【週俳12月の俳句を読む】
俳句の耐荷重
茅根知子
「俳句は作者の手を離れたら、読み手のもの=自由に鑑賞してよい」。これは、亡くなった師から教えてもらった言葉である。とはいえ、俳句は読み手の勝手な鑑賞や妄想に、いったいどれくらい耐えられるのだろう。
勘忍と言うて色足袋脱ぎにけり 岸本由香
ここで脱ぐ足袋は、色足袋でなければならない。着物を着ることに慣れていないころは、白の半襟に白足袋という教科書通りの着付けになる。そして着物が身体に馴染んでくると、少し襟を抜いたり、刺繍や色物の半襟にしたり、色足袋を履いたり、お洒落な着こなしをしてみたくなる。着こなしが熟したころ、女は色足袋を脱いで堪忍と言った。一連の妄想はここから始まる。
俳句は一句で鑑賞するときと、複数の作品群で鑑賞するときがあり、それぞれ違った読みになる。
色足袋を脱いで、
色足袋を脱いで、
次の間に鶴来てをりぬ夜の房事
鶴眠る紅絹の色なる夢を見て
鶴眠る紅絹の色なる夢を見て
と、頂に向かい、
雪晴や折鶴に息吹き込んで
書きなづむ一片の文しづり雪
山眠る着信音のいつまでも
で、心地よい脱力とともに頂から降りてくる。
俳句がストーリーになったときの面白さを堪能した。
冬蜂のよく死んでいる通学路 桐木知実
「よく」に注目した。たった2文字が気になってしょうがない。「死んでいる」だけだったら、その言葉を信じることができる。が、よく死んでいるなんて言われたら、それはもう法螺吹きって言いたくなる。たとえ本当だったとしても、よくってどういうこと? 何か変だよ、とツッコミたくなる。嘘じゃなくて、愛すべき法螺。嘘か法螺か本当か、確かめてみたくなった。
鴨なくやキリスト教の街宣車 桐木知実
俳句は、音(耳)と文字(目)のどちらで読むかによって解釈が異なることがある。掲句を目で読んで、それから音で聞いたら「鴨鳴く=かもなく」が「可もなく不可もなし」の意味に思えてしまった。それでも俳句の形として成り立ってしまうところが面白い。甚だ勝手な読みではあるが、毎年、街のクリスマスに辟易している者にとって、印象に残るお気に入りの俳句となった。
遠火事といふ祝祭に染まる空 滝川直広
どんな悲劇も、結局は当事者のものでしかない。遠い国の災害や自国の事件も、多くはテレビの中の出来事である。掲句もしかり。火事の当事者は悲しみと絶望のどん底にいる。けれど、作者は「といふ祝祭」と詠んだ。赤く染まる空を見て、図らずも、綺麗…と呟いてしまう。誰の心にも潜んでいる下衆な気持ち。それを意識することは悲しみであり、一方で、ゾワゾワと戸惑っている自分に安心する。
「パサージュの鯨」10句 福田若之
タイトルを見ると、作者の思い入れがあると想像する。が、そこには触れないでおこう。人の気持ちは分からないから。
10句を一気に読んだら、半世紀以上前の記憶が掘り起こされた。幼稚園時代 ― 日本の捕鯨が盛んだったころのある日、何故か先生が鯨の髭を持ってきた。一人ひとり順番に触らせてもらい、みんなが目を輝かせた。ねっとりとした手ざわり、粗い箒みたいな髭、少し甘い匂い、先生の声や教室内の騒ぎまでが、動画となって目の前に現れた。
句会で選句をするとき、その俳句に共感できることが1つの選句基準である。「パサージュの鯨」には、共感というより、昔むかし同じ体験をしたような懐かしさが溢れている。そして10頭の鯨によって、作者の意図とは関係なく、深く埋もれていた記憶が掘り起こされることになった。俳句の力は偉大である。
左右から別の音楽クリスマス 村田篠
街のクリスマスは喧噪である。掲句のポイントは「左右から」。まわりから聞こえる音楽は頭の中で混ざり合い、メロディーが分からなくなり、故に騒音となる。左右から聞こえる音楽は何とか聞き取れてしまうから、騒音よりも始末が悪い。左右から別の音楽を聞くことによって、頭が混乱するほどのクリスマスの喧噪が伝わってくる。
■滝川直広 書体 15句 ≫読む
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