2015-05-24

【句集を読む】あなたへの手紙 佐藤文香『君に目があり見開かれ』を読む 生駒大祐

【句集を読む】
あなたへの手紙
佐藤文香『君に目があり見開かれ』を読む

生駒大祐


紫陽花は萼でそれらは言葉なり 文香

紫陽花の花のように見える部分は実は萼である、というのはよく言及されるトリビアです。

でも、この「花のように見える部分」を萼と呼ぶのはあくまで分類上の話であって、その「花のように見える部分」は萼とか花とかの分類と関係なく「美しいそれ」として存在していて。

極端に言えば「この美しいそれ」は紫陽花とかいう植物学的命名とは離れた世界にあっても依然として美しい。

それは、言葉が無力だとかモノの本質はだとかいう話に繋がっていくわけではなくて、

ただ当たり前のこととして言葉は言葉でしかない。

ある俳句が美しいとき、それは当然描かれた対象が美しいのではなく、その言葉がそのようなカタチでそこに存在してしまうこと自体が美しい。

言葉は人間のものですから、その人の使った言葉を愛することはその人を愛することに薄く繋がっている。

佐藤さんはきっと言葉を愛しているし、その言葉を身のうちに持っている人々のこともきっと愛している。



佐藤さんの句集を読んで、佐藤さんの感覚がほとんど言葉と同化してしまっているな、という瞬間を何度か感じました。

知らない町の吹雪の中は知っている 文香
ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふ 文香
冬木立しんじれば日のやはらかさ 文香

何かを感じるときって、言葉が先に来る場合と感覚が先に来る場合があって、

「好きだ」と言っているとだんだん本当に好きになってきたりとか、この言葉にならない感情をつい「好きだ」と表現してしまったり、まあいろいろあるわけなんですが、これらの俳句において言葉と景色、あるいは言葉と感情、それらは同時に、同じ大きさでそこに存在する。

それが、おそらく言葉として真に純粋だということだと思うのです。

秋風や模様の違ふ皿二つ 石鼎

この「皿二つ」って、多分同じ大きさをしていたんじゃないかなって。模様は違うんだけど、重ねてみるとぴったり合う。模様も同じで大きさも同じなら、まあ同じ皿ということになるんですが、違う皿なのに、同じ大きさ。それってすごい快感を人に感じさせる。この句の想起させる感覚が、さりげないカタチの言葉を追い抜いて、胸にくる。

逆に、

こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 智哉

なんかは、言葉が感覚を追い抜いて行っているような句で、「おなじこゑってなんだろう」という遅い感覚が働く前に言葉が終ってしまう。それが不思議な感じを催させる。

佐藤さんの俳句の場合、感覚と言葉が歩調を合わせている。言葉と同じ速度で感覚が体に入ってくる。繰り返しになりますが、書かれた意味とか具体物とかは、言葉とは住む世界が違う。僕らは、そこに住んでいるように思っているけれど、実はそうではない。意味とか具体物を上手く見えるのは、外側だからです。自分の内臓って見えないじゃないですか。



この句集になぜレンアイ句集と書かれているのか。それは売るための戦略するかもしれないし、俳句への愛だ、とか、言葉への愛だ、とか、単純に恋愛を想起させる句が多いからだとか、たぶんそれらは全部正しいのですが。

この句集の中の言葉たちが読まれることを希求しているからだ、というのが僕の考え方です。

手紙って、読まれなければ全く意味のないものじゃないですか。読まれて自分の思い通りになるとはもちろん限らないけれど、読んでくれたら何かが伝わるように書かれている。少なくとも、伝わることを祈りつつ綴られた言葉でできているのが、手紙です。そんな言葉たちが、この句集には書かれている。

手紙即愛の時代の燕かな 文香

だから、簡単に、あなたへの手紙だと思って読めばいいと思うんですよ、この句集は。

僕が伝えたかったのは多分それだけです。

では、また元気でお会いしましょう。

生駒拝

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