2017-08-20

【週俳6月7月の俳句を読む】僕として ふけとしこ

【週俳6月7月の俳句を読む】
僕として

ふけとしこ


山頂の石蹴り蛙の目借りどき  高橋洋子

そんなに高い山ではない。山頂もちょっとした遊び場のようになっているのだろう。初めは何人かで石を蹴り合う遊びでもしているのだろうかと思った。が、季語が「蛙の目借りどき」と置かれたから、考え直した。それならば一人で所在ない様子の人物を思う方がいいのではないだろうかと。「こんな所で石なんか蹴ってみたって……」と、少なからずアンニュイ。「目借りどき」といいながら、限りなく春愁に近いそれだろうと思わせられる。


さるとりいばら夜を流れる水のあり  高橋洋子

調べがとても美しいこともあり、実に気持ちのいい素直な句に見える。が、「さるとりいばら」の別名が「山帰来」であることを思うと、何気なく読んでいいのだろうか、と考えさせられる。そして、水は必ず低い方へと流れるものであることも。
いや、深読みしては句が濁る。きれいな緑(棘は鋭い)とやさしい水音とを楽しむ方がいい。

さるとりいばらは晩秋に赤い実を付け、色が褪せにくく野趣もたっぷりなところから、ドライフラワーやリース等にして楽しむ人が多いが、ここでは浅緑の艶々した葉と小さな花とを指しているだろう。初夏の心地いい夜。


ぼろ夜の浴槽細長い画集  高橋洋子

この画集が縦に細長いのか、横に細長いのかが不明なのだが、浴槽から続きのイメージだと横に長い画集の方が自然だろうか。浴槽という所は色々なことを思う場所でもあり、ゆったりとしているが故に眠気まで襲ってくるところでもある。「おぼろ夜」がさらにゆったりとした時間をもたらす。女体を描いたそれでも思い出しているのだろうか。自分の裸身を重ね合わせているならそれもいい。そうなれば、浴槽そのものが画集のようにも思えてくる。


瓜畑めざめて目鼻搔き集む  竹岡一郎

瓜畑に目覚めたのは誰? 瓜そのものか、それとも「私」か?

瓜が目鼻をつけて現れたら、まさに瓜実顔の出来上がりとなるのだが。

「私」だとしたら顔のパーツが流れ出すほどに熟睡して、寝ぼけ眼で取り敢えず顔を作らなきゃ、という図になる。えーと、えーと、これで全部かな、などと。そういえばそんな絵があった。溶けてゆく顔の絵が……。

無事に各々が揃いますように。「私」が例えばコオロギなどであったとしても。


草いきれ固めて僕として立たす  竹岡一郎

実はこの句が一番好きだった。好きなのはいいとして、ではどう解釈しよう? まずあり得ない話である。どう集めても気体は気体だ。でも作者は言う。このむんむんたる草いきれを集めて固めれば必ず僕になるのだと。僕の実態とは何? 僕とはすでに実体を失っているものなの? それとも……僕が自分で草いきれを集めているのだろうか。すると、「僕」は僕のたとえばクローン? 替え玉作戦か? どんどん話が面白くなってくる。


怖づ怖づと征きひまはりに振り向かれ  竹岡一郎

まず、向日葵はこちらを振り向かせることがあっても、自分から振り向くような花ではない。にも拘わらず振り向かせている。あの花の首は硬い。花の多くは東を向くが、いずれにせよ、動きはしないだろう。「征き」もこの字で書かれると戦場へ駆り出されるような印象を持ってしまう。「怖づ怖づ」がここで最適かどうかはさておき、勇んで赴いているとは思えない。この向日葵は振り向いて励ましてくれているのだろうか。何かの象徴として登場させているのだろうか。この花に作者は何を言わせたいのだろう。理解し難くもあるが、強い花であるがゆえに、奥を探りたくなる。

「鬼征伐」などに駆り出されることがないように、と、祈るばかりである。


高橋洋子 ビー玉はすてる 10句 ≫読む
第535号
竹岡一郎 バチあたり兄さん 40句 ≫読む

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