2015-04-26

今井杏太郎を読む9 句集『海鳴り星』(1) 小川楓子×茅根知子×鴇田智哉×生駒大祐

今井杏太郎を読む9
句集『海鳴り星』(1) 

                                                                              
小川楓子:楓子×茅根知子:知子×鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐

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『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬
 『通草葛』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬

◆水のなかで揺らいでいるような◆

編集部●では、はじめます。今回から読むのは第3句集の『海鳴り星』です。「魚座」創刊後の最初の句集になりますね。

この句集は小川楓子さんをゲストにお招きして、一緒に読んでいきたいと思います。楓子さん、よろしくお願い致します。まず、気になった1句からお願いできますでしょうか。

楓子よろしくお願い致します。私がいいな、と思ったのは

はくれんの花のまはりの夜が明けぬ

です。

じつはこれまで今井杏太郎さんの句集を読んだことがなかったのですが、この句集を1冊読み通して、水に満たされて1句が立っているような、そんな感じを受けました。その姿は棒立ちではない。棒立ちならば硬直しますが、循環していたり、少し揺らいだりすることでいつでも動き出せる一句、という印象があります。

この句は切れもないし、すっと立っているのみであるからこそ、満たされた水が少し揺らぎ、明け方の暗く青みがかった辺りに、はくれんの花の白さがふわっと伝わってゆく感じがします。「はくれん」も「まはり」もひらがなに開かれていて、時間の流れがゆっくりとなる。その、じんわりと伝わってゆく感じがいいなあと思いました。

大祐意味の伝達のスピードと景そのもののスピードは実際は違うのですが、この句では、夜の明けてゆくスピードに句の読解のスピードを寄り添わせたような感じがありますね。それから、この句は「あ」行の頭韻がとても響くので、全体として明るい印象があります。

技術的なことを言えば、「花のまはりの夜が明け」るというのは、かなりテクニカルな表現だと思います。

楓子はくれんの花はランプシェードが逆さになったような形で、あの形自体白く灯るような印象があります。例えばたんぽぽの花のまわりとは違って、とても効果的な感じがしました。

知子この句にあるもどかしさのようなものが、夜の明けるスピードなのかな、という感じもしますね。「はくれん」というだけで花と分かるのに、さらに「花」と言って、しかも「まはり」と言っています。どれだけ手が届かないものなのか、というもどかしさがあって、でも一読すると、楓子さんがおっしゃったように、確かにはくれんの花が白く浮きあがってくる感じがします。それは偶然ではなくて、やはりテクニックなんでしょうね。

智哉「はくれんの」と言ったあとに、「花の」と一度延ばして、「まはりの」でさらに延ばして、そこまでの段階でわりにはくれんの白さに広がりが出てくる。そこに「夜が明けぬ」だから、ああ、明るくなっているんだな、と分かる。「まはりの」までは空間のことを言っていたはずなのに、「夜が明けぬ」としたことで時間へと繋がっていくんですね。

大祐この句は杏太郎さんの句の中ではムードのある句というか、雰囲気としては少し甘いところもある句だと思うのですが、選者としての杏太郎さんは、そういう句についてどう思われていたのでしょうか。即物的な句をとられたのか、それとも、韻律や調べを重視されたのか、なにを重視されていたのでしょうか。

知子リズムや調べのことはいつも言っていましたね。ただ、選をするときは、即物的な句もとっていたし、こういうムードのある句もとっていました。選は広かったと思います。ただ、「まずは調べだよ」というのはよく言われました。

智哉読者の方には、「はくれん」というものに対する一定のイメージがすでにあるから、そのイメージを借りている句ではあると思います。

大祐杏太郎さんは、基本的に、具体性の強い言葉はあまり使われないので、楓子さんが言われたような、水の中に立っているようなふわふわした感じは、具体性のないところから来ているのかな、という感じがします。この句も具体的には何も言っていなくて、ただ「はくれんの花があって夜が明けた」ということを、読者のイメージを借りて読ませています。

ふだん杏太郎さんの読者ではない方が、そのあたりの感じをどう思うのか、ということが、気になっていました。

編集部●具体性のなさは、本当に特徴的ですね。大祐さん、気になった句はありますか?


◆「種袋」とは何なのか◆

大祐はい。

まずこの句集の印象についてお話しすると、杏太郎さんの方法論がかなり確立されてきていると思います。ただ、第5句集の『風の吹くころ』になるとその方法論のみが前面に出て、句の骨組みが見えるようなつくりになっているのですが、この『海鳴り星』の、特に春の部では、不思議な叙情性のようなものが出てきています。例えば〈北窓をひらく誰かに会ふやうに〉とか〈紅梅にきのふの冷たさがありぬ〉などは叙情性がにじみ出ていて、この句集は好きですね。

そのなかで、僕がいいと思った句は

花種の袋に花の絵がありぬ

です。この句だけを読むと「ただごと俳句」なのですが、句集の流れの中に置かれると華やかさが目立って、単純な「ただごと俳句」というのではない面白味が感じられます。

何の花か書いていない、というのがいいですね。情報量は非常に少ないのですが見えてくるものがあるというところが、俳句らしい句と言えるかな、と思います。

智哉「花種の袋に」と言われると、下にいったい何が来るんだろう、と興味をひかれます。自分が俳句作家であるということもありますが、俳句を読むときって、そういった興味をもって読みますよね。「花種の袋に」のあとに、何か意表を突くおもしろいものが来てほしいな、という期待が生じ、その先を読み進めるわけです。

すると、「花の絵がありぬ」とある。これは当たり前のことのようですが、「あ、そうきたか」という意外さと、はぐらかされた楽しさがあります。付きすぎているところに、或る「ずらし」が生じているんですね。

「北窓」の句でも、「誰かに会ふやうに」とさりげない感じでついていますが、じつは北窓は「誰かに会うために」開くわけではないので、付いているようでずらされている、というところはあります。

知子ふつうの人が見たら当たり前のことなのですが、俳句的な予定調和をずらしている、ということなんでしょうか。

智哉先ほど生駒くんが「何の花か書いていない」と言ったけれど、そもそも歳時記に載っている「花種」という言葉が指し表しているのは、いったい何の花の種なのか、そういったところに考えが及ぶ言葉で、できている句だと思います。

大祐むずかしいのは、「俳句らしくない俳句しか作れない」状態から「俳句らしい俳句を作れる」状態に遷移して、さらにまた元の場所に帰って行くと、その帰っていった地点は最初の地点と同じなのか違うのか、ということです。ただ下手になっただけというのでは困るのですが、杏太郎さんの場合は、調べや韻律が身についているので、発想という観点で「俳句らしくない」地点に戻って来ていて、それを俳句らしく成立させるのを言葉のテクニックで行っている、という感じがします。

楓子花種、花の絵と重ねることで、かえって花の不在を感じます。「絵がありぬ」と来て「あ、花はないんだな」と。

智哉その場には花は現れていないんですね。まさに「種袋」しかない。じゃあ、「種袋」って何でしょう、ということです。「北窓」などはもっとそれが分かりやすくて、実際に北側に窓がある場合もあるけれど、季語としての象徴的な意味合いが含まれているから、「誰かに会ふやうに」という、わりに具体的な生活を連想させる言葉がつくとうまくいくんですね。

大祐「誰かに会ふやうに」というのは、表現として詩的であるようでいて、じつは「北窓を開くってそういうことだよね」と言っている句だと思います。けれど「花種の袋」の場合は「振ったら種の音がした」というような、「花種の袋」の本意はむしろそこにあるのであって、「花の絵がある」というのは本意ではないと思うんです。

日常的な感覚とは一致しているけれど、本意とはズレがある。杏太郎さんの場合、本意とは少しずれているけれど、いかにもその季語らしいところを詠む、というところがあるのかな、と思います。


◆イメージの広がり、意味の解体◆

編集部●知子さん、いかがですか?

知子さきほど「はくれん」の句がありましたが、白のイメージということでいうと、

春の夜の銀座に白い絵がかかり

これも、春の夜でなくてもいい、銀座でなくてもいいと言われてしまうと身も蓋もないし、「花種」の句と同じように「白い絵」と言っているだけで、誰の絵ともどんな絵とも言っていません。杏太郎は銀座が好きでしたので、それで詠んだのでしょうが、春の夜の朧といいますか、上手く言えないのですが、やはりこれは「白い絵」でなくてはならないと思うんです。こういう句はどう思われますか?

大祐面白い句ですよね。「銀座に絵がかかる」と言われるととても豪華な感じがするのですが、「白い絵」とすることによって、「絵」ではなくて「春」の方にピントが合っているような気がします。春の夜を描写することに白い絵が象徴的に効果をもたらしているんです。「白い絵」は比喩とも読めますが、あえて実景と読みたいですね。

こういう象徴性は、それまでの杏太郎さんの句にはそんなに目立たなかったような気がするのですが、最初に申し上げたようなこの句集の叙情性に近づいてゆくのは、そういうところなのかな、と思いました。

この「白い絵」というのは、キャンバスはもともと白いものですから、使われている絵の具が少ない、白っぽい絵ということでしょうか。

楓子この場合はわかりませんが、ほんとに白しか使わない絵ってあるんですよね。この間、まったくの白い絵があって。遠くから見るとただのキャンバスにしか見えないのですが、近づくと筆のタッチが見えるんです。美術を専門にしている友だちに「この絵はどういう絵なのか」と訊いたら、「白というのは始まり、起点という意味がある。白くて何も見えないようだけれど、筆のタッチに意匠があり、見えないけれどあるんだ」と言っていました。この句を読んで、そのことを思い出しました。

智哉銀座という街は、住んでいる場所ではなくて、出かけてくる場所ですよね。それで華やかなイメージがあります。浮き立った気分がある。でも、「白い絵」には逆にちょっと怖いイメージがある。銀座に来て、華やかで、ちょっと浮き立ってはいるのだけれど、細い道に入って画廊には、「白い絵」があった。そこに、ちょっとした愁いのようなものを感じます。

知子ぼんやりぽっと灯ったような感じがしたんです。

智哉ちょっと遠くから絵を見ていますよね。だから、実際何が描かれているかが分からない。遠くからというのは、距離のような気もするし、あるいは意識かもしれない。もし距離的に近くにいたとしても、絵を見ているようで見ていないような、絵が白く発光していて見えないような気分なのかもしれないですね。

大祐全体的にイメージが繋がっている感じはありますね。

智哉この句、「かかる」だと全然良くないですよね。

知子そうですね。「かかり」とふわっと流す感じだからいいんですね。そのへんは巧いですね。

そういえば、あまりにもきっちりとつくると、ここはもう少しゆるくした方がいい、と直されたことはありました。それも「調べ」に対するこだわりかもしれません。

大祐「かかる」だと動作が完結しますが、「かかり」だと時間感覚が長いです。この句に関しては、その長さ、続いてゆく感じを書きたかったのかもしれませんね。

編集部●智哉さん、気になった句はありますか?

智哉はい。

耕され掘り返さるる畑かな

です。この句は畑が主役なんですよね。或る年の春の、或る畑の景色を詠んでいるのですが、毎年毎年、春を繰り返して、その場所に同じ畑が昔からずっとあり続けている、というニュアンスも入っています。

「耕す」というのは春の季語としてあって、当然、能動態の動詞として使う場合は人間が主語となるのですが、それを受身形にして畑を主語にしたところは、案外おもしろいのではないかと思います。

畑を主語にした効果もあって、この句は、畑というのが動かないものだという感じが、よく出ています。ずっと昔から同じ畑が同じ畑としてそこにあり続けている。そう考えていくと、いったい「畑」って何だ、ということになってきます。「畑」は「土」のことではないですよね。土が耕され掘り返されることによって「畑」というものになってゆくわけです。しかも「耕され」て「掘り返さるる」と言っている。耕すことは掘り返すこととは違うんでしょうか、同じなんでしょうか。ここはレトリックなのですが、似た内容の言葉をこうわざわざ言い換えて使うことによって、その背景にある人間的な営み、文化的な営みを感じさせます。構造としても面白い句だと思います。

大祐「耕す」という言葉を引き伸ばしているのですが、ふつうはそういう場合だと主役は人間になることが多いのですが、主役は「畑」なんですよね。そこがとても面白いです。

知子この句をひっくり返して下から読むと、畑というのは耕されて掘り返されるものだよ、と言っていて、「耕し」というと人が主人公になって労働の句になることが多い印象がありますが、この句は畑の気持ちのように読まれているんですね。「かな」で終わるところも面白いです。

楓子「耕され」は少し遠くで見ている感じですが、「掘り返さるる」は近いところで見ている雰囲気で、土の様子が近くに見えるような感じがします。

大祐なるほど。ズームしている感じでしょうか。

知子畑を見てなかなかこういうふうにはつくらないですよね。畑に「かな」をつけるのは、いかにも杏太郎らしいと思います。畑なんかに、と言ってはいけませんが、畑に対する詠嘆が面白いです。

智哉この句も、言葉を解体して行っている感じがありますね。ここまでシンプルな表現には、なかなかできないです。


◆目を閉じないと見えてこない◆

知子みなさんに

老人のあそびに春の睡りあり

という句について訊いてみたいことがあります。
仁平勝さんが「魚座」にいらしたとき、句会で〈老人を起して春の遊びせむ〉という句を出しました。これは杏太郎のこの句がもとになっているということでした。勝さんとって、印象深い句なんだと思います。確かに「老人」「あそび」「睡り」といった杏太郎ワードが入っていますが、代表句になるのかなとか、どのあたりのポジションなんでしょう。

智哉僕の感想を言うとすると、この句はあまり好きではなくて、どちらかというとさきほどの「耕され」のような句の方が好きです。
〈老人のあそびに春の睡りあり〉というと、表面上、人生論的な定義づけに見えますよね。もちろん、この句の「老人」というものをある純化されたイメージ上の老人である、ととらえていくと、違うのかもしれません。杏太郎のある種の「老人」の句には、そういうものが存在します。でも、この句の場合はそうでなくても読めてしまう、人生論的に読めてしまう、という印象が僕には強い。ちょっと、そこが気になります。

大祐杏太郎さんの句をたくさん読んでいくと、あるイメージがわりに反復して出てきますよね。この句が「1句上げるとするとこの句」という句だというのは分かるのですが、この1句自体に杏太郎さんの句として突出した何かがあるかと言われるとそうではなくて、ふわっと広がっているものがひとつの句としてこの句に表れてきている、という感じがします。

智哉わかりやすい句なので、意味で解釈しようとするとできてしまう句です。ただ、そのように解釈された上でのこの句を代表句としてしまうと、そこから全体を解釈しやすくなってしまう部分があるので、それはどうなのだろうか、と思っています。この句を意味で解釈し、その物差しの上で杏太郎の句の全体を見わたすことになると、つまらないことになってしまうような気がするんです。

もちろん、杏太郎は『麥稈帽子』の頃からずっと「老人」が題材だったから、この句は、本人にとってはひとつの到達点と思っていたかもしれませんが。

知子杏太郎にとって「名刺」のような句になっているのでしょうか。

智哉自分が老人になってきている気がしますね。句の中のイメージの老人と、具体的に存在している自分とが重なってきている。それが昔の句とは違う。昔の『麥稈帽子』の頃の〈老人に会うて涼しくなりにけり〉などの句は、本人は老人ではないですから。この句は好きですよ。老人が純化されているから。

楓子老人のいわばしたたかさのようなものを童心で包んだような雰囲気があって、それに反応するかしないか、という感じなのかなあ、と思います。

智哉「春の睡り」って何だ、と考えたとき、たぶん、それは「老人だ」と思ったんでしょうね。

編集部●ほかに気になった句はありませんか?

楓子

てふてふの生れて空に浮きにけり

が気になりました。私は兜太の〈涙なし蝶かんかんと触れ合いて〉で育っているので、「あ、この人の蝶は浮くんだ」と思って。(笑)すごくびっくりしました。

金子兜太はものを硬質に捉えてきたと思うんです。だから、蝶であってもその存在感で勝負してきた。でも杏太郎さんは、蝶が生まれて、もちろん足は動いて羽ばたいているんだけれど「浮いている」と言う。

先ほどの話に戻ってしまいますが、羽ばたいているのではなく、水の中で蝶々がたゆたっているような感じ、その世界が面白いなあと思いました。

少しうしろに〈ゆふかぜの先にうかんで雀の子〉という句もあります。雀は浮かない、というか、浮きあがるためには必ず羽ばたいているはずなのですが、浮かんでいると言っています。それに「ゆふかぜの先」ってどこなんでしょうか。とても抽象化されているんですよね。面白いと思います。

知子杏太郎の句はいろんなものが浮くんですよね。(笑)

大祐「飛ぶ」とか「羽ばたく」とか、生命感のある方へ行くというよりは、ふわっと浮かんで「ああ、そういうものだね」という感じがお好きだったんでしょうか。

「てふてふの生れて」の句はじつはいろいろツッコミ所があって、この「生れる」は卵から生まれるときのことではなく、「羽化」のことですよね。

智哉「生れて」で切れて、そのあとがすごく長いのも面白い。「空に」ではなくてもいいわけですし。ただただ引き伸ばしているので、ふと立ち止まると、「あれ、どういうこと?」という感じになります。

大祐回路に入るとさらっと読んでしまうのですが、一旦立ち止まると「あれ?」となるところがあります。

智哉「生れて」までのところと、「空に」以降では感覚的なスケールが違うんですよね。物差しが変っているんだけど、あたかも変わり目が無かったかのように、表面上スムーズに言葉が繋がれている。

楓子「ゆふかぜの先」もすごく遠いところのはずなのに、それが雀の、しかも子どもだというところまで認識できているのは不思議です。(笑)

智哉どこかで目を閉じないと見えてこない。

楓子心のなかでそれが見えるのがすごくいいな、と思います。

編集部●では、今回はこのへんで。



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