2015-07-19

静謐のダイナミズム 曾根毅句集『花修』を読む 小野裕三

静謐のダイナミズム
曾根毅句集『花修』を読む

小野裕三



俳句は静かな詩である。たぶん一般的な印象としてそう思われているのだと思うし、それは間違いでもない。俳句には時間を描けないといった議論を目にすることがあるが、それもつまりは静かな詩ということを意味している。このように、ある種の静謐さの中に特殊な美意識を見出すことは、いささかステロタイプではあるものの、それでも俳句が持っている本質的な何かを確実に言い当てている。

だが、静謐とは決して枯れた世界や活気を失った世界のことではない。世界が動かない時、それは実はある均衡の内にある。林檎が木からぽとりと落ちて、地面の上で止まる。しかし、林檎を木から落とした万有引力の力がなくなったわけではない。それはただ単に、林檎を下へと引く重力の力と、それに拮抗する地面を支える力がバランスとして釣り合っているだけだ。林檎に作用する力は消えたわけではなく、ただ均衡の中にあるので消えたように見えるだけなのだ。

曾根毅氏の句を読んでいると、そのような均衡のことを考える。例えば、次のような句。

少しずつ水に逆らい寒の鯉
夏の蝶沈む力を残したる


どちらの句も、美しい静謐を湛えている。しかしそれは今にも壊れてしまいそうな静謐でもあり、なぜならばその静謐はある均衡の一点として成り立っているからだ。その儚い均衡が崩れれば、そこには荒ぶる力が現れる。水の勢いが猛れば鯉は流され、強い風が吹けば蝶は吹き飛ぶ。もはやそこに静謐はない。

つまり、静謐とは力と力の均衡的なぶつかり合いにしか存在しない。そしてだとするなら、静謐とは要するにそのようなダイナミズムのことでもある。

滝おちてこの世のものとなりにけり
鰯雲大きく長く遊びおり


これらの句は、そのような意味で静謐でもあり、かつ雄大でダイナミックでもあるような、そんな一瞬の均衡的な世界を描き出している。

だが、それだけでもない。彼の句の真骨頂は、そのような均衡を描く中で、そこにおける微細な力のズレのようなものを捉えてくるところにある。この類稀れな才能には、感嘆する他はない。

ふと影を離れていたる鯉幟
水すまし言葉を覚えはじめけり


微妙な力のズレのようなもの。それは虚実皮膜とも言えるのかも知れないが、彼は虚と実のあわいにあるズレのようなものを、力と力の均衡から、つまり静謐に潜在的に宿るダイナミズムから捉えてくる。力の均衡の一瞬のズレのようなものを見逃さず、それを梃子のようにして現実という薄い皮をぴらりと剥がす。その隙間から覗くのは、まさに力が力としてその姿を生のままで表すような、そんなおぞましい場所でもある。

鶴二百三百五百戦争へ
五月雨や頭ひとつを持ち歩き
曇天や遠泳の首一列に
醒めてすぐ葦の長さを確かめる
次の間に手負いの鶴の気配あり


このように、奇妙な胸騒ぎを起こす句。それこそがまさに、静謐さの中にあるダイナミズムでもある。そしてそのように考えてくると、やはり気になるのはこの句だ。

燃え残るプルトニウムと傘の骨

福島の原発事故は、多くの俳人にとって心理的なトラウマのようになって残っていくものだと僕は思っている。なぜならあの事故は、俳句の根幹のようなもの、その本質に宿る芯のようなものを、深く傷つけ、さらには嘲笑うものであったからだ。おそらく曾根氏もまた、その事実にきわめて正確に反応しているのだと思う。力と力のバランスが静謐を作り、そこにこそ、美が宿る。原発事故とは、この世界を作り上げるそのような普遍的な力の原理を根本から否定するものでもあった。

もちろん、彼の俳句を安易な社会的スローガンに還元してしまうのもそれはそれで愚かしい行為だ。スローガンがあろうとなかろうと、読み手は次のような美しい句に心を打たれる。

引越しのたびに広がる砂丘かな

静謐に宿るダイナミズム。その精緻な法則から導かれてくる、身の震えるように美しい言葉を可能にした同時代の俳人がいることを、素直に喜びたいと思う。

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