2018-04-29

とおい文化祭 福田若之『自生地』を読む 竹岡一郎

とおい文化祭
福田若之自生地』を読む

竹岡一郎


「自生地」にある句で、句集出版以前に良く取り上げられて来た句は、例えば「歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて」「伝説のロックンロール! カンナの、黄!」「初詣に行こうよぶっ飛んで、いこう」「さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち」「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」だったりするのだが、これらの句についてはとても語る気がしない。こういう句を評するのは私の役目ではないと思う。この手の明るさや純真さは、私とはあまりに境涯が違い過ぎて、共感するのが辛いからだ。

冒頭でこれらを取り上げたのは、こんな大向こうに受けそうな陽性の句を作れる作者が、以降、拙論に取り上げるような句を作ったという、そのギャップが興味深いからだ。私などはむしろ次のような句に懐かしく共感する。

僕のほかに腐るものなく西日の部屋

自分だけが虚しく腐ってゆくように思えるのは、やはり西日の時刻がふさわしい。部屋も部屋が蔵する物も腐ってはいない。部屋は若者にふさわしく狭いだろう。物が無いだろう。色々なものが部屋に有れば、自分だけが腐るとは思わない。小川軽舟の「腕立伏ではどこにも行けぬ西日かな」と対比出来よう。福田の句では、「僕」は何もしないで腐るに任せているような観がある。これが中年以後なら焦って腕立て伏せでも試みるのだ。無為に腐るのを実感できるのは、若さという猶予ゆえで、実はその部屋と同じく、意外と腐ってはいない筈だ。

集中にある「教室でさんざん荒れてきたマフラー」「焼き芋を月を分け合うように割る」「盗み飲む牛乳は冷たいだろう」、この辺り、思春期の鬱々とした心情が良く言い留められていると思う。だが、マフラーは柔らかく、月は明るく焼き芋は暖かく、牛乳は喉に心地良いだろう。本人は鬱々と過ごしながらも、本人を取り囲む周囲は優しい。この優しい状況を読んで苛立ちを覚えるのは、私のやっかみに他ならないだろう。誠に大人げない。

みんなで胞子になって遊ぶ噴水のまぶしい夜だ

一見、夢幻の句である。河原枇杷男の「野遊びのふたりは雨の裔ならむ」を思い起こす。ここではみな胞子という始まりの形なのだが、何かが既に失われてしまった時間において浮遊している感がつきまとう。ここで遊んでいるみんな、作者も含めた皆が、予めばらばらに失われてしまったものであり、胞子からやり直す途中であるという解釈もある。

小鳥来る古新聞で窓拭いて

奇妙なレトロ感がある。この「古」という語は、新聞にだけではなく、窓にも窓を蔵している建物にも、もしかしたら拭いている状況にも掛かっているのではないか。舞台は高度成長期までに建った日本の民家あたりがしっくりくる。小学校の木造校舎なら、なお良い。「小鳥来る」という穏やかな陽だまりの時間が、そのような状況を思い起こさせる。ならば、ここにあるのは失われた時間である。その時間は、とっくに過去の出来事だけを記している、水を吸う他は無価値な古新聞に還元されるだろう。古新聞は、ある懐かしさを立ち上がらせる媒体として存在している。

パンツなくして沖遠く泳ぐのだ

かなり大変な事態にも拘らず、どこか余裕のある滑稽な景だ。山田耕司の「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」と藤田湘子の「愛されずして沖遠く泳ぐなり」が下敷きにあると思う。見ようによっては深刻な景であって、浜に人がいなくなるまでは泳ぎ続けなければならず、仮に溺れたらスッポンポンのまま打ち上げられなければならず、どうも夜が更けるまで、いや、夜が更けても花火やら恋人たちの睦言やらで、浜には人声が絶えそうもない。社会的動物としてせめてパンツだけは履いているという矜持を守るためだけに、当てもなく沖遠く泳がねばならぬ。「なくして」が「無くして」か「失くして」かで、句の解釈はまた違ってくるだろう。「無くして」が最初からの状態なら、これは蛮勇である。深刻なのは「失くして」の方だ。物を書く者の立場とは、むしろ「失くして」の方ではないか。

ここで「無くして」の方が、より決意が見えるかもしれぬと思い直す。パンツといえども文明人の夾雑物だ、と断ずることも可能だからだ。同時に「仏の大海は信を以って投入すべし」なる言葉も思う。泳ぎ切れるかどうかわからぬ大海に身を投じ、ひたすら沖を目指し続けなければ、遂に怯懦の内に一生を費やすかもしれぬ。それは俳句に於いても同じだ。

蔦は火だ傷の乳母車におよぶ

意味が取れない。だが、イメージは迫って来る。「蔦は火だ」と断定することにより、蔦の繁殖力、火のごとく広がってゆく有様は見えるだろう。消したと思っても消えていない火だ。蔦は紅葉しているのかもしれぬ。その赤さを「火」と表現したのかもしれぬ。ならば、「火」は「血」を内蔵しているか。蔦の動きは火であるが、その匂いは血のそれであろうか。それなら、次の「傷」の語へと連想は及ぶ。「傷の」とは「傷が」という意味だろう。傷が乳母車に及ぶ、とはどういうことか。或る不穏なイメージだけが立っている。心情だけが剝き出しにされている感じだ。蔦が触手のように、うねりつつ伸びゆくものである事と、乳母車との組み合わせから、「臍の緒」というイメージも成り立つ。この乳母車は恐らく空だろう。乗る者は非在であろう。

掲句は、言葉に多大な無理を強いている。言葉には多大な負荷がかかり、言葉は折れる寸前だ。「言葉に無理をさせるな」伝統結社である「鷹」で、耳に胼胝が出来るほど聞かされた戒めである。その有益性を幾度となく嚙みしめつつ、遂にその戒めにとどまることが出来ない。言葉に言葉以上の力を期待してしまうからだ。辞書に載っている一面的な意味を、言葉自身によって超えさせるために、言葉に多大な無理を強いてでも、その結果、言葉の意味が破壊されても。

くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。」という句が同集にある。温かいと思うのはくらげであり、痛いと感じるのもくらげである、と読んだ。くらげはほとんどが水で出来ているので、死ねば水に溶けてしまう。死体が残らない。霊的なものがぎりぎりに薄い物質の皮を被っているような存在だ。

「温かい」わけはないと思う。たとえくらげ同士が触れ合っていたとしても、くらげはその冷たさによって生存を維持している筈だ。そのふわふわした形状から「温かい」と見るのは勝手な思い込みであり、その自分の思い込みに作者がすぐ気付いたからこそ、「温かい」というプラスイメージの語の後に「痛い」というマイナスイメージの語が来る。「くらげくらげ」の後、一字空けの一呼吸があり、「触れ合って温かい。」と句点で切れる一思惟が提示され、間髪を入れずに「痛い。」と、断定のマイナスイメージを置く。くらげを見た時の作者の心の動きが一並びで示される。

福田若之が「くらげとは暗げなのだ。だから、海月とは書かずに水母と書く」とどこかで言っていたのを思い出す。その時、私が思ったこと。水母の対義語とは何だろうか。母性か。では、水母の同義語は。乳母車に非在のものか。その時、そこで考えるのを取り敢えず止めた。くらげに普段に触れる私は、取り敢えず止まった、その時のつんのめるような感じを思い出す。

乳母車に乗っている者は、非在者として意志を持つだろう。その執念の烈しさが「傷」として知覚され、「傷」は非在者が、その存在証明として乳母車に刻むものでもある。

幽霊の最後は橇が燃えている

これもまた意味が取れない、にも拘らず、心に妙に引っかかる。「幽霊の」の「の」は、切字に相当するのではないか。例えば「や」で切ってしまうと、たちまち幽霊が実体を持ち、視覚に捉えられてしまう。作者が描きたいのは人の形を取っている幽霊などではない。「最後は橇が燃えている」その情景そのものが幽霊である、と言いたいのではなかろうか。

いない姉は金魚に唄わない死なない

金魚はどこにいるのだろう。伝統的な読み方をするなら、金魚鉢の中に泳いでいる。金魚鉢はどこにあるか。夏の陽の入る部屋の中か、縁側にあるのだろう。姉は(恐らく最初から)いないし唄わない。が、死にもしない。この最後の「死なない」の語により、姉は不死の存在として具現し、金魚に絶えず唄い掛ける。姉の非在を確約するのが、金魚だ。非在の者の非在性を追求する内に、非在者は存在し始める。もともと生きて在ることが無いのだから死にもしない。

この姉は、作者の思慕の具現であろうが、それに留まらない。「姉」の暗示的意味を、スサノヲに対するアマテラスに重ね、或いは「おなり神」と重ね見ても良い。「妹の力」の変形であり、妹よりも絶対的なもの、より上位に立つものと観るなら、妹よりも遥かに手に負えない女性性と読める。その女性性が非在であるがゆえに不死であるとは、なんと厄介な、そして美味そうな呪いだろう。その呪いが、口には苦く腹には甘く唄われるさまを、観照する事も出来よう。

髭剃りさえもが石炭をがつがつがつがつ喰う

真っ白な息して君は今日も耳栓が抜けないと言う

やっていることは昨日と同じだが汗が凍りはじめた

どの枝も行き詰まる寒い夜です

唾がつめたい灰色している

これらを読んで思い出すのは橋本無道だ。「鼻をすすつていつしんに機械と呼吸が合つたままもう睫毛も動かさない」「やわはだの匂いも汗して夜はしんしんと平和な肉体への嗅覚」のような極度に長い句と「うごけば、寒い」「からだはうちわであおぐ」のような短すぎる句の間を行き来した無道は、心の動きに俳句形式を合わせたのだろう。掲句にもそれが見受けられる。無道とは違って、語られる情景に具体性はない。ある心情に、外界が形を合わせたと言うべきだろうか。

この五句、起こっている事が何一つ見えないにも拘らず、迫ってくる感がある。一句目の「さえも」「がつがつがつがつ」の焦燥感、二句目の「真っ白な」「抜けない」の閉塞感、三句目の「同じ」「「凍り」の遣る瀬無さ、四句目の枝の「行き詰まる」行く末、五句目の「灰色」の蟠りである。出来事の一部分の極端なクローズアップが行われているのだろう。

髭剃りが喰うのは髭だ。石炭は太古の植物の死体だ。では、作者の皮膚は地表であり、石炭は何らかの地殻変動によって皮膚を突き破って棘のように突出しているのか。硬い髭が剃り難く引っかかる様を「がつがつがつがつ」と表現したのかもしれない。

耳栓が抜けないのは絶えず轟音に曝されているせいだろうか。それとも聴覚過敏症なのだろうか。「君」は、音という音が脳に突き刺さる苦痛を抱えて、寒さの中で存在している。「真っ白な息」は「君」が痛めつけられた脳から吐き出す無言の呪いだろうか。

「昨日と同じだが」、なぜ「だが」なのだろう。なぜ「だから」ではないのだろう。だから汗は倦むことによって凍り始めたのではない。昨日と同じ行為が実は昨日と同じではないことに気づいたから凍り始めたのだ。やがて昨日と同じであったはずの行為も環境も、悉く見知らぬものと化してゆくだろう。汗は凍る事を完了し、全身の毛穴という毛穴を塞ぎ、人体の動作を滞らせ、一切の見知らぬものに取り囲まれたまま、昨日とは似ても似つかぬ時間に立ち尽くすことになるだろう。

濡れた指にも満たない冬の虹立つ

冬の虹はそもそもが色淡く、すぐ消えてしまう。ここでは虹の長さ大きさまでもが少ない。濡れた指は作者の指であろう。虹立つに至るまでの雨に濡れたのか。或る憂愁に濡れていると読むことも出来る。「立つ」は実は、指にも掛かっていて、立たせた指の向こうに虹が立つ。指よりも小さな虹に己が指を通じて感情移入する作者である。ここで作者はいわば「等身大の遥かなもの」に心を馳せる。同じ表現を用いているのが次の句であろう。

草笛の音が草笛から遠い

高野素十は「雁の声のしばらく空に満ち」と詠った。素十の句においては、雁は既に声を置き去りに、遥かへと消えている。非在ぎりぎりのものだけが空に満ちている。

掲句においては、草笛の音が草笛を離れてゆく。草笛を鳴らすのは自らの呼気だ。草笛の音とは、自分の呼気の変化した響きだ。作者の呼気が口を離れて、高い音として遠ざかってゆく。もうずいぶん遠い。耳は、己が呼気の残留を未だに追っている。

てざわりがあじさいをばらばらに知る

触感的な写生句だろう。紫陽花を手触りだけで知ろうとすれば、遠目には単一のように思われた花が、触れば触るほどバラバラな花の集まりだと実感される。山口優夢の「あぢさゐはすべて残像ではないか」を思い出す。優夢の句は、視覚に依る七変化の色の移り変わりを残像と見る。掲句では手触りに依る七変化が表現されている。

肉を得たことば蛆の口が動く

蛆が喰うのは死肉だけだ。壊死した部分だけを取り除くために無菌蛆を使った療法がある位だ。だからここで「肉」の前に省略されている語は「死」である。

言葉は肉化するかもしれぬが、その瞬間、肉は死んでいる。小川軽舟の「季語は作者自身である」に沿うなら、作者は自らを蛆と見なしているのであり、それは言葉という言葉が、生の実感を伴って現れないという認識ゆえの卑下である。

読みながす数億行の春の雨

飯田龍太は「雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし」と詠った。龍太のしっとりとした情感と比べて、この心情はドライである。雨の方が雪よりも速いから、そうならざるを得ないのだ。ここで龍太の世代と福田の世代の、時間の速度の違いを観ることが出来る。「いくたびも読む文」と「読みながす数億行」は情報量の違いでもある。手書きの手紙と、画面を高速で流れてゆく活字の違いでもあるのだ。龍太における雪は言葉をじっくりと重くしてゆく役割があるのに対し、福田における春の軽い明るい雨は、言葉を言葉で以って押し流してゆき、言葉を非在へと薄めてゆく役割を担う。

ぐにゃりからつばめになったものが棲む

「ぐにゃり」とは燕の孵化したばかりの状態であろう。或いは卵の中で分裂してゆく細胞の状態かもしれぬ。燕の霊性がまだ肉を得ない段階か。「ぐにゃり」とは燕という個体がまだ燕とは呼べない段階の謂であり、それは燕かもしれないが燕以外のものかもしれず、生物でないかもしれない。言葉によって規定される以前の状態を仮に「ぐにゃり」と指してみた。裏返せば、作者自身が、作者の周りの者達が「ぐにゃり」でなかった保証など有るだろうか。私たちがぐにゃりで有ったとき、どこに棲んでいたのだろうか、そして今はどこに棲んでいるのか。

この「ぐにゃり」の使い方は、一見乱暴に写生を諦めたように見える。言葉の最大公約数的な意味への忠実さよりも、自身の個人的な感覚への忠実さを選んだのだと思う。例えば、次の二句と比較してみる。

月夜の地球儀拭けば消えそうな島々

涼しげな帽子ずらして「ばか」と言う

一読明快だ。月光の霞むさまが、地球儀上の小さな島々に反映する。「涼し」と「帽子」と「ずらす」の組合せは、帽子のつばの広さのみならず、女の指の動き、涼しい姿態、「ばか」という口調までも浮かび上がらせる。伝統結社の句会に出しても好評だろう。

対して、次の二句、

探し当てたように向日葵の道だ

搔き抱かれてざらつきになっている

このわかりにくさ、言い換えれば、言葉の最大公約数的でない使い方。

向日葵は道の両側に立ち並ぶと読みたいが、その様を「探し当てたように」と表現する。向日葵の花が光に属する事、作者が自身を暗いと感じているであろう事、自身が光を求めているという自覚、その三つの認識が「探し当てた」なる比喩となって結実する。この言い留め方をするまでにかなりの彷徨をしたのではないかと思わせるのは「道」の一語ゆえだ。

「掻き抱かれて」の句は、ハグされた時の居心地の悪さ、気持ち悪さを表現したのだろう。相手が悪かったか、そもそもそういう事が嫌いか。ここでは主体が誰か書かれていないので、俳人としては当然、作者が「ざらつきになっている」と読む。作者全部が触覚になったような状況。その状況だけをクローズアップしたかったのだろう。

底冷えの摑むところのない扉

この句は集中にある「春はすぐそこだけどパスワードが違う」の裏側にある句だと思う。「パスワード」の句において、春は作者にとって秘密の様相を呈しているのであり、その秘密にどうやってもアクセスできない、春と呼ばれるものを自らに向けて開くことが出来ないもどかしさが表現されているのだが、掲句においてはパスワードに相当する鍵穴はあったとしても扉を引くための取っ手がない。尤も体を預けて押せば開くのかもしれない。押すためには少なくとも自分の体の一部を扉の向こうに突出させねばならず、その向こうに何があるかわからない不安は「底冷え」に象徴されている。

冬の夜、壁紙の継ぎ目から毛がでてくる

これもまたかなり困った状況で、「でてくる」のだから、毛は部屋の中に伸びてきている。壁の中には何かがある。その何かは生きているのか死んでいるのか、肉体を持っているのか持ってないのか、果たして現実か幻視かもわからない。先の「底冷え」の句といい、この「毛」の句といい、宙ぶらりんの状況の不安感が感じられる。内田百閒の「冥途」や「東京日記」のような、尋常ならざる雰囲気だけがいつまでも続く短編を思わせる。

うなずくからどんなに遠い滝だろう

滝は遠いのか、と問うたのかもしれない。相手の頷き方に常ならぬものを感じて、そこに滝へ到達する事の困難さを思ったのかもしれない。ここでうなずく行為は滝への遥かさを肯定する修飾として用いられている。日本に於いて滝とは神の日常的な具現であり、産土の聖性の具現でもある。この時代において、神も産土も遠いのは致し方ない事だが、少なくともこの句において否定はされていない。頷くという肯定的な行為により、確かに在るのだが非常に遠いという実感が強調されている。

夏草や     の跡←消しゴムで消した跡

     をあきのかぜと書く 裂け目

これも虹ここ→〇突き破ってよ指で

チートだ、ずるい。これは反則だ。「兵どもが夢」の五文字を消しゴムで消して、つわものでなく夢も信じない自分を肯定しつつ否定したつもりか。上五を消して、季語は全て秋の風、一呼吸の空白、裂け目だとうそぶいたつもりか。ページの背後にある虹をこんな風に夢見させたつもりか。これは俳句でも文学でも日本文化でも文化包丁でも憲法九条でも黙示録でもない。敢えて言うなら、幻の憧れの文化祭で、要するに夢見る優しい青春だ。私は絶対にこの〇を指で突き破ったりはしない、学校の廊下を盗んだバイクで走ったりしないように。〇を指で突き破らないように、私が人差指に最大限の気を配るのは、この青春に嫉妬している事を悟られないためだ。

ビール噴く厨二病なのかなあ俺

それ以外のなにものでもない。君が厨二病でなければ、厨二病は絶滅宣言されてよい。この句集全部が、ありとあらゆる厨二病の見本市ではないか。振り過ぎたビール缶が、その中身を祝祭の天に噴き上げるように、全身全霊で厨二病だとも。そして厨二病だけがいつの時代でも、孤独に開拓を進めてきた。

「は?」という、過去限りなく繰り返された。パラソル。

パラソルを辞書で引くと「女性用の洋傘。日傘。」とあるから、「は?」と言う人は妙齢の女性だ。海水浴の時、浜に立てる傘もパラソルと称するから、眩しく肌を曝しているかもしれぬ。君の厨二病発言を悉く「は?」の一語で撃退するあの子は、本心では君を憎からず思っているだろう、と嘘で且つ意味の無い慰めの言葉を掛けてみたい、サーファーやらTUBEやら焼きそばやらの横溢する真っ只中で。

休みます冴えたままシンバルなのです

その姿勢は休んでない。どんな些細な合図にも鳴り響こうと待ち構えている、その姿勢が厨二病だ。そもそも厨二病とは、休んだりやめたり出来るものなのか。

それにしても、シンバル! 「シンバル」と置いたのは見事だ。鳴らせば主役、しかし普段は背景、冴えた青い日に最初から存在しないものを懐かしむように。

遂に文化祭を知らずに生きて来た私は、この句集全体を否定し、伝統結社に属する俳人の立場から句集とは認めない、と早々に思考停止して、馴れた地獄で楽にしていたいのだが。

慣れ親しんだ自己の怨念を観照しつつ、この「句集にあるまじき何か、であって欲しい本」を何十遍か読み返しては、苛々したり、鼻で笑ってみたり、上から目線で見下ろしてみたり、時に遥かな夕陽の校舎を望むようにぼんやりしたりしつつ、やっぱりこの句集は幻の文化祭であり、若い頃も今も遂に私が知ることの出来なかった憧れの文化祭なのであった。

君はセカイの外へ帰省し無色の街

セカイとカタカナで書いているから、これはセカイ系の事であろう、と関悦史は言う。セカイ系とは何ぞや、と関悦史に質問して色々と解説してもらったが、要するに個人と世界の生滅が直結している価値観の事であって、通常の世過ぎにおいて個人と世界の間に存在する「社会」が抜け落ちているのが特徴であると。それなら、個人の観法によって環境は如何ようにも変化するという技法であって、別段新しい見方でもない。個人と真理が直結する、あとの一切は旋火輪のごとし、幻であるとは、仏教においてもキリスト教においてもイスラムのスーフィズムにおいても回帰の基本ではないか。「内空しうして外に従う」という言葉も、この真理との直結という信念があってこその方便だろう。

さて、掲句であるが、「君」は作者のセカイの外に帰省したのだから、元々は社会に属していただろう。「君」が帰ったことにより、作者は人間本来の状態である「孤独に世界の生滅と向き合う」場所に戻ったのだ。他者と世界を共有することなどそもそも出来る筈がないから、当たり前であるが。その目に街は無色に映る。色は欲望であり、「君」のいない世界に欲望は感じないからだ。

樺太へ兄を探しにいくのか強くない台風である君も

台風は南溟に発生し、北日本を過ぎる頃には大方、低気圧となる。北海道までは殆ど来なかったが、近年、北海道にもなお台風の勢力を保ったまま来る例がある。掲句の台風は、北海道を越えて更に樺太まで向かう意志があるようだ。強くない台風が樺太に到るのは至難の業だろう。樺太と聞いて、南溟のニューギニアやガダルカナルと同じ暗示的意味を想起する者はどのくらいいるだろう。南溟の島々にも海にも、戦後の日本人にとっては、戦争の惨たらしい記憶がつきまとう。満州と聞いた時、旧ソ連軍の虐殺がつきまとうのと同じく。

樺太も同じだ。北緯五十度線以南の南樺太に住んでいた日本人は、突然の旧ソ連軍侵攻に辛酸を嘗めた。引き揚げ三船(小笠原丸・第二新興丸・泰東丸)の、旧ソ連軍潜水艦による犠牲者は1700人を超える。「北のひめゆり」と呼ばれる、樺太の真岡電信郵便局の悲劇も想起されよう。

では、台風である「君」の暗示的意味とは何か。南溟に霊的渦のごとく発生した台風である「君」が、強くないその身、いつなんどき低気圧へと拡散しかねない身を絞りつつ、無理を承知ではるばる樺太まで探しに行く「兄」とは誰か。

掲句は社会性俳句であり、戦争によって引き裂かれた人々の魂を詠った句であると、私は断じたい。そう断ずるのが、この句の最上の読みだと思う。そう読んだ時、かくも大幅な字余りがなぜ必要であるか理解できる。台風の無謀な旅は、その発生から消滅までのたかだか四五日の間ではない。戦後七十年を繰り返し試みてきた、その無念と、どうしても捨てられない希求の、果てしない逡巡と回り道の旅である。

と、ここまで書いて、この読みはある種の人々から見てかなり滑稽だろうな、とも思う。別に構わない。滑稽だろうが大仰だろうが、詩にとって、地獄から出発する以上の必然はない。

君となら戦争してもいいよ桜

この桜を日本の象徴と取るなら、甚だ穏当でない句となる。だが、むしろここは坂口安吾の「桜の森の満開の下」に出てくるような女を想起したい。同じ安吾の「夜長姫と耳男」では、「桜の森」の鬼女に等しい夜長姫が、刺される前にこんなことを言う。「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」私が若い頃、この言葉は納得せざるを得なかった。身近に絶えず実感する言葉であった。福田若之がこういう言葉を実感できているとは思わない。出来ているなら、次に論ずる「小岱シオン」という娘の描き方は、もう少し切羽詰まったものとなる筈だ。とはいうものの、その予兆は娘の名に微かに匂う。

蜘蛛を湿らす小岱シオンの青い舌

人名の出てくる句は、その名に歴史的背景があるのでなければ、名の印象が魅力的であって欲しい。この人名はリズムが美しい。ハーフなのか、それとも今どきの名なのか、いずれにせよ、コノタシオンという響きは美しい。「ロウドウモンダイってロマンチックな響きだね」と、西脇順三郎が言ったように美しい。

「青い舌」だから、文字通り取るなら、貝類や甲殻類のように青い血が通ってるのか。ならば人外という事になるが、「青い」という語を「若い」の意味と取るなら、青春の鬱屈した暗さも見えよう。なぜなら、蜘蛛を舌で舐めて湿らせるのだから。その舌の発する言葉が、蜘蛛という陰性のものを更に湿らせるのかもしれぬ。

舌は斧の柄であり、舌の発する言葉は斧である。「人が生まれた時には、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を切るのである。」(ブッダの感興のことば、中村元訳、岩波文庫)

小岱シオンの舌はどうやら斧の柄ではないらしい。というのも、シオンの舌は蜘蛛を喰いはしない、潰しもしない。舌で湿らせる行為は愛撫である。日本における蜘蛛で、まず思い出すのは「土蜘蛛草紙」や能曲の「土蜘蛛」であろう。生物として実在する土蜘蛛とは異なり、人を食う巨大な蜘蛛の妖として表現される。更に遡って、天皇に恭順せず討たれた豪族たち、シャーマン的性格を持つ部族を蔑して土蜘蛛と称した事を想うなら、蜘蛛には暗がりへと追いやられ討たれた者、また怨み呪う者の意も加わろう。ならば、シオンの青い舌は、追われ呪うもの達への奇妙な慈愛の唾液に潤っている。

この小岱シオンという娘は繰り返し句集に登場するが、どうも実在の人物とは思われない。少年が理想化する娘かもしれぬ。例えばヘッセの「デミアン」におけるベアトリーチェ、或いはブルトンにおけるナジャを想起するのだが、ベアトリーチェのごとく作者を求道へと導くものでもなければ、ナジャの如き世界の神秘を共に探ろうとするファム・ファタールでもない。

そのような道しるべも神秘も運命をも信じる力を失った時代の、寄る辺なき明るい幽霊のような印象がある。この血肉に乏しい小岱シオンを何とかして存在せしめようとする試みが、作者の希望だろうか。

鏡にぶつかる小岱シオンと玉虫と

シオンに、そして様々な色に変化するシオンを映す鏡であろう作者に、全然足りないものは、血泥であり炎である。それら剣呑なものの無き事を物足りなく思うのが、地獄の習癖なのかもしれぬ。

ゴジラ脱がせば日焼けの小岱シオンぷはあ

この句には前書きがあって「God-zillaっていうけど、ゴジラはいつから神様なわけ?」。その問いについては、日本に原爆が落ちた時からだ、と答えたい。放射能を吐く荒魂であるゴジラの着ぐるみの中には、天然の放射体である太陽に日焼けしたシオンが入っていて、ゴジラから解放されたシオンは「ぷはあ」と呑気な息をつく。ゴジラという、実は悲痛な神話から遠く離れ、だがゴジラの内在者としてシオンは顕れる。

「だから嘘なんてついてないしただ意味のあること言ってるだけだって」。

シオンの口癖として集中に何度も紹介された言葉であるこの前書きの後、シオンは轢かれてしまう。(このシオンの口癖は反語として取った。即ち、シオンは嘘しか言わないし、意味の無い事しか言わない。己が非在を担保する言葉しか言わない筈だ。先ほどの「いない姉」の句を思えば、シオンの存在は非在によって不死と成り得るし、そうでなければ、実在の血肉を持ちいつでも血泥と怨念に化し得る娘達を差し置いて、シオンが繰り返し出てくる意味がなくなるからだ。)

小岱シオンは轢かれ飛ばされ散らばる金

この金が「きん」なのか「かね」なのか、ルビを振っていないので判然としない。「かね」と読めば、シオンは、「この世の君」の王国の三大原理である暴力(シオンを轢いた車)と繁殖本能(シオンの血肉を纏った外形が周囲に惹起させる本能)と銭によってのみ構成されていたに過ぎないという事になる。だから、私は何としても「キン」と鋭い響きで読みたいのだ。

「キン」と読めば、撒き散らされるのは金色の重い固体であり、詩的に解釈するなら「黄金の体験」である。では、シオンとは黄金の体験によって構成されていたのか。存在自体が或る象徴である娘は、時に虹をさす指であったり、未来のイブであったり運命の女であったりするのだが、その構成要件である黄金の体験は、実は極めて個人的なものであって、到底共有されうるものではない。だからこそシオンはいったん轢死せねばならず、死後あらゆるところに見出されるのだろうか。

日々を或る小岱シオンの忌と思う

シオンは絶えず死ぬ。死ぬからには絶えず生まれているだろう。だから、シオンは未生ではないし、ましてや不生でも無い。「小岱シオン」の名が含蓄するもの、その暗示的意味を探るなら、岱は泰山の意、天子が天地の神を祀る秘密の場であるから、小岱とはきわめて個人的な密やかな祭祀の場を指すであろう。シオンの意味は、ヘブライにおける「要塞」であり、「神殿の丘」であり、「心の清らかなる者」である。「首の縄目を解け。捕らわれの娘シオンよ。」(イザヤ52-2)「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。」(第一ペテロ2-6)

小岱シオンの名には東洋と西洋の、そして中東の祭祀の場が含蓄されている。泰山に祭祀を行った始皇帝の政が覇道であったことを思う。元々エブス人のものであったシオンをダビデ王が占領したこと、また「シオン」の呼称がエルサレム全体をも指し、「シオンの娘」とはエルサレムの住民を指す事、現在に至るまでエルサレムの存在が紛争の原因となっている事を考える。

小岱シオンの比重で暑い死海に浮く

シオンは作者に内蔵されてもいるから、作者はシオンの比重を持つことも出来る。死海に浮かぶその視界の果てにはシオンの丘がある。

はじまりの小岱シオンの土偶に蚊

始まりの「小岱シオン」なる娘に、たとえば、「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれる先史時代の小像や縄文の土偶を思う。地母神の像と言っても良い。豊饒の神でありながら、死骸を分解する死の神の側面も持ち合わせている。自ら裂かれ細かく耕されることにより、恵みを与える役割もある。複合し時に相反する無数に等しい暗示的意味を持つモノ。そして掲句では、蚊はその血を求める。

また別の小岱シオンの別の夏

シオンは恐らく個人の数だけいるのだろう。シオンには夏が一番よく似合うだろう。炎天は暗い。光が余りに強烈で、暗黒をも含むのではないかと思わせる。小岱シオンも比類なく明るく見えて、その背は暗黒だろう。

「自生地」の小岱シオンが轢死した後、「また別の小岱シオン」は、もっと肉迫してくれるだろうか。例えば、その舌で以って土蜘蛛の長を溶かし、ゴジラを内側から食い破り、死海を干上がらせては塩の柱を眷属と化し、己が血を吸わせた蚊を以って熱病をはびこらせ、血を金塊に、金塊を血泥に、紙幣を生皮に、生皮を書物へと変じて、口に苦く腹に甘い呪いを、美味そうに唄ってくれるだろうか。

空色の者が空から見ている夏

この句も、別の角度から見える小岱シオンを写生したと思えて仕方ない。小岱シオンが辞書に登録されている最大公約数的な意味を超えて、連想に連想を重ね、含蓄に含蓄を含み、蜘蛛の網にも似た数多の感覚、経験、心情を取り込んでゆくなら、最終的に小岱シオンは世界に覆いかぶさる空に溶け広がり、ただ眼差しだけの存在ともなろう。
それは果てしなく増幅する解釈によって一句が、世界を覆い尽くす広がりを持つに等しい
、と夢想するのが、只一句の至高性をどこかで夢見て止まない俳人の業である。

架かるたび最後の虹とさえ思う

いつも最後と思って見る虹は、何と胸に沁みる事だろう。阿部青鞋の「虹自身時間はありと思いけり」「貝が死ぬもうしばらくの音楽よ」を思い出す。掲句は、希望と絶望がごちゃ混ぜに胸に湧きあがる観がある。明日が無い、と何処かで思っているからだ。

ながれぼしそれをながびかせることば

一読、一瞬で消えてしまう流星に対して、その光を何とか留めようと咒を口にしているように見える。しかし、それなら「流星を長引かせをる言葉かな」とか何とか、やってしまえばよいのだ。それは実につまらない。

掲句は、「ながれぼし」で一旦切れるのだと思う。そして「それ」は流星ではない。「それ」としか名指しようのない何か、絶えず胸底から湧き上がり遥けさを指し示す何かを表現しようとする時の精一杯の暗示であり、作者にとって生の重要な部分を、或いは全体を指す何かなのだ。流星は往々にして、短く激しい生を暗示する際に用いられるからだ。子供が流星を見た時に願望を口にする如く、流れ星に向かって「それ」が長引くように祈る。

或いは流れ星自体を「それをながびかせることば」と見たのかもしれぬ。「ながびかせる」と平仮名で記された時、その表記は「なびかせる」を含み、流星の長い尾を浮かび上がらせる。

地上から見た時、流星は一瞬で消える冷たい光に過ぎない。しかし、当の流星は膨大なる時間をかけて旅をし、その旅の果てに巨大な熱を発しつつ地上へ降り来たる。

言葉は儚い。言葉は不正確にしか世界を表現しない。しかしながら、その儚く不正確な、広大な暗闇を僅かな光で探るに等しい言葉によって、世界を捉えようと試みる者は、遠目には一瞬の冷たい光にしか見えない膨大な熱量を以って、掲句における平仮名の羅列の如き、たどたどしい歩みによって、言葉を補完するしかない。

私は昔、「俳句とは捕虫網で青空を捉えようとするようなものだ」と書いたことがある。福田若之もそう思っているかもしれぬ。彼に限ったことではない。

どう工夫しても短すぎる俳句に己が生を投入しようとする者全て、一個の言葉の暗示的意味が世界を覆うと同時に、遍く照らす事を夢見て、そんな蛮勇、パンツを脱ぎ捨てて大海に飛び込む開き直りに、己が一瞬の生を掛けざるを得ない者たち全て、大なり小なりそう考えるのではないか。


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