【週刊俳句時評80】
"石田郷子ライン"余滴
上田信治
前編
後編
本欄で、先週、先々週、"石田郷子ライン"という、中原道夫さん発案になる用語を紹介し、それについて思うところを書きました。
……どうも「やっちゃった」感がある。確実に、問題提起の意味はあったと思うのですが、まだ、このまま終わりにしてはいけない、という感じがします。
予想通り、その用語は、たいへん流通性の高い言葉で、直接、間接に、いろいろ感想を頂戴しました。
そこで、いただいた感想にお答えするかたちで、あとすこし、この話(未練がましく)引っぱりたいと思います。
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ガーデニング的小宇宙系と勝手に命名していた〈石田郷子ライン
前編をupした日の、さる方(女性)のツイッターから(今回、匿名で行きます)。
「読者としては好きなタイプだと思う。反面、わたしにゃー書けないわ、とも思う」「杉山久子さんもそのラインだろうか。でも《荒凧の墜ちて地を刺すガガガガガ 杉山久子》みたいな句を読むと「ああ、あなたもガガガガガな人なんだな」となんとなく安らぐ」
と、そのつぶやきは続きます。「ガーデニング的小宇宙系」というのは、我が意を得たり。自分が「ニューエイジミュージックっぽい」と感じていたあたりのことか、と。
「前掲書(『戦後生まれの俳人たち』)の女性作家55人中22人。50代以下女性に限定すれば、33人中20人!」って言われるとその「ライン」に入ってない「50代以下の女性」13人ってどんな感じなんだろう、と思う。
同じ方の、後編が出た日のつぶやきです。
その50代以下の入ってない方のお名前をあげますと、
神野紗希、水野真由美、如月真奈、田中亜美、永末恵子、森賀まり、対中いずみ、小林貴子、櫂未知子、山田径子、夏井いつき、照井翠、山根真矢、依光陽子、佐藤文香、相子智恵
あれ? 16名になります。すいません、数え間違えてました。36人中20人です。だいぶ、数字的に迫力がなくなりました。おわびします。
もっとも、あとから、森賀さん、対中さんは、作風はライン寄りかと思い直したので、それも入れて数え直せば、50代以下、36人中22人となります。ちょうど2/3。(ただ少し考え変わった部分あります)
せめて詩歌の中くらい田園に住みたいじゃないのサ、現実と戦う泥臭い句はもうお呼びじゃないのヨ、母親なんてくくりは脱ぎ捨てさせてチョーダイナ
これも、前編のあとの、さる方(女性)のツイート。たしかに「生活感がない」うんぬんは中原さんの個人的ないものねだり、そこは問題ではないように思います。
「ライン上とされる句の共通点は何か、ライン上にない句との違いは何か、あまりきちっと語られていないように思いました。」
こちらは、メールでいただいた感想です。痛いところ・・・。
なんとなく似たかんじの作家「たち」がいる、ということが、"ライン"という言い方のキモ(作家名が連なって"ライン"ですから)。同じことを、厳密に作品に即しては言い切れないところがあるのです。
「例にあがっていた作品同士あまり似ていないんじゃないか」という意見も聞きました。
うーん、そうか。
でも、やっぱり、ふわっと印象で似てませんか。「驚かせない」(しばしば常識的・良識的)こと、「すんなりよく出来ている」こと、「フェミニン」っていうこと、とか。
「石田郷子ライン(この呼び方はさておき)私もかなり前から気になって仕方なく…ちょっとだけ(かなり?)スッキリしました。あとどうも引っ掛かるのが、ツガワエリコ現象ですかねぇ」
これもメールでいただいた感想。ツガワさんのことなんか言ってません、自分はw
しかし、津川絵理子さんは、片山由美子さん、櫂未知子さんといった現俳壇のオピニオンリーダーから、つねに最大級の賛辞をもって評されています。いまの俳句の価値観のど真ん中にいる作家であることは間違いない。
その「価値観」が、たぶん、"ライン"と呼ばれる現象を作ってもいる。
「"石田郷子ライン"って「4T」じゃない女性作家っていうかんじ」
別の方から、酒席でうかがった感想です。なるほど、特に、橋本多佳子や三橋鷹女からの距離を、"石田郷子ライン"の作家には感じます。
「情念」系ではない、「女流」という言葉が似合わない、「男」から見た「女」ではないという感じでしょうか。
そういう意味では、後編であげた、男性で"石田郷子ライン"という方たちは「ひなまつりに呼んでもらえる系男子」という感じがしますね(まったく悪い意味ではなく)。
「三代目っていうことがあると思う」
さる作家から。
"ライン"の作家には、結社の優等生というイメージがある。だから、その人たちが互いに似ているとしたら、その上の世代の責任があるのではないか、ということでしょうか。なるほど。
ジャンルに関わるメンバーに分け持たれている価値観が、ある方向へ洗練される一方で、やせている……そういうことが言えるのかもしれない。これは、われわれ全員の課題でしょう。
同じ人から「石田郷子さんは、"石田郷子ライン"に入らないんじゃないかな」とも。
ああ。うーん。
ああいう書き方をしたら、自分が、そこに入れられたら嫌だし、いいと思う作家が入れられてたら、救いたくなりますよね。
やっちゃった感というのは、そこです。
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で、自分がけっきょく思ったこと、というのを書きます。
1)その作風について。女性、等身大、明るくさっぱり、といえば、細見綾子、あるいは星野立子にさかのぼれる。
そら豆はまことに青き味したり 細見綾子
チューリップ喜びだけを待つてゐる
つばめ〳〵泥が好きなるつばめかな
しん〳〵と寒さがたのし歩みゆく 星野立子
誰もみなコーヒーが好き花曇
たんぽぽの皆上向きて正午なり
うん、完全に"石田郷子ライン"ですねw
たしかに、ここには「驚き」がある。明治生まれで、こう書くには、たぶん相当な天才性がいる。その初発性の記憶のようなもの、あっけらかんとした腕力のようなものが今も生きている。
今見ても新鮮なのだから、こういった作風の生産性は、もちろん、まだ十分にあると思います。作風自体はけっこうなものです。
しかし、もし。
綾子や立子と同じ腕力と気質を持った作者が、今いるとしたら、また別の、現在の俳句の風景に置いておどろくほど新鮮な書き方で、書いているに違いないと思われる。
2)「対概念としての“サトアヤ的なもの”とか」
後編を読まれた別の方のツイートです。そんなアングルにはのりませんよw (アングルはプロレス用語で、抗争等の設定のこと)
上のツイートは
「週ハイ上田さんの記事、いろいろ防御線張ってあるね(笑)。ちょっと新しいパラダイム設定を加熱したはずなのに、すでに終末感か漂っている印象をもっちゃう」上田「その"ライン"という言い方の、たちの悪い部分を警戒したい。いっぽうで、概念としては、勝手に流通して「効いて」くれるかな、と」「上田さんの意図はわかりますよ。マッチポンプといいつつ、もう一つ二つ隠し球あるんじゃないの?とか勝手に思ってます(笑)」上田「ああ、俳句甲子園とかw」
という、自分とのやりとりに続くものでした。
そういえば、たとえば福田若之さんが、俳句甲子園常勝と言われる開成高校の出身で、卒業してから現在のような書き方をされるようになったということなどは、ちょっと象徴的な気がします。
3)"石田郷子ライン"という言葉にふくまれる悪気(わるぎ)について。
中原さんは、はっきりとではなくても、ある一群の作家を認めたくない(それに対抗する)ということを言っている。
そういう言葉を、自分が、作家に対する評価を含まない用語であるかのように扱ったことには、無理がありました。
やはり誰かを指して"石田郷子ライン"と言えば、ディスりになってしまいますよね。その悪気は脱臭できない。粗雑でした。
自分の意図として、その言い方と個々の作品の評価は別というのは本当です。また作品の傾向として近いとみなしうることについても、訂正の必要は感じないのですが、「悪気」ベースのキーワードの元に、名前を並べてしまった作家の方たちには、申し訳ないことでした。
あやまって終わるというのも、なんとも景気が悪いのですが、今回は以上です。
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2013-04-28
【週刊俳句時評80】 "石田郷子ライン"余滴 上田信治
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