2021-11-14

柘植史子【週俳7月9月10月の俳句を読む】ホイホイと 

【週俳7月9月10月の俳句を読む】
ホイホイと

柘植史子


生きかたが尻とりの彼氏  湊 圭伍

長く生きてきたが「尻とりの(ような)生きかた」というものについて考えてみたことがなかった。「生きかた」というふわっとした概念と、言葉遊びのひとつである「尻とり」とは普通は結びつかない。

周囲の反応に左右されて行動するタイプなのだろう。しかも、尻とりという遊戯の連続性を考えると、この彼氏は何につけても自分の本意ではなく、他人の言動を指針としている男と想像する。

そんな彼氏に作者は歯がゆさを感じているのだろうか。「生き方が尻とり」と、「ような」抜きのコンパクトな表現に、「彼氏」への批判より寧ろそんな生き方を面白がって客観的に見ている傍観者の立ち位置を感じた。

ホイホイと一面に載るG7  湊 圭伍

昨年から今年にかけて、日本産のごきぶりの新種が3種も発見されたとのニュースに接した。「ホイホイ」からはどうしてもあのゴキブリ駆除商品を連想してしまう。GはゴキブリのGで、餌に釣られてあの紙の家にホイホイと進入し接着面から動けずにいる七匹のGたちの姿が脳内に浮かぶ。

実際、議場ではどんなに激しい意見の応酬が展開されようと、新聞の一面に載るのはにこやかな笑顔を浮かべたメンバーたちの写真である。政治が世界へ発するメッセージにはいったいどれほどの真実があるのだろう。「ホイホイ」の胡散臭さには作者の強烈な皮肉が込められている。

くらい日の水に日のゆれ半夏生  上田信治

一読で気が滅入るような気分にさせる力を持った句である。まず、「くらい日」のひらがな表記に得体の知れぬ不気味さがある。二つ目の「日」は水に映る太陽の「日」であるが、このふたつの「日」をさりげなく並べて置くことで、名状しがたい不吉さが一句の表面に浮上する。

この不穏な空気は「半夏生」に拠るものである。俳句は短いから一目で全部が目に入る。「半夏生」という言葉が、最後に置かれているにもかかわらず最初から読み手を支配するのだ。物忌みの日の鬱陶しさが一句を循環している。

犬はけだもの苦瓜の種赤くあり  上田信治

むかし、子供の私に祖母が言った言葉を思い出した。飼っていた犬を可愛がり、じゃれ合っていたとき、それを見ていた祖母が私にこう言い放ったのだ。「かわいいねぇ。でもみこちゃん(私のこと)、所詮は犬畜生だからね」と。

いつ気が変わるかもわからないから用心しなければいけないよ、というもっともな助言だが、その時の私には衝撃的な言葉で、思い切り引いた。

苦瓜は完熟すると表面が黄色に変わるだけでなく、種の色も鮮やかな赤になる。身も蓋もない正論が苦瓜の種の赤をひときわ際立たせる。

人は自分を奏でて秋のコップかな  上田信治

虫は鳴くことで縄張り争いをし、メスを呼び寄せて子孫繁栄を実現する。思えば人間とて同じようなものである。人もそれぞれの考えをめぐらせながら自分を主張して生きている。持って生まれたものを駆使して、ひとりひとり死ぬまでの持ち時間を演奏しているようなものである。と、ちょっと大仰な鑑賞をしてみた。ともすれば説教臭くなりそうなところを、「秋のコップ」のカジュアルな物質感がさりげなく救っている。

ベランダがペリカンに似て秋の空  上田信治

ペリカンの特徴はなんといってもあの「のど袋」であろう。彼らはこれを網として使い、群れで協力して魚群を囲い込むのである。長いくちばしの下にたるんだこの大きな袋とペリカン本体との関係は、ちょうど家の端から外側に張り出したベランダと家屋との関係に似ていなくもない。

視覚的に腑に落ちる相似関係だが、言われなければ誰も気付かない発見である。高く澄んだ秋空がこの奇想天外な発見を導いてくれたに違いない。

ちなみに、のど袋にはエアコン機能もあるそうだ。夏の暑い時期に彼らはのど袋を盛んに揺らし、そこに通っている血管を流れる血液の温度を下げ、体全体の温度を下げているという。のど袋はペリカンのベランダでもある。

配線をこぼして秋の兜虫  恩田富太

日本の兜虫は基本的に越冬できず、夏に生まれ秋には死んでしまうという。成虫としての生涯は3カ月ほどらしい。この句の兜虫は作者の生活圏内で飼われているのだろう。角(オスであれば)でも引っかかったのだろうか。室内の配線コードをめちゃめちゃにしてしまったようである。

粗忽な兜虫の姿に間もなく終末を迎えるあわれさが一層色濃く浮きあがる。

鶏頭の何であらうと怒らない  恩田富太

鶏冠に似ていることからその名のついた鶏頭は、はっきり言って花には見えない。濃厚な花の色といい、花びらとは言い難いうねうねと連なる特殊な形(脳のようでもあり拳のようでもある)といい、香りは?といわれてもイメージの湧かないこの花は、花よりも寧ろ人間臭いと思う。鶏頭には人間の存在感に近いものがある。

がしかし、ここにそんな鶏頭にひたすら傾倒している人がいる。脳みそと言われようと、げんこつと言われようと、なんのその。鶏頭への愛は怒りを超越し、揺らぐことがないのだ。と、ここまで書いて、怒り心頭に発する、といった場合に「鶏冠に来た!」という表現がかつてあったことを思い出した。

ウエハースに鉄カルシウム小鳥来る  本多遊子

そう言えばウエハースをずっと食べていない。最後に食べたのはコロナ以前、ランチのデザートのアイスクリームに添えられていたウエハースだったろうか。各種クリームなどを挟んだものもあるけれど、このお菓子はみんなに日常的に食べられているとは思えない。それに、ウエハスではなくウエハースと辞書にもあるのに、ずっとウエハスと言っていたことにも少しうろたえる。どう見ても実の感じられない、儚げなウエハースに実は鉄分とカルシウムが含まれていることを、きっと多くの人は知っているのだろう。

遠くから長い旅をして飛んできた小鳥が元気そうに枝を飛び回っている。長期間の飛翔にも耐えうる、軽くて強い鳥の骨格にもふと思いが至った。

迷つたら人にすぐ訊く牛膝  本多遊子

季語からの連想で、道に迷ったときの対処法と読んだ。そんな時、私も人がいればすぐ訊く、作者と同タイプである。でも世の中にはいろいろな人がいて、そこに地元の人が立っていても、知らない人には断固として道を訊かない人間もいる。人に頼らず地図だけを手に目的地に到達する達成感には格別なものがあるのだろう。その満足感を多分一生知らぬまま、手近の人に訊きまくる。

だが一つ注意したいのは、ちゃんと知っている人(知っていそうに見える人)に訊くこと。そこを外すと、訊いた相手と一緒に困り果てることになる。
牛膝をたくさん付けて野山を歩きたくなった。


第741号 2021年7月4日 湊圭伍 あまがみ草紙 10句 ≫読む

第752号 2021年9月19日 上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む 

第756号 2021年10月17日 恩田富太 コンセント 10句 ≫読む

第757号 2021年10月24日 本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む

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