【週俳7月の俳句を読む】
ことばの旋律
仮屋賢一
睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ 紆夜曲雪
「にやんにやん」という個性的なオノマトペは、水の湧くさまの表現として、十分に説得力を持っているように感じる。豊潤な湧き水、それは決して一定のものではないけれども、流動的で連続している。さほど粘着質でもなく、それでいてちょっと引っ掛かりのあるような「にやんにやん」は、確かに水を表現できている。
書かれた文字を認識するとき、まず記号として認識するのか、まず音として認識するのか、という二つに大きく分けることができるのだとしたら、自分は後者である。何より、頭の中で音読するようなことを意識してせずとも、まず音として自分の中で鳴っているのだから、こればかりはどうしようもない。
文字一つ一つの持つ音が鳴って聞こえ、それは実際に口に出したときの音とは似て非なるもの。昔の日本語の音声や発音に詳しいわけではないので、たとえば「づ」と「ず」の音声の違いなんて分からないし、どちらも口に出せば同じ発音になるけれども、頭の中では確かに違う音が鳴っている。どう違うかを聞かれても困る。
たとえば私が「なぜ歴史的仮名遣いで書くのか」と訊かれたら、大真面目に「その音が好きだから」と答えると思うが、それで納得していただきたい。
調子に乗って長々と書いたが、結局「俳句って音が大事だよね」という当然のことを言いたいだけのことである。「にやんにやん」も、その音が、そのリズムが、いい。
音を味わうとは言っても、ざっくりしているので、今回は、作品の持つ旋律を意識して鑑賞していきたい。
けものらに乳房ある繪圖柏餅 吉田竜宇
けものに乳房があること自体は不思議ではないのだが、絵図であればそれはわざわざ描いてある。特に、これは写生画のようなものではなく、イラストめいたものであったり、戯画のようなものであったりして、わざわざ乳房が描かれているのだという印象も強い。ほかでもない獣に乳房が描かれているという違和感が楽しい。少し毛の生えた柏の感触が、その違和感に生々しさを与えるよう。
この作品の旋律を語るとき、「乳房」と「繪圖」がキーになってくると思う。この二つの単語、どちらも語頭にアクセントがある。日本語は高低アクセントで話をするので、つまりは頭の音が高い、ということである。一方、日本語はたいてい語頭を強く発音することを思えば、語頭にアクセントがあることはすなわち、2種類のアクセントが一致しているようなものである。
アクセントをもとにフレーズが形成されると考えれば、「乳房ある」「繪圖」はそれぞれが一つのフレーズとして、相当強い迫力をもって畳みかけてくる。「乳房ある繪圖」とひとまとまりのフレーズとも捉えられるが、ここは、「繪圖」のアクセントを強調したフレージングの方が面白いだろう。「けものらに」とゆったり開始し、「乳房ある」「繪圖」と畳みかけ、最後に「柏餅」と歌いあげるという旋律線は、表現されている内容に対して非常に効果的である。
夢いまだ指にのこれる団扇かな 紆夜曲雪
この作品の旋律線も面白い。フレーズのまとまりは「夢」「いまだ」「指にのこれる」「団扇かな」だろう。もちろん、フレージングにはある程度自由度は残るので、「指に」「のこれる」と分割も可能であるが、私はこう読みたい。
私自身が関西人であるため念のため断っておくが、「指」のアクセントは二音目の“び”に置きたい。
各フレーズの最初の語「夢」「いまだ」「指」「団扇」はすべて、二音目にアクセントがある言葉で統一されていて、それが作品のリズムを作り出している。特に「夢いまだ」という上五のリズムは個性的で、「いまだ」に戸惑いや哀愁のようなものが感じられるのは、このリズムによるところも大きいだろう。
たとえば「団扇」の部分が、語頭にアクセントのある言葉――たとえば「扇子」――であれば、旋律上の裏切りが発生する。意味を無視しても、ここに意外性だとか、強意だとか、何かしらのニュアンスが生じてくるのである。「夢いまだ」の不安定なリズム、「指にのこれる」のゆったりとしたフレーズ、これらの印象を上書きするほどの強さは、最後のフレーズには不要だ。旋律の上でも、「団扇」という語の選択は最善なのだろうと思う。
旋律は意味を持たないが、意味にしっかりと寄り添っている。
鑑賞者として、フレージングを考えながら、その旋律をじっくり味わいたい。
夏草の草豊かなる秋田かな 西村麒麟
蚋を打ちさらに何かに怒りつ 同
八月の終電はみな広島へ 紀本直美
砂粒をはらひてはこべ摘みにけり 金山桜子
2018-08-26
【週俳7月の俳句を読む】ことばの旋律 仮屋賢一
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