【句集を読む】
二〇世紀の成熟
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』
西原天気
『船団』第112号(2017年3月1日)より転載
若干の改稿
安田猛、七〇年代に活躍したヤクルト安田の投球を見ているような句集。あるいは、ザーサイのとびきり旨い港近くの中華料理店のような句集。
どのように喩えても喩えきれない。『なめらな世界の肉』の魅力は多面多層多様で、例えば、16音の後に切れて、1音の季語。
音楽で食べようなんて思ふな蚊 岡野泰輔(以下同)
「形式へのいたずら」ともいうべきこの句の趣向を面白がるだけでじゅうぶんに満足なのだが、ちょっと待てよ、この句、誰に向かって言っているのだろうと、あるときふと。
久しぶりに帰郷した息子・娘の折り入っての話に、父親が説教という図を一読想像したが、いや、そうではなくて、自分に向かって、と読むこともできる。過去のある決断のとき、みずからの夢と野心を抑え込んだ。そう読むと、この句の興趣はひと味違ったものになる。
あつたかもしれぬ未来に柚子をのせ
「人はひとつの人生しか生きられない」という事実は、残酷ではあっても、生きていくうえの縁(よすが)とするしかない。こんなはずではなかったと悔いてみても、「こんな現在」を受け入れるしかない。それが成熟というものだろう。
俳句の話から離れてしまっているようで、そうではない。句集を読むとは、作者に付き合うことだ。句の連なりをまとめて読むだけという態度ではいられない。魅力的な句集に出会うと、いやおうなく作者を、作者の来し方を見る、見つめたくなる。
菜の花や見張り塔から人が来る
朧夜やぼくらはみんな藁の犬
今をときめくボブ・ディランの楽曲というよりジミ・ヘンドリックスの歌と演奏に思いを馳せる「All Along the Watchtower」。そして、サム・ペキンパーの七一年作品。こうしてみると、サブカル以前・サブカル前夜の空気を吸ってきた作者像が浮かぶ。
真ん中が桃の匂ひの映画館
劇団の子の垢抜けぬ水着かな
こうした句にも「あの当時」感が濃い。街に数軒あるうちの一軒は素敵にいかがわしかったのは今むかし。劇団員はすでに二一世紀的に垢抜けている。
映画に素材をとった句はまだある。
名月やみなアメリカの夜めいて
トリュフォー七三年。昼間撮った絵をレンズの操作で夜に見せるアメリカ方式。そこに月? だいたいにして岡野さんのような作家が「名月」と大上段に切り込んだときはウソや虚やフマジメが隠されていると思うべきなのだ。
つちふるや映画のなかの映画美し
入れ子構造に設えられた俳句の虚実、『なめ肉』の虚実には、二〇世紀を生きた人の屈託がきわめてキュートなかたちで宿っている。
電車から見えるナイターらしき空
秋日濃し売り上げ順にホストの顔
都市生活のなにげない景色にもきちんと斜(はす)な視線が宿る。
冷房や「無題」が題の絵が並び
内装がしばらく見えて昼の火事
シニカルで酷薄。これはしかし、この世の重だるさをやわらかく受け止める、あるいは身をかわす、洗練の態度。
いちばんに顔の裸が恥づかしく
花冷えや脳の写真のはづかしく
脳とか顔とか、身体ヒエラルキーの上位にあるものこそが恥ずかしいとう自嘲。これもオトナの態度。
セーターの中の案外抱き重り
風呂吹や目を見て話されてもこまる
色恋にも含羞。私が女性なら、まちがいなく惚れてしまう。
と、まあ、愉しみどころが満載の『なめ肉』。ここには、ある男が、ある時空(ざっくりと二〇世紀後半)を暮らした固有の経験、そのなかで相応の成熟をとげた固有の歴史がある。
未来の読者が、これをどう読むかは知らないが、現在の読者たる私は、懐かしいような、それでいて(いや、それだから)親しく近しい世界を見せていただいた。その意味で、作者が隣にいるような句集。ひょっとしたら、とある日、とある映画館で、私は隣り合っていたかもしれません、この句集の作者と。
〔週刊俳句:過去記事〕
■世界のありどころ 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の最初のページを読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_65.html
〔俳句的日常:過去記事〕
■〈主婦〉の誕生、あるいは花柄のイコノロジー 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の一句
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/08/blog-post_23.html
■学校モノ俳句 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の3句
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/08/3.html
■組句:劇団員
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.html
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