで、満足をすべきなのだと思う。
失敗を恐れずに甘噛みしよう 湊圭伍
全てが万事ということなのである。失敗することからはじまる。要するに、失敗しようと成功しようと、どちらでもかまわないということなのである。恐れてはいけない。要するに、「成功を恐れずに甘噛みしよう」ということなのである。しっかり噛まないことを甘噛みという。さらには、愛情表現であるとのことである。
アルファベット通りもんどり打ってモンドリアン 湊圭伍
オランダ出身の画家である。カラフルなモンドリアン柄を思い浮かべたりもする。モンドリアン柄の文字(アルファベット)が、アルファベット通りで規則正しくもんどりを打つ。
目がちかちかする。視力に害することは、避けなければならないなどと考えている。
マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ 湊圭伍
どんな手段や非道徳的な行為であろうと結果として国家の利益を増進させるのであれば許される。どの時代でも、何もわからないくせに為政者は、その方向へ引きずり込もうとして必死である。炒めるものが間違っている。炒め過ぎることも間違っている。桔梗にとっては迷惑千番な話なのである。
ホイホイと一面に載るG7 湊圭伍
国際通貨基金先進国、最も裕福な自由民主主義国、多元主義と代議制政府等々、耳ざわりのいい言葉が並んでいる。これらの共通の価値観に基づいて公式に組織された。
恩恵に預かっているのかも知れない。恩恵に預かってないのかも知れない。不快に思ったりもする。要するに、ホイホイと掛け声をかけたくなる程度だと思っていればいいのである。
玉音が洩れとるパッキン替えときや 湊圭伍
廉価で気軽に替えることができる。それでいて完璧なものである。「パッキン」とは、庶民そのものの象徴でもあるのかも知れない。もちろん、玉音が洩れようが洩れなかろうが何の不都合もないということなのである。
刑法や腰をひねつてゐる糸瓜 湊圭伍
刑法のことなど何も知らない。能天気なのである。まっとうに生きているつもりでも、もしかしたら、そうでないのかも知れない。腰をひねっている糸瓜は、罪を犯していることを知っているのかも知れない。人も腰をひねって生きていかなくてはいけないのかも知れない。誰もが苦労して生きている。誰もが罪を犯して生きている。
はあローストビーフ来い 湊圭伍
スーパーマーケットではローストビーフが廉価で売られている。だが、老人は高価なローストビーフが食べたいのである。ホテルのレストランのローストビーフが食べたいのである。老い先は短いのだから、預金通帳の残高など恐れるに足らない。緊急時代宣言が解除されたのだから、某ホテルのレストランで、おいしい生ビールが飲みたい。
茄子虹色みなみに喇叭鳴りぬれば 上田信治
喇叭とあるので実用的なものなのかも知れない。ベランダで大切に育てている茄子なのかも知れない。茄子が虹色に見えたことが嬉しかったのである。その嬉しい気持ちが、耳に、何か他の、さらに嬉しいものを捜させようとしているのかも知れない。
テーブルの紫陽花錆びて煮干散る 上田信治
煮干は錆色である。出汁を取ろうとしていたのである。紫陽花は萎れ始めていたのかも知れない。煮干は、何かの拍子に飛び散ってしまった。テーブルだけではない。紫陽花だけでもない。こころまでもが、錆色に覆われたような気になってしまったのである。
住むことの今年花栗にほふ夜に 上田信治
庭の畑に、栗の苗を二本植えた。庭の畑とは、庭から続いている畑ということだ。近所の人が南側に栗の木を植えたら大変なことになるといった。慌てて枝を切った。哀れになるくらいに枝を切った。それでもそれなりに育っている。
今年は特別な年なのである。栗の花は、家の中にまでは匂ってこない。それにしても、あの花が、あの毬になっていくのが不思議な気がしないでもない。
横日さす花の空木よ蟲飛びつ 上田信治
横日の美しさに驚いたのである。花の空木の美しさに驚いたのである。空木から蟲が飛び立つことに驚いたのである。横日が美しいのはあたりまえのことである。花の空木が美しいとはあたりまえのことである。蟲が飛び立つこともあたりまえのことである。当然、驚くにしかるべきことなのである。
翡翠のこゑとぶ雨の山つつじ 上田信治
こゑがとぶとは、近くでは聞こえないが遠くならよく聞こえるということなのかも知れない。あるいは、近くからはじまり、遠くへと聞こえ続けていくことなのかも知れない。雨が降っていたからなのかも知れない。山つつじが咲いていたからなのかも知れない。
くらい日の水に日のゆれ半夏生 上田信治
夏至から数えて11日目の頃からの5日間、七夕の頃までを半夏生という。ここ数年、稲作を手伝うようになったので気にする雑節である。手伝うといっても素人なので、たかが知れている。そういえば、田植のころの田圃の風景のような気もする。
半夏生の白い花を思い浮かべてみたりもする。日差しはあるが、空全体がくらい風景。心の底までもが暗くなってしまう。白い花が唯一の救いなのかも知れない。
雨の鳥たうもろこしの花のうへ 上田信治
とうもろこしは目立たない花である。雨のとうもろこし畑である。見知らぬ鳥がとうもろこしの花を揺らせている。雨は、静かに降っている。風も、静かに吹いている。
青年は実梅の落ちて影のない 上田信治
青年とは実梅のことなのである。実梅は落ちてしまったのである。実梅には影がないのである。
青年には生きる力がある。青年とは実梅のことなのである。落ちてしまったのだから術はない。青年は、青年であるのだから、実梅であることを自覚しなくてはいけない。
国破れて赤いチェリーに味のある 上田信治
味がないのではない。味はあるのである。赤いチェリーには味はあるのである。そのことだけが必要なことだったのである。そのことだけが大切なことだったのである。
国のことは考えなくていい。国のことは忘れてしまってもかまわないのである。赤いチェリーに味のあることだけを覚えておけばいいのである。
ほつれてもアロハのシャツよ思ひ出の 上田信治
アロハのシャツには思い出がある。ほつれていても大切なものなのである。ほつれていても捨てないのである。それは、アロハのシャツが決めたことなのである。人には、それを決めることなどできない。アロハシャツは永遠に存在するのである。
くりかへす太郎のそれは電車なり 上田信治
繰り返していることが問題なのである。それは電車なのだということが問題なのである。電車とは、毎日、同じ線路の上を繰り返し走っているものなのである。
毎日、同じ線路の上を繰り返し走っていることについて太郎は考えている。
階段は遠目に枇杷が生つてゐる 上田信治
遠くに外階段が見える。目の前の枇杷は実をつけている。だが、目の前の枇杷よりも遠くに見えている外階段の方が気になるのである。
遠目とは、距離を置いて見ること、あるいは、普通の人より遠くまで見える視力のことをいう。
犬はけだもの苦瓜の種赤くあり 上田信治
犬らしくない犬のことをけだものという。心を持たない人のことを軽蔑していうこともある。「人はけだもの苦瓜の種赤くある」としても、案外、間違っていないのかも知れない。苦瓜の種の赤いことに気づいたことに興味を覚える。
夏の偉人汗のゆふがたの河原の 上田信治
夏の夕がた、河原で涼む人がいる。それを自然にすることができるから偉人なのである。汗をかくことなど忘れてしまった人々は、複雑な気持ちで、それをながめている。
夾竹桃ジンをどぼどぼと捨てにけり 上田信治
もったいない話である。ジンを勢いよく捨てたのである。そんな生き方をしたいと思うときもある。夾竹桃がそうさせたのかも知れない。夾竹桃に騙されてしまっているのかも知れない。
エゴノキの若木の咲いてゐる斜面 上田信治
エゴノキの花を見つけた。斜面に咲いている花を見つけた。自然に生えたものである。それも、若木である。エゴノキの若木に対する眼差しのあたたかさを感じる。エゴノキの花に対する眼差しのやさしさも感じる。
海へ行く胡瓜をたくさん持つて風に 上田信治
海へは何を持っていってもかまわない。当然、胡瓜を持って行ってもかまわない。たくさん持って行ってもかまわない。「風に」にとあるので立ち止まったのである。これは性格である。良し悪しは別として、これは性格なのである。海は、荒れていたのかも知れない。
無花果の空見上ぐればたましひよ 上田信治
人は死んでもたましひは残る。つまり、たましひは肉体ではないのである。たましひは肉体に宿るという言葉もある。たましひは肉体にも何らかの関係があるのかも知れない。
たましひとは、無花果のことなのである。たましひとは、無花果の感触と重さと甘さのことなのである。何も考えてはいけない。ただ、空を見上げていればいいのである。
人は自分を奏でて秋のコップかな 上田信治
自分を自分で奏でるなどという嫌らしさは、誰もが、心の奥底に持っているものである。人は、それを隠して生きている。それに引き換え秋のコップの何と清々しいことか。ただ、そこにあって存在しているだけなのである。もっと、コップについて考えなくてはならないのである。
神は見ない水に砂糖の溶けてゆく 上田信治
見ないのではなく、見たくないのかも知れない。神は感じるものなのである。神は、何かをしてはいけないのである。水は神である。砂糖も神である。砂糖の溶けている水も神である。
梧桐に日は八月のかげをなす 上田信治
神社の境内なのかも知れない。八月のかげといっても、敗戦とか原爆とは、既に、遠い過去のことなのである。敗戦を終戦であると言い続けている人々がいる。よくわからないことをひっくるめて、八月の「かげ」と言っているのかも知れない。
秋の蟬フィルターを乾かしてゐる 上田信治
機能を高めるために乾かしているのである。機能を高めることが正しいことなのかということはわからない。機能が劣っていることが正しいことであるのかも知れない。立秋を過ぎて、鳴く蟬のことを秋の蟬という。油蝉、かなかな、つくつく法師、旧盆を過ぎても、まだまだ、力強く鳴いている。
透明な魚で生きて星祭 上田信治
数十年生きたくらいでは知らないことばかりである。星祭とは仏教の儀式ということだが、天下国家に起る各種の災害や個人の災いを除くための祭るのだという。「各種」のとあるのが安易のように感じる。天下国家を論じるなどということは、恐れ多いことなのである。透明な魚に任せておけばいいのかも知れない。
秋草のむかしは赤い電話かな 上田信治
赤い電話機とは公衆電話である。十円玉を十数枚重ねて電話機の上に乗せる。十円玉の落ちていく音は、青春時代の甘酸っぱい思い出そのものなのである。足もとの秋草は風に揺れている。
人情の秋の布団の軽さとは 上田信治
人情とは軽いものなのである。そう決めてしまうことが肝心なのである。その時々の感情などに左右されることなど以ての外なのである。
人情とは重いものなのである。そう決めてしまうことが肝心なのである。その時々の感情などに左右されることなど以ての外なのである。
布団は、軽いものよりも重いものの方が落ち着く。そう決めてしまってもいいのかも知れない。
うみやまのあひの匂ひや糸とんぼ 上田信治
匂ひとは、情趣、余情、鮮やかな色合い、つやのある豊かな声等々、書き出すときりがない。日本語の中の日本語なのである。糸とんぼとは、細くて長くて透明である。糸とんぼは、外国では生息していないのかも知れない。
糸とんぼは、熱帯から亜熱帯まで多くの種類が知られる。特に、熱帯に多く生息しているとあった。
日本は、特別であると考えることは慎まなければならない。
小さな秋光る音してセロハンの 上田信治
何もかもが小さなセロハンの音なのである。小さな秋そのものが光るセロハンの音なのである。セロハンの音とは小さな秋の光る音なのである。
ベランダがペリカンに似て秋の空 上田信治
ベランダとペリカンを書き並べてみる。似ているような、似てないような、そんな気がする。言葉で遊んでいるだけのことなのかも知れない。ベランダに腰掛けている。ペリカン便のトラックが遠くからやってくる。これは、老人の日常である。爽やかな澄みきった秋の空が広がっている。
芝枯れて給水塔のフォークロア 上田信治
田舎暮しにとっては、フォークロアの給水塔など縁のない建物である。芝を植える必要など何もない。水は山からいくらでも流れて(湧いて)くる。草は山からいくらでも押し寄せて(生えて)くる。
アパートに考へ無しの冬日かな 上田信治
アパートに帰れば、ただ眠るだけなのである。何も考えることなどなくただ眠るだけなのである。何も考えないアパートはやさしい。何も考えない冬日もやさしい。アパートと冬日は、気を使ってくれているのである。何も考えてはいけない。ただ、ひたすら眠らなくてはならないのである。
水仙やジャージ上下に足はだし 上田信治
くつろいでいる心には、水仙の花がよく似合う。くつろいでいる身体には、上下のジャージがよく似合う。もちろん靴下など脱いてしまうに限る。水仙の花が、束縛から解き放ってくれるのである。
甘栗は冬のくもりの空に割る 上田信治
栗を剥くのではない。栗を割るのだ。甘栗だから割るのである。冬のくもりの空に割るのである。甘栗は栗ではないという人がいる。確かに、栗の素朴さは失われている。だが、あの縮れ固まった甘さも悪くはないと思う。
たんぽぽのあひるの春の夜の海 上田信治
「たんぽぽのあひるの」とは、昼のような気がする。「春の夜の海」は、夜である。昼と夜の微妙な繋がり、微妙な連続性を感じ取っているのかも知れない。
クロッカス歩けば歩くほど休み 上田信治
歩く距離が長くなれば休養は必要である。クロッカスのことを鑑賞用耐寒性秋植球根植物という。人にこのようにいわれても、甘んじて受けているのである。クロッカスは耐えている。歩行と休息。クロッカスも人も、このことだけを考えていればいいのかも知れない。
まんさくや物が置かれて事務机 上田信治
戯れに「物を置かない事務机」などと呟いてみる。物が置いてあるから事務机なのだと思い直してみる。まんさくの花を思い浮かべてみる。仕事を始める気になったりもする。
春堤や一二歩下りてから佇む 上田信治
もっと流れに近づくか、すこし後ずさりするか、春堤が迷わせたのである。春は迷いの季節である。迷うとは希望があるということなのである。老人は迷わない。仕方がないと諦めているからである。佇む場所など、どこでもいいと思っているからである。
根切虫きみどり色の町の夜を 上田信治
根切虫を潰すと、きみどり色の液体が流れる。毛虫を潰したとき、そんな経験をしたからである。つまり、根切虫も毛虫もいっしょくたになっている。
根切虫は必死で努力をしている。他人のことなどかまっている訳にはいかないのである。
町の夜が、きみどり色であるということは不思議なことなのである。根切虫が、きみどりいろの町の夜にしたということも不思議なことなのである。
顔赤くして哀しみのはうれん草 上田信治
顔を赤くしているのは、はうれん草である。顔を赤くして哀しんでいるのは、はうれん草である。哀しみは、いつでもやってくる。哀しみは、繰り返しやってくる。人も、はうれん草のように顔を赤くしてやり過ごせばいいのかも知れない。
顔が赤くなることは哀しいからである。顔が赤くならないようにと願うことも哀しいことなのである。
はるのくれ明日敷く石のタイルの山 上田信治
石のタイルが庭先に積んである。職人が施工するためのものである。季節が移るので石のタイルに張り替えるのである。季節に対して、人は、ささやかでも従順の意を示さなくてはならないのである。
限りある家の暮春を拭いてをり 上田信治
何故、暮春を拭こうと思ったのか。何故、家の暮春を拭こうと思ったのか。何故、限りある家と思ったのか。
拭くとは、布などでこすって汚れを取ることである。人は、季節の変わり目になると、何かをしたくなるのである。もしかしたら、魔が差したのかも知れない。
魔が差したから、限りある家と思ったのである。魔が差したから、限りある家の暮春を拭きたくなったのかも知れない。
いつぴきの白山羊の鳴く卯月野へ 上田信治
陰暦四月ごろの野原のことを卯月野という。作者は、卯月野にいっぴきの白山羊を置いて鳴かせたかったのである。そして、作者も、そこへ行ってみたかったのである。
夕蛙構造物へみづのなみ 上田信治
構造物と池とは接している。構造物とは、美術館、博物館の類なのかも知れない。夕ぐれに、ちいさな波が起こった。蛙が飛び込んだからなのかも知れない。それだけの話なのである。蛙も人も同じことなのである。たとえ、人が七転八倒し池に飛び込んだとしても、何も変わらないのである。おだやかな春の夕日につつまれているだけなのである。
天の川すこしく切れて童歌 恩田富太
天の川でさえ自由気ままに生きることはできないのである。風、雲、月、あるいは、構築物等に邪魔されている。だが、童歌とあるので天の川の意志であることも感じられる。童歌からは、民俗、歴史等、あるいは、人の愚かさ、無力さ、弱さ等を感じたりもする。
一面にジャムを平せる花野かな 恩田富太
時間をかけて歩いて来たのかも知れない。野原一面に咲いているのはジャムなのである。一面がジャムで覆われているのである。だから、何か、「変」なのである。ジャムが体に纏わりついているような気がしない訳でもない。
配線をこぼして秋の兜虫 恩田富太
配線とは不要なものなのかも知れない。故に、こぼしたのかも知れない。兜虫も不要なものなのかも知れない。故に、秋になっても生きているのかも知れない。
はつ嵐手帳の癖も手に余り 恩田富太
その日の気分で手帳を変えたりもする。予定を書く手帳は変えることはできない。その日の出来事を書く手帳も変えることはできない。最低一年は同じものを使うことになる。使い込んでいくうちに、手帳には、それぞれ、癖があることに気づく。
どの手帳にも癖はある。それは、使っている人の癖なのである。故に、手に余るほどのことではない。自分の癖だと思えばいい。それでも、手に余ると感じたなら、それは、はつ嵐が、その人をそそのかしているからなのかも知れない。
青蜜柑剥くやコンセントに火花 恩田富太
電器具が作動しているときにコンセントを抜くと火花が散る。例えば、食パンを焼いているトースター。考えてスターターは回さなければならない。青蜜柑を剥くときも考えなくてはならない。もしかしたら、コンセントを抜いても火花が散らない方法を青蜜柑が教えてくれるかも知れない。
鶏頭の何であらうと怒らない 恩田富太
生きる上での鉄則である。人生の知恵なのである。凡人にはできない。鶏頭だからできるのである。決して怒ってはいけないのである。
鶏頭の花は、鶏のトサカによく似ている。トサカにくるとは、頭にくるという意味である。故に、鶏頭は、何があろうと怒ってはならないと決心したのである。
パンドラの箱鈴虫を残したる 恩田富太
パンドラの箱とは、災いを引き起こす原因となるもののたとえである。好奇心を持つことほど愚かなことはない。好奇心を持ったりすると碌なことにはならない。もしかしたら残された鈴虫の鳴き声とは、好奇心を捨てた後の希望のことなのかも知れない。
台風を湯に鎮むれるあひるちやん 恩田富太
台風は近づきつつあるようだ。風雨ともに強くなってきた。それでも、差し迫った危険はないような気もする。あひるちゃんとは、子どもの風呂用の遊具である。子どもと風呂に入ったとき、その遊具に念じさえすれば、台風も進路を逸らしてくれるかもしれないと思った。
火や恋し兎のくちの固結び 恩田富太
寒い日は火が恋しくなる。固結びとあるので、生きている兎ではない。人形の兎なのかも知れない。
寒くない日も火が恋しくなる。結び方にもいろいろある。私は、ひと結びと、二十止め結びぐらいしか知らない。
コットンの買物袋秋惜しむ 恩田富太
コットンの、それも安価な買物袋である。何回も、同じ買物袋を使うのは不潔である。買物のたびに洗濯しなくてはならない。使い捨てのビニール袋は清潔だった。この考え方は間違っていることは理解している。洗濯をすればいいのである。
それにしても最近の秋は一瞬で過ぎ去ってしまう。寂しいような気がする。
さがしをりガラスの街の今日の月 本多遊子
ガラスの街だと思ったことが間違いだったのかも知れない。嫌悪感を覚えているのかも知れない。見つかるか否かは、捜してみなければ分からないことである。ガラスの街に月光は似合うのかも知れない。
ウエハースに鉄カルシウム小鳥来る 本多遊子
小鳥も千差万別である。栄養機能食品も千差万別である。鉄とカルシウムとあるので小鳥が食べてもかまわないのである。栄養のことなど考えず、抹茶味や珈琲味のような苦味の効いた甘いウエハースを食べたいと思うときもある。
流れ星メールにエラーメッセージ 本多遊子
送信できなかったのは流れ星の意志だったのかも知れない。ある人への返信は必ずエラーメッセージの表示が出る。それを修正する知識はない。しかたがないので、アドレスをコピーし送信することになる。夜空には星が流れている。それを見るたびに、一抹の不安がよみがえったりもする。
花巻にはオオタニもゐる賢治の忌 本多遊子
花巻出身の有名人を検索してみた。俳人では「岡山不衣」。詩人では「宮沢賢治」とあった。大谷翔平は、岩手県奥州市出身である。花巻東高校卒業なので、「花巻には」としても違和感はない。大谷翔平が他人には決して見せない「何か」を見てみたいなどと思ったりもする。
運動会サンドイッチを窮屈に 本多遊子
サンドイッチは窮屈に詰めなくてはならない。窮屈に詰めてこそ美しさが映えるのである。運動会の昼食といえば、家族といっしょに食べるのである。海苔巻き、いなり、早生の蜜柑、茹でただけの栗。これが、子どものころの運動会の昼食の定番であった。
十六夜のぬつと鼻出すポルシェかな 本多遊子
ポルシェといえば、山口百恵である。ファンでもないのに知っているのだから、誰もが知っている流行歌に違いない。十六夜とは、十五夜の次の日のことである。ポルシェは通り過ぎたのではない。ぬっと現れたのである。少しぐらいは驚かなくてはならないのかも知れない。
迷つたら人にすぐ訊く牛膝 本多遊子
小さな実には棘があり衣服に付着する。根は生薬として用いられる。牛膝を人に例えれば、決して素直な人ではない。癖のある複雑な人なのだと思う。道に迷ったら、すぐ訊いてしまうに限る。歩いている人にではない。そこに住んでいる人に訊くのである。牛膝のような人に訊けばいいのである。
秋の蜂霊園区画抽選日 本多遊子
取り敢えず当たればいい。その程度のことなのかも知れない。寺じまい、墓じまいが話題になる昨今である。だが、これは霊園を購入しようとしている。秋の蜂は、何を示唆するために飛んできたのか。墓の周辺には蜂の巣が多い。
赤い羽根先だけ磨く夫の靴 本多遊子
何も考えることなく赤い羽根を胸に付けたりしている。赤い羽根共同募金、ネーミングがいいのである。地域・社会貢献とくる。所在地は、霞が関である。少し、胡散臭い気がしてきた。夫の靴の先だけ磨く妻。これも何か胡散臭いような気がしない訳でもない。
無花果を尻から剥いて行き詰まる 本多遊子
人生とは、行き詰まるものなのである。行き詰まらないものなど皆無なのである。無花果のことだけではない。尻から剥いても行き詰まるのである。頭から剥いても行き詰まるのである。行き詰まらない方法を考えてもしかたがない。要は、はやく行き詰まってしまえばいいのだと思う。
第752号 2021年9月19日 ■上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む
第756号 2021年10月17日 ■恩田富太 コンセント 10句 ≫読む
第757号 2021年10月24日 ■本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む
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