2015-05-24

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(5) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (5)
今井 聖

 「街」99号より転載

冬晴れのとある駅より印度人 
飯田龍太『涼夜』(1977)


なんだこりゃ。

 フユバレノトアルエキヨリインドジン

龍太57歳の時の句。端正にして品格ある作風の氏にしては風変わりな句として有名である。有名ゆえにいまさらナンダコリャ句に挙げられてもと思う方もいるかも知れない。

だいたいインド人という断定が可笑しい。

たとえターバンを巻いていたとしてもインド人とは限らない。イスラム諸国ならどこも可能性はある。白人をみて国を特定するのと同じである。

さらに「とある駅」がどこの駅かがわからないから駅舎などの風景を想像してみようがない。インド人ふうの人が歩いている図を想像できても背景を設定してみようがないのである。

この句ではっきりしているのはこの人が肌の色が黒いというか褐色系の人(アフリカ系の風貌ではないと思われる)であることと、背景としては冬晴れの青空。それだけである。

龍太の動向に詳しい人ならこの「とある駅」がどこか特定できるのかも知れぬがそんなことは作品の冷静な評価に関ることではない。「とある」はあくまで「とある」である。

筑紫磐井さんの著書『飯田龍太の彼方へ』によるとこの句、龍太自身が『涼夜』の中の代表句数句の中に入れているらしい。しかしだからといってこの句、同じ句集の中の

凍雲に湧きて微塵の山鴉
梅漬の種が真つ赤ぞ甲斐の冬
鳥帰るこんにやく村の夕空を
ふるきよきころのいろして冬すみれ

などの秀句と伍するほどの作品には見えない。

誰かに取り上げられているうちに有名な句になるということも多々あることである。そういう作品を本人が自選句とすることに異議をはさむつもりはない。

この句がどうして有名になったか。

僕の記憶にあるのはこの句の制作年代からいって、当時の高柳重信さん編集の「俳句研究」誌が大きな役割を担ったような気がする。当時から最大の俳句商業誌である角川書店の「俳句」の方はエッセイふうのものは別にして相対的に俳句に関する評論は少なかったのである。

重信さんは俳句に詩的言語としての認識をもちこむことに腐心してその意図に沿った編集をされていたので、例えば、龍太の「一月の川一月の谷の中」もキャンペーンのように子飼いの書き手に書かせて有名な句に仕立てた。

「写生」や「諷詠」の内実は「言葉」の側からみるとこういう構造になっているという啓蒙としてこの句を「利用」したのだ。見えるものを「写す」という手法が如何に前近代か、それを絵解きしてみせるのが重信さんの存在理由(レーゾンデートル)だったのだから。

他にも龍太作品としては「石垣に鏡の破片蚕飼村」なんかがモダニズムに触れているかのような重信さん好みの喧伝のされ方をしたように覚えている。

重信さんにとっては、「新しい読み方」を引き出し啓蒙するターゲットとして蛇笏・龍太と繫がる「伝統俳句の牙城」は格好の存在であった。モダニズムや言葉の側から鑑賞する。そういう意図で冬晴の句も無理矢理引っ張り出されたのではないか。

ならばこの句から学ぶべきところはないのか。

ある。

龍太作品が強引に「言葉派」の啓蒙の具として使われたことには不快感を禁じえないが、この句、龍太作品の本質を別の意味で表しているように思う。駅から歩いてくる「インド人」は、龍太の「現在」の視覚的現実を負っている。

甲斐の山村に在ってその自然を詠む龍太という「定説」は少し間違っているというのが僕の意見。自然を詠むというところは自己の日常身辺を詠むというふうに認識を改めるべきだ。

氏は季語を第一義に置く本意諷詠派でもない。僕は「飯田龍太」が花鳥諷詠の俳人であると思ったことは一度もない。

龍太は視覚的現実を中心として自己の日常を写し取る手法の俳人である。

子規の唱えた「写生」」が示すところは花鳥風月の情趣を詠むということではなく自己の五感を通して得られたものを描写すること。龍太作品からもそのことを強く感じる。龍太が仮に都市部に住んでいたら都市の現実を詠う俳句を作ったであろうと思われる

この句はそのことをはっきりと告げている。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



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