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2022-08-21

仮屋賢一【週俳6月7月の俳句を読む】一觴一詠という時間の使い方

【週俳6月7月の俳句を読む】
一觴一詠という時間の使い方

仮屋賢一



夏の休みの日、どこかでぼーっとしていようか、アクティヴに過ごそうか、いつも迷う。でも結局、ぼーっとする暇もないくらいアクティヴに過ごす方がなんだかんだ楽だと思ってしまう。そうしてだんだんぼーっとすることが難しいものになっていく。

茂木健一郎氏(@kenichiromogi)は数年前のツイートで、「夏休みの本質は、ぼんやりすること、ほうけることだと思う。」と述べている(全文はこちら)。やっぱり、ぼーっとすることって大切なことなんだな。というより、むしろどれだけ魅力的なことだろうか。何の後ろめたさもなく、気持ちよく一日中ぼんやりできたらなんて幸せなことだろうか。


明易のひかりが池に凝りけり  森賀まり

川の流れに棹をさした瞬間、水面には些細な歪みのようなものが生じる。個人的な感覚だけれども、「明易」にはそれと似たような現象が、時間に対して生じているように感じる。時間の歪みなんて時期や時間帯に関係なくのべつに生じているのだろうけれども、大きな時間の流れの中でとびとびの点として存在していて、ゆえに観測ができないだけなのだと思っている。

「明易」には、そんな本来観測不可能なものを現前させるだけの力がある。そして多分、気持ちよくぼんやりとしていなきゃそんな「明易」の魔法の力にあずかることなんてできないんだろうな、なんて思うと、憧憬の念が湧いてくる。


家族のみ夫のみ愛せ滝の音  津髙里永子

「自分が愛されたけりゃ、まず他人を愛せ」とか「他人を愛する前にまず自分のことを愛せ」とかいろいろ聞くけど、要するに愛するって簡単じゃないよねってこと。

まあ、「愛する」なんて、考えれば考えるほど徒に難しくなってゆくだけで(それはいいことなのかもしれないけれども)、その極致は『美女と野獣』の名曲『If I Can't Love Her(愛せぬならば)』にも表現されているように思う。(ミュージカル<舞台>版だけの曲なのでご存じでない方も多いかもしれないが)

愛するという行為は、ひどくアクティヴだけれども、能動的、積極的にに考え続けていても解決しないことだってある。

「家族のみ夫のみ愛せ」というのも難しいことのようだけれども、見方によっては「家族だけでいいんだよ、もっといえば夫だけでもいいんだよ」なんて励ましのようにも聞こえる。

何度もいうけど、簡単なことじゃないんだけれどもな、でも「滝」なんていう、アグレッシヴな大自然にぼんやりと触れているだけで、なんだかやっていけそうな気持ちが湧いてくるもの。


スコールを跳ね上げてバス来りけり  杉原祐之

激しい雨の中、強かなバスがやってくる。客地だと、そこに勝手にその土地の人々の性格なんていうのも重ね合わせちゃったりしちゃうけれども、それも旅の一興。

そうやっていろいろなものに、ただただ圧倒されるだけというのもなんだか良い。

いい光景とか悪い光景とか、そういうことではないものを、いいとも悪いとも思わずに純粋に見つめて驚嘆することができるってとても素敵なこと。

この句は自然と人間の対比という構造で十分読み取れそうだけれども、個人的には、そんな複雑に考えず、人々の営為もひっくるめて、広義でいうところの自然の光景としてこれを捉えて味わいたい。ぼーっと味わっていたい。


こうやって作品の鑑賞を書いていると、はじめにアクティヴに過ごすか、ぼーっと過ごすか、なんていう二者択一を呈示してしまったけれども、アクティヴだろうがそうでなかろうが、そこに全身全霊ぼーっと過ごす時間があるかどうかで、その時間の価値は変わってくるんだなということに気づかされる。

一觴一詠という時間の使い方に漠然と憧れていたのだけれども、その憧憬の種類が、なんとなく見えてきたような気がする。


津髙里永子 練乳 10句 ≫読む  第792号 2022年6月26日
森賀まり 虹 彩 10句 ≫読む  第793号 2022年7月3日
杉原祐之 マニラ 10句 ≫読む  第795号 2022年7月17日

2018-08-26

【週俳7月の俳句を読む】ことばの旋律  仮屋賢一

【週俳7月の俳句を読む】
ことばの旋律

仮屋賢一



睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  紆夜曲雪

「にやんにやん」という個性的なオノマトペは、水の湧くさまの表現として、十分に説得力を持っているように感じる。豊潤な湧き水、それは決して一定のものではないけれども、流動的で連続している。さほど粘着質でもなく、それでいてちょっと引っ掛かりのあるような「にやんにやん」は、確かに水を表現できている。

書かれた文字を認識するとき、まず記号として認識するのか、まず音として認識するのか、という二つに大きく分けることができるのだとしたら、自分は後者である。何より、頭の中で音読するようなことを意識してせずとも、まず音として自分の中で鳴っているのだから、こればかりはどうしようもない。

文字一つ一つの持つ音が鳴って聞こえ、それは実際に口に出したときの音とは似て非なるもの。昔の日本語の音声や発音に詳しいわけではないので、たとえば「づ」と「ず」の音声の違いなんて分からないし、どちらも口に出せば同じ発音になるけれども、頭の中では確かに違う音が鳴っている。どう違うかを聞かれても困る。

たとえば私が「なぜ歴史的仮名遣いで書くのか」と訊かれたら、大真面目に「その音が好きだから」と答えると思うが、それで納得していただきたい。

調子に乗って長々と書いたが、結局「俳句って音が大事だよね」という当然のことを言いたいだけのことである。「にやんにやん」も、その音が、そのリズムが、いい。

音を味わうとは言っても、ざっくりしているので、今回は、作品の持つ旋律を意識して鑑賞していきたい。

けものらに乳房ある繪圖柏餅  吉田竜宇

けものに乳房があること自体は不思議ではないのだが、絵図であればそれはわざわざ描いてある。特に、これは写生画のようなものではなく、イラストめいたものであったり、戯画のようなものであったりして、わざわざ乳房が描かれているのだという印象も強い。ほかでもない獣に乳房が描かれているという違和感が楽しい。少し毛の生えた柏の感触が、その違和感に生々しさを与えるよう。

この作品の旋律を語るとき、「乳房」と「繪圖」がキーになってくると思う。この二つの単語、どちらも語頭にアクセントがある。日本語は高低アクセントで話をするので、つまりは頭の音が高い、ということである。一方、日本語はたいてい語頭を強く発音することを思えば、語頭にアクセントがあることはすなわち、2種類のアクセントが一致しているようなものである。

アクセントをもとにフレーズが形成されると考えれば、「乳房ある」「繪圖」はそれぞれが一つのフレーズとして、相当強い迫力をもって畳みかけてくる。「乳房ある繪圖」とひとまとまりのフレーズとも捉えられるが、ここは、「繪圖」のアクセントを強調したフレージングの方が面白いだろう。「けものらに」とゆったり開始し、「乳房ある」「繪圖」と畳みかけ、最後に「柏餅」と歌いあげるという旋律線は、表現されている内容に対して非常に効果的である。

夢いまだ指にのこれる団扇かな  紆夜曲雪

この作品の旋律線も面白い。フレーズのまとまりは「夢」「いまだ」「指にのこれる」「団扇かな」だろう。もちろん、フレージングにはある程度自由度は残るので、「指に」「のこれる」と分割も可能であるが、私はこう読みたい。

私自身が関西人であるため念のため断っておくが、「指」のアクセントは二音目の“び”に置きたい。

各フレーズの最初の語「夢」「いまだ」「指」「団扇」はすべて、二音目にアクセントがある言葉で統一されていて、それが作品のリズムを作り出している。特に「夢いまだ」という上五のリズムは個性的で、「いまだ」に戸惑いや哀愁のようなものが感じられるのは、このリズムによるところも大きいだろう。

たとえば「団扇」の部分が、語頭にアクセントのある言葉――たとえば「扇子」――であれば、旋律上の裏切りが発生する。意味を無視しても、ここに意外性だとか、強意だとか、何かしらのニュアンスが生じてくるのである。「夢いまだ」の不安定なリズム、「指にのこれる」のゆったりとしたフレーズ、これらの印象を上書きするほどの強さは、最後のフレーズには不要だ。旋律の上でも、「団扇」という語の選択は最善なのだろうと思う。

旋律は意味を持たないが、意味にしっかりと寄り添っている。

鑑賞者として、フレージングを考えながら、その旋律をじっくり味わいたい。

夏草の草豊かなる秋田かな  西村麒麟

蚋を打ちさらに何かに怒りつ  同

八月の終電はみな広島へ  紀本直美

砂粒をはらひてはこべ摘みにけり  金山桜子


加藤知子 花はどこへ 10句 読む
紆夜曲雪 Snail's House 10句 読む
吉田竜宇 炎上譚 読む
西村麒麟 秋田 10句 読む
紀本直美 夕立が降るから 10句 読む  
金山桜子 藍を着て 10句 読む
秋月祐一 はつなつの 10句 読む

2017-02-12

【「俳苑叢刊」を読む】 第3回 石橋辰之助『家』 山を下る 仮屋賢一

「俳苑叢刊」を読む
3回 石橋辰之助
山を下る

仮屋賢一


繭干すや農鳥岳にとはの雪   石橋辰之助
朝燒の雲海尾根を溢れ落つ
石橋辰之助の代表作とも言えるであろうこれらの作品は、彼の第一句集『山行』に収められている。彼が「山岳俳人」などと称されるきっかけとなった句集というのが頷けるほど、山岳を対象とした作品が大半を占めている。この『山行』から他にもいくつか書き抜いてみる。
遠ざかる雪崩や爐邊に目をとづる
登山綱(ザイル)干す我を雷鳥おそれざる
岩灼くるにほひに耐へて登山綱負ふ
橇あそび雜木林の雪に來る
學童のゆきさす床の雪まみれ
若者の日照雨に濡るゝ春來たり
花に彳ち農場の麵麭を喰ひちぎる
これらの作品にうかがえるのは、彼の、眼前の光景に対する真っ直ぐな讃美。比較的に人間の存在を意識させるような作品を選んでみたのだが、どれも焦点は人間やその行為、感情ではなく、光景や自然といった、広い映像が立ち上がってきて、よい写真作品を見ているかのよう。つまり、人間は自然の一部として、大いなる自然を讃美するための一つの要素として存在しているのである。想像だが、それは彼の、自然に対する敬意のあらわれなのかもしれない。

中でも、「雪崩」の作品は一見、作中主体の内面世界を指向するような措辞が並ぶが、「雪崩」の持つ壮大さや迫力は、作品が内面的な描写となることを許さない。視覚を断ったからこそ、他の感覚から雪崩を想起することで、より力のある雪崩の虚像が立ち上がってくるのである。




『山行』には、終助詞「や」を使った作品も散見され、先に挙げた「繭干すや」「遠ざかる雪崩や」の他にも
古苑や徂く春の花眞つ盛り
月明や乘鞍岳に雪けむり
紺青の空が淋しや萩の花
初蟬や河原はあつき湯を湛ふ
秋晴や笹生のひかり木がくれに
藁干すや來そめし雪の明るさに
南風やゆく人まれに萱さわぐ
とある。「や」という一音によって、人の些細な身の上の世界から大きく引き離され、大自然の詠嘆へと導かれる。

若さによるところの勢いや真っ直ぐさを排除して鑑賞した際に『山行』の作品群から一抹の寂寥感を感じることを禁じ得ないのは、自然という対象と、人間という自分自身を引き離して捉えている、というところもあるのかもしれない。それだけ、当時の彼にとって大自然と人間とはかけ離れたものであり、それだけ離れているからこそ、淋しくならずにいられるのかもしれない。 




『山岳畫』においては終助詞「や」の使用はぱったりと止み、全体的にも大自然との精神的な距離が一気に縮まったようである。
われのみの靜けさ霧に妻こほし
おのれ恥づ冬山の日の淸らなる
新雪に踏み入りおのれ影小さし
野の夏日無邊にせまり彳ちつくす
秋空のつめたさ谷の日をおほふ
霧にほふおもき障子戸のうちにねむる
またゝく灯冬山の夜をよびかはし
あれほどまでに離れていた大自然と人間とに、交わりが出来ている。一句目では大自然の静けさのなかに「われ」が確かな主体性を持って存在するし、五句目では「秋空のつめたさ」と、自然と人間の知覚とがそこに入り混じっている。これらのことは、決して大自然に対する敬意が薄れたためというわけではなかろうが、『山行』のときの真っ直ぐさには若気の至りのような部分もあったのかもしれない。年齢を重ねてゆく間に、妻を娶ったり子を授かったり、そういうことも無関係ではないだろう。

大自然が必ずしも別世界とはいえなくなった以上、その片隅にぽつんと存在する自分自身という存在を寂しく感じることもあったのだろう。『山行』のときの不安がついに現実的なものとなった。


『山行』から『山岳畫』にかけて、雲海の上の、まさに別世界といえる山頂から、だんだんと人間世界へと下山をしてゆくような、そういう感覚になる。




そして、『家』。
雪山の闇たゞ闇にすがりゆく
秋日向鐵材は子にあたへられ
秋睡るわが子に晝の汽車ひゞき
裸馬枯園のぞきつまづける
夕凍てし工場の扉を猫出て來ぬ
高原に五月の雪を踏みちらす
從軍僧默り白菜陽にちゞれ
軍醫の眼赤し山脈の襞赤し
工場の吐く水の上に家暮れぬ
雪山に英靈の供華あたらしき
表現の対象・関心が人間に向いている。意味性やインパクトの強い言葉が多く、その背景として自然が存在しているだけである。一句目は、雪山を表現してはいるものの、「すがりゆく」という言葉の印象が強い。『山行』のころの石橋辰之助であれば、二つの闇の存在をストレートに褒め称えたであろう。しかしこの作品で彼は、そこに頼りなさげで人間味のある、見方によっては滑稽にも思えるような描写をしているのである。滑稽、といえば四句目もそうで、かつては主役にもなり得た「枯園」は、舞台装置として背景に控えめに存在しているだけである。六句目も「踏みちらす」が映像の軸となり、足回りにズームインした、ピンポイントの映像が再生される。
 

「山岳俳人」と呼ばれるような句集を編んだ同じ人が、後に七句目、八句目のような作品を収めた句集を編むようになるのである。こういうことがあるから、今の人でも、長く同じ人を見続けるのはおもしろい。
 


 
『山行』から『家』までの間は5年ほど。その間にガラリと方向転換をしたのは、彼の周囲にいた才能ある人々の存在も大きいだろう。ただ、変わった部分が大きいものの、彼の絶妙な対比の手法は受け継がれている部分が大いにあるし、俳句作品が変わったとしても、自然と自分との個人的な向き合い方は変わっておらず、そこには常に畏怖と尊敬、そして信頼があるのだろう。


 

『家』に所収された『山行』『山岳畫』『家』。石橋辰之助が「山岳俳人」という個性を捨ててゆく過程がここにある。鑑賞する身としては、彼とだんだん親しくなってきたような気分になるが、一方で物足りなさも感じざるを得ない。この時点にたどり着いて、ようやく新たな作家としてスタートすることが出来るのだろう。……と、自分自身に言い聞かせるために書いて、この気ままな文章を終えることとする。

2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第2室) 5.安里琉太  6.生駒大祐  7.大塚 凱  8.仮屋賢一

2016「角川俳句賞」落選展■第2室


5.安里琉太 





6.生駒大祐 




7.大塚 凱 




8.仮屋賢一





5. 昔見たやうな 安里琉太

雨粒の山蟻を押しながしけり
風鈴やたくさんの手と喉仏
人待ちに薔薇の匂ひのする頃か
ぱりぱりとプールサイドの身を起こす
青林檎ひとつの雲の引きかへす
浜のもの錆び付いてゐる昼寝かな
その石のむかしからあり南風
サングラス一人になれば胸にさす
髪灼くる巨船を鳥の旋回し
文弱の父に冷酒の夜の永し
糸瓜棚暑くなる日の雲の形
竜頭巻く掃苔の水汲むあひだ
蓑虫や雨うつとりと痩せてをり
鵙啼きて旋毛の並ぶ理髪店
言はれなきこと秋草にわが父に
敗荷になまくらな水かがよへり
蝶に似て此処も風吹く茸かな
中空の雨の真白き猿酒
茸山どの木も昔見たやうな
川底に一縷の草や神無月
セーターや胸の英字に所以なく
温室の道へ這ひだす赤き花
書きだしのすでに日暮れて浮寝鳥
二日はや肉の記憶が舌のうへ
火の糧にならぬ花弁や山始
日溜まりの水となりけり雪兎
悴みて水源はときじくの碧
忘れじと書く寒林の途中から
春暁や何の忌となく雨が降り
闘鶏師大き時計を掛けにけり
よく晴れて蕨の下は苔の国
永き日の椅子ありあまる中にをり
清明や魚のぬめりのうすみどり
払へどもみづの吸ひつくさくらかな
紙風船喪の一団が暗がりに
桜湯に彼方の波の白むかな
花過のみづの匂ひに憑かれゐし
空腹が蝶を無残に見せてをり
潮干狩雲の写真のどれも似る
ポケットの闇揺れてゐるがうなかな
春暑し蜜吸ふ茎のうすら紅
江ノ島の日傘の白く混みあへる
夏芝に寝て笑はれてをりにけり
噴水にもつとも近きベンチかな
手庇のなければ見えず五月の塔
昼寝覚とほくの音のぽつぽつと
老鶯や斜めに弱る竹箒
亡きひとの写真のきよら団扇風
登りきて涼しき景となつてゐし
薔薇濡れてこゑのるつぼの真ん中に




6. 冷たき花 生駒大祐

鳥ゆける空のてまへは雪の街
やうやうとして初夢の橋渡る
牛肉に曇りぬ寒の銀食器
丘の冬木すでに憂ひのかたちなす
山冴えて里呆けたる野蒜かな
たれもみな裸足に生まれ野は紫雲英
とくとくと色流れ出る雛の家
子供来て死を言ひそめし椿かな
凡庸な西の風吹く蓬かな
眠るべく便箋ひらく鳥の恋
揚羽踏む真昼を映す潦
鯉抜けし手ざはり残る落花かな
花過を眠ればうをにまた近づく
蝶舞ふや撥条をもて時動く
筆立に筆を待たせて春ゆきぬ
金澤の五月は水を幾重かな
雲去れば力抜く空山法師
上京の夜は新樹さへ冷えゐたり
列車の灯糸引きて去る緑雨かな
筍を煮てゐる白き時計かな
明るさに箒たふれし白牡丹
はつなつを夜の友訪ふはなんとなく
水輪広がる梅の実をたなごころ
瓜の花冷たし水の中の手も
呼び止めし汝は何用夏蓬
蝸牛来ては波立つ月日かな
蜘蛛の糸ときをり水に触りけり
風にして午後しづけさの立葵
雨ながら外用の夏薊かな
花菖蒲自在に白をあつかへり
触れて消す灯も夏雨の夜なりけり
空蟬のこぼれて今朝は波のうへ
はしやぎあひつつ夕立の縁へ逃ぐ
刻々と雨になる屋根花木槿
夏風邪にあらはれて直ぐ薬缶へ火
草に遣る湯呑の水も晩夏かな
玻璃さつとあをざめる秋立ちにけり
雁ゆくをいらだつ水も今昔
餉の梨といま水中の刃物かな
かげろふや天才にして長き生
霧雨や汝を疎みては幾鏡
十月も末のかの絵は買はぬまま
椎の実を拾ひしままに渚まで
湖は拙き波の草紅葉
紅葉鮒身じろぐ水の粘りかな
飽くるなき大空や枯芝に寝て
大根の餉に思はずの言葉かな
目瞑るにわづか足らざる霜の花
大笑のつひの涙を炬燵かな
寒鯉の目覚めて意味を離れけり




7. 白  大塚 凱

逢ふたびに微かに老いて朴の花
白シャツを脱いでも燈台が遠い
素裸になつて欅にすこし似る
飛込の音が吸はれて樹のみどり
献血ができないからだゆゑ泳ぐ
浮輪から獣のやうな息を抜く
恋びとを砂丘とおもふ午睡かな
仙人掌に夕星ほどの花きざす
帆と見えて鳥は涼しい距離にゐる
虹の脚わたしのゐない街に立つ
乳母車蚯蚓をいくつ轢いてきた
腕時計灼けて帰つて来ない鳥
迷ひ子のときに花火をふりかへる
八月の鋭利な雨に船を待つ
帰りくる帆があり秋の名もない帆
もの言はず墓参の父にライター貸す
踏切はカンナを揺らすために鳴る
かぎりない椋鳥の見てゐるつむじ
秋よ詩を読むこゑが思つたより若い
週刊誌の女に露が沁みてゐる
学問は月に背くといふことか
蚯蚓鳴くランプが冷めてゆく時間
明けながら野のひろがつてゆく檸檬
恋そして吹かれてやまぬ真葛原
胸がちに東へゆけば霜鳴れり
枯野から白い畳にゆきあたる
龍の玉さぐりて泉汲むこころ
抱き締めても石焼藷のやまぬ湯気
買はれゆく聖菓の白を鳥と思ふ
野良猫に眠るべき箱クリスマス
嚔してこころ曇天へと紛る
さびしさが森からやつてくる毛布
古日記大海深く夜を蔵す
うつくしい文がおほきな火事になる
そのみづのどこへもゆかぬ火事の跡
冬の壁さつき見た木を忘れてゐた
傘の骨からつはぶきの花になる
爛爛と雪眼をひらく夜行バス
丘へ来て雪解のペンが走り出す
二月ひとり碇のやうな辞書を買ふ
窓枠に蜂死んでゐる大試験
如雨露から虹があふれて赤黄男の忌
絵に描いてゐるとさくらが壊れだす
暮れかねてゐる抽斗のやうな母
鳥の巣をくづず月光かもしれぬ
柳その奥へ遊びにゆくおとな
春服をならべて夜がありあまる
花の名の女よ朝寝してゐても
捨てられた椅子を見てゐる新社員
肺ふたつ労働祭の風の中




8. ふるきづ 仮屋賢一

竹馬を道間違へて降りにけり
だんだんと赤の他人へ雪だるま
社長まだ法被着馴れず寒造
神の座の光を纏ひ追儺の矢
郵便配達ふもとの霞率ゐて来
海苔船の海苔を払ひて舫ひけり
声色といふ色ありて石鹸玉
卒業の列つぎつぎに傘たかく
まづは眼の春塵拭きて閻魔像
春の風邪冷ましすぎたる湯を沸かす
啓蟄のゲームカセット吹いて挿す
呼べばすぐ開く写真屋つばくらめ
はんぶんは辛夷のはうへ海の風
煉瓦棟赤く旧りゆく雪柳
鶯の飛ぶまへ力抜いて鳴く
真ん中に要らない器械ある飼屋
木匠の飼屋の梁の覚書
どこからか濁流となる鳥曇
護符多く吊せる鞄青き踏む
遠足や草で拭きたる靴の裏
叩くたび皺の増えゆく紙風船
売り切れてしばし風船売のこる
宙のものすべて軽さう花菜畑
後ろよし前よし花菜よし発車
草笛のだんだん下手になつてゆく
鯉のぼりおろしてさつと撫でてやる
全身を扇で指して確認す
きづすぐにふるきづとなる実梅かな
宮の樅山を突き出で大夕立
かき氷親子の匙の入れ替はる
神還すのちの神輿の重きこと
月下美人老いたるまへに仕舞ひけり
ゆるやかに坂のはじまる桔梗かな
竹の春行幸の碑に折りかへす
鶏頭を過ぎて話し手替はりをり
記念写真案山子いちばんいい笑顔
美術展部屋の真ん中ぽつかりと
近きほど自棄に描ける曼珠沙華
源流にものの沈まず松手入
長音に曲を終はらせ冬支度
ネクタイに鋒ふたつ冬に入る
埋火や仏描くに音の無く
裏方は靴を履きたる聖夜劇
絨毯をはみでて寝言おほき犬
柴漬を見まはる嵐山の風
懸想文売札束に札仕舞ふ
懸想文もらひて犬によく嗅がる
すずしろのつひでに菘切られをり
初弘法店主と雨を案じあふ
連載の明日にはじまる福寿草

2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)


2016-02-07

【週俳1月の俳句を読む】仮屋賢一 お隣、失礼します。

【週俳1月の俳句を読む】 
お隣、失礼します。

仮屋賢一


小説を読み終えると、その世界に取り残されたような気持ちになることがある。現実に戻ってこなくちゃいけないのだけれども、なかなかできない。したくない、というほうが正しいのかもしれない。そういう小説は、えてしてどんどん読み進めてしまうものなのだけれども、それは、作者の(つくる)世界に惹きこまれれば惹きこまれるほど、そうなのだろうと思う。

海にどこか燃ゆる匂ひや初写真  今泉礼奈

ケーキ詰めて箱やはらかし冬夕焼  同

釦に糸頼りなし春遠からじ  同

6・7・5のリズムで読むことのできる俳句をピックアップしてみた。これら3作品に共通するのは、最初の6音の部分で、読者はぐっと惹きつけられて、自ら身を乗り出す。え、どれどれ、と顔を近づけるように。

読者はもう身を乗り出しているのだから、作家の気づきや驚き、感動を、主観に支えられている真ん中(中七あたり)の部分において追体験することは容易なこと。

たとえば「ほら、この窓覗いてごらん」と言われて「え、なになに」と窓から外を見る。いろんなことを思っていると、「海のあそこあたりに見える岩、◯◯みたいでしょ」と言われる。共感したり、いや△△でしょうと思ったり、そういうやりとりが楽しい。こういうやりとりができるのも、お互いがそれぞれに体験して、それぞれの感情を抱いているからこそ。追体験することで、そのやりとりに参加ができる。

これらはそんな作品なんじゃないかな、と思えてきた。他の7作品が音数としてもリズムとしても綺麗に収まっているのに対し、読者に語りかけてくるような3句。ただ読むだけでなく、作者がときおり語りかけてくるからこそ、作品群全体が人と人との対話のあたたかさによって包み込まれる。作者が読者のそばにいるような、そんな感じ。


牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ  椎野順子

貝柱切れば牡蠣開くゆつくりと  同

牡蠣開け師開けくるる牡蠣そのまま食ふ  同

「先端」てふ牡蠣や身と海水を飲む  同

『身と海水』は全10句がすべて時系列順に並んだ一連の光景だと思えるのだけれども、そう考えればここの時間があからさまなくらいに密。貝柱を切って開ける動作には、ここに挙げた4句のうち前半の2句も費やして、牡蠣への期待が増すばかり。「ゆつくりと」なんてもう確信犯だし、実際以上に、ゆっくりだと感じるのだろう。焦らされて、焦らされて、そして掲句3句目で渡されるやいなや、「そのまま食ふ」。この勢いの良さ、手に取るように分かる。

ああ、こうやって僕は作者の経験を追体験している。時間の疎密が、実際にその場で経験をしている作者の感覚につながっている。時間がコントロールされることによって、読者が作者の世界観に自然と引きこまれていってしまうのである。もはや読者も、作者の隣の椅子に座って、同じ牡蠣を注文して食べている。

こうなると、4句目を読めばそれ以上何も言われなくたって「先端」という牡蠣が絶品で、海水が与える塩加減のバランスも絶妙なのだろうな、だなんて思うのは自然なこと。正岡子規は「つりかねといふ柿をもらひて」、「つり鐘の蔕のところが渋かりき」と詠んだけれども、それと比べれば「先端といふ牡蠣をもらひて」詠んだのがこの句。子規とは違って、その食いっぷりを描いてすべてを表現する。このときばかりは、目の前の牡蠣開け師はもちろんのこと、この牡蠣を産んだ人、海、地球に感謝しているのかもしれない。

ああ、ごちそうさま。





第454号  2016「週俳」新年詠 ≫読む

今泉礼奈 顔の高さ 10句 ≫読む

椎野順子 身と海水 10句 ≫読む

第458号 2016年1月31日
曾根 毅 国 旗 10句 ≫読む

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 11 加藤絵里子 12 加藤御影 13 きしゆみこ 14 仮屋賢一 15 北川美美

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11 加藤絵里子 「ものの芽」



12 加藤御影 「蛇苺」



13 きしゆみこ 「まつはる色」


 14 仮屋賢一 「鷲掴む」



15 北川美美 「梅日和」






11 加藤絵里子 「ものの芽」 ≫テキスト
12 加藤御影 「蛇苺」 ≫テキスト
13 きしゆみこ 「まつはる色」 ≫テキスト
14 仮屋賢一 「鷲掴む」 ≫テキスト
15 北川美美 「梅日和」 ≫テキスト


2015角川俳句賞落選展 14 仮屋賢一「鷲掴む」テキスト

14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

天辺の尖れば家や夏きざす
横笛の音のときどき若葉光
最後まで音の鮮やかなる新茶
母の日や妹に訊く母の趣味
大袈裟に幸せ束ねカーネーション
鯉幟肥れるものを男とす
新緑や鬣かたきチェスの馬
ゆたかなる水ゆたかなる扇流し
扇流し水の機嫌を訊ねつつ
三船祭鷁首の龍を惑はせて
桜桃忌手足を描けば人となる
箱庭に夜逃げのやうな家のあり
霍乱やジョーカーの札入れ忘れ
樽廻船菱垣廻船心太
秋さがし終へし児らより休み時間
魚の絵の遊ぶお猪口や秋の風
大学の鬼門に実家天の河
留石を固く縛れる秋思かな
セスナ機も花野もおなじ風のなか
西口のどこか分からぬ神迎
絨緞のアラブの花を嗅ぐごと寝
味噌汁に海のもの入れ漱石忌
方違して竹馬を片付けり
小道具のパンはほんもの聖夜劇
編曲はクリスマスローズの部屋で
古暦すこし汚してより捨てり
夜通しの静かな雨や宝船
人日のニュースは人を呼び捨てり
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
終ひには紐いきいきと猿まはし
煙ごと串焼買ふや初戎
初恵比須神に冗談言ふことも
万札の上に銭投げ残り福
杖買うて使はずかへる初弘法
花の兄や我が尻つけて生駒山
楽園に音の少なき武満忌
下萌や旧字のままの解説版
大試験我が名一文字づつに意味
語呂の良き神より憶え地虫出づ
駘蕩や他人(ひと)の賽銭にて祈る
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
苗札のたつぷりと水もらひけり
入口の横に窓描く巣箱かな
春雨や市場の陰の地蔵尊
笛吹きの声変はりして桃の花
逃げ道を多く拵へ壬生狂言
水性の朧油性の朧かな
今日中に批評一編蔦若葉
ちやうどよい齢はいくつ春日傘
花水木けふは午後よりはじまる日



■仮屋賢一 かりや・けんいち
1992年京都府生まれ。関西俳句会「ふらここ」代表。京都大学工学部情報学科。作曲の会「Shining」会員。Lotus Castle - 俳句のある空間

2015-07-12

仮屋賢一 誰彼が 10句

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週刊俳句 第429号 2015-7-12
仮屋賢一 誰彼が
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10句作品テキスト 仮屋賢一 誰彼が

仮屋賢一 誰彼が

佳き句より付箋はみ出て梅雨籠

日雷閉づればずるるパラフィン紙

雲の峰獣ほとんど繋がれて

屋上に仮店舗ある涼しさよ

籐椅子のジョーカー右往左往かな

誰彼が見る誰彼が蛍指し

羞づかしき罪のいくつか形代吹く

閂をはずして茅の輪とほまきに

茅の輪くぐる前の人より頭下げ

夕立や旧字の交じる注意書

2014-07-13

【週俳6月の俳句を読む】仮屋賢一 俳句の色彩感

【週俳6月の俳句を読む】
俳句の色彩感

仮屋賢一


最近、印象派の展覧会というものが至るところでのべつ開催されているような気がする。フランス印象派という語を聴いた時、誰を連想するだろうか。マネやモネ、ルノワールといった画家、もしかしたら、ドビュッシーやラヴェル、イベールといった作曲家。どの藝術家の作品も、自分自身の好みである。

それらの作品に共通しているのは、独特な色彩感覚。ぼんやりしているようで、鮮やかな彩り。かと思えば、はっきりと色分けされているのに曖昧なままの空気感。このような印象は、絵画だけでなく、音楽にも感じるから不思議である。自分に共感覚があるわけでもなさそうなのだが、非視覚的なものにも色彩を感じるのだから不思議だ。

俳句における色彩感覚ってどうなんだろう。とりあえず、色の名前が現れている俳句を取り上げてみよう。

●『祝日』 陽美保子
みどりの日犬は片脚あげにけり
大安の振替休日金魚玉
母の日の夜の青空仰ぎけり

●『六月ノ雨』 髙坂明良
しらたまを刺せばたちまち手錠かな  
父の日を埋める白魚集まりぬ
ソファーごと沈み宇宙で薔薇が浮き

●『お手本』 原田浩佑
重たさの紫陽花紺を身に受けて

●『六月の日陰』 井上雪子 
届かない深さにこたへ青銀杏
君だけを遺して暮れる枇杷匂ふ

●『夏岬』 梅津志保
青嵐明神の旗起こしけり
紫陽花やのれんを仕舞う定食屋
白玉や口ごもりたる話あり
翡翠の繰り返し打つ水面かな
白球の白さ受け取る夏の空

●『春の山』 西村遼
青年の太唇や春の雨
しろい野風あかい浮き輪は転々と

翡翠色、枇杷茶色なんていう日本語独特の色の名前もノミネートしてみた。こうしてみてみると、日本語の言葉は、色に溢れていることに気づく。
いや、日本人は色に対する感受性が豊かだから、様々な言葉に色が使われ、また、様々な言葉が色の名前となるのかもしれない。

話が逸れた。こうして並べてみて改めて思うのは、俳句の中に色が現れるということは、俳句の色彩感と別物であるということだ。

『祝日』は、等身大の日常を、そこに素直な感情も織り交ぜたような10句。
先に掲げた3句における色は、句の世界の背景となる。色というよりも、色の持つイメージが句をそれとなく支配する。

『六月ノ雨』に関しては、白の現れる2句は、色が前面に出てくるというよりも、「しらたま」「白魚」としてのイメージがまず先にある。
薔薇の句、薔薇の強い色は確かにそこにあるのだが、それも全て句の世界観に取り込まれ、色は単なる一要素と化している。
調性から脱却した音楽の中で鳴り響く和音のように、不思議な世界観の中で、色は無機質に作用し、空間を構成する。古典美・伝統美とは違う美が、そこにある。

『お手本』、ここからは、これから色彩が生まれてきそうな、そんな予感がある。色彩が生まれる、その直前の世界。逆説的な色彩感、とでも言おうか。
掲句もそう。紫陽花と紺という二つの要素によって色も響きあうが、まだモノトーンの世界。その先に、色彩あふれる世界が待っているのかもしれない。

『六月の日陰』の掲句、心の中を目の前の風景に投影したような色彩感覚が、そこにある。
青銀杏の句も枇杷の句も、印象としてはそこには似たような色しかないのだが、モノトーンの世界とはなまた違う。
青銀杏というただそれだけで、そこに光の明暗の対比が存在し、枇杷と夕日の強い色のイメージは、その裏にある闇をも髣髴させる。
心の内を色に託して語る。ロマン主義をも髣髴させるような言い方である。

『夏岬』は色彩が世界に輝きを与えている。
紫陽花の句は水彩画になりそうな定食屋だし、翡翠の句はその一瞬を捉えた写真のような光景の中に、翡翠が美しく映える。
白球の白さは、眩しすぎるほどの綺麗さ。どこか写実的な色彩感がそこにある。

そして、『春の山』。掲句にはないが、最初の句

楼蘭國蜃気楼庁喫煙室

が、どこかぼんやりとした空気感を作り上げているよう。
浮き輪の句は、ストレートなまでに色を詠み込んでおり、夏の句である。
だが、作品全体を支配する空気感に加え、春の気分が抜け切らない位置にこの句が置かれているせいもあるのだろう、「あかい浮き輪」は少しぼやけた感じで、点々とあるような印象。
「しろい野風」の白さが、鮮やかなはずの浮き輪の赤さと妙に融け合う。遠景として見るからこそ美しく見えるこの構図こそ、どこか印象派を髣髴させる部分がある。

花冷えの広場に烏降りたちぬ
胸間を蝙蝠が飛ぶ花が飛ぶ

これらの句にも、同じように、靄がかった色彩感があると感じるのは、自分だけであろうか。

そういえば、フランスで印象派が盛んだった頃、別の地では世紀末ウィーン文化が展開されていた。音楽では後期ロマン派の作曲家が活躍、また、十二音技法による音楽の誕生などといった出来事があり、別の分野ではゼツェッシオン(ウィーン分離派)が結成されたりと、この地でも大きな動きがあった頃であったのである。

同時期に別の地でそれぞれの大きな発展を遂げる藝術。そんな時代に憧憬を抱きつつ、これらの作品群をもう一度眺めてみると、こちらも盛りだくさんで様々な美があることに気づく。なんだ、十分面白いじゃないか。

これらの作品群に見られる十人十色の美を、1900年前後の時代の藝術家たちに見せてみたい。

そう、フランス印象派も、世紀末ウィーンも、そこにはある同じところの藝術に感銘・影響を受けた人々がたくさんいる。
19世紀といえば、幕末から明治維新。鎖国も解かれ、日本が国際社会に現れる、ちょうどその頃である。
1867年、パリ万博において、日本が初めて万国博覧会に参加した。
それを機に、ヨーロッパを中心に興ったのが、ジャポニスム。

彼らの目に、これらの俳句は、これらの日本人の美は、魅力的に映るのだろうか。


第371号 2014年6月1日
陽 美保子 祝日 10句 ≫読む
第372号 2014年6月8日
髙坂明良 六月ノ雨 10句 ≫読む
原田浩佑 お手本 10句 ≫読む
 第373号 2014年6月15日
井上雪子 六月の日陰 10句 ≫読む
第374号 2014年6月22日
梅津志保 夏岬 10句 ≫読む
第375号 2014年6月29日
西村 遼 春の山 10句 ≫読む

2014-04-27

仮屋賢一 手紙 10句

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週刊俳句 第366号 2014-4-27
仮屋賢一 手紙
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10句作品テキスト 仮屋賢一 手紙

仮屋賢一 手紙

花守の住所に花の名前あり

背ばかり撮りをる父や知恵詣

レガッタの真白き艇を応援す

桜蘂未踏の青に降りにけり

霧島や都に火事も洪水も

受けらるるもの全部受け花水木

占ひの良きを忘れて苜蓿

黄にあれば花菜なるらむ土手眩し

音響に設計図あり八重桜

春夕焼郵便受で手紙読む

FAQ ふらこことは?と思ったら 仮屋賢一

FAQ ふらこことは?と思ったら

仮屋賢一



このページは、ふらここに関する FAQ《(in)frequently asked question》集です。

ふらここに関する疑問が生じた際は、とりあえずこちらの(I)FAQ集をお読みの上、それでも解決しない場合は窓口 furakoko.819〈at〉gmail.com (〈at〉をアットマーク@にご変更ください)までお問い合わせください。


Q1. 「ふらここ」って何?

A1. 関西俳句会「ふらここ」のことです。関西の大学生を中心に、社会人までをも含む若手の俳句集団です。


Q2. だから「ふらここ」って何?

A2. あ、そっちですか。「ぶらんこ」の別名です。人口に膾炙している言葉でないので、電話などでは大抵訊き返されます。


Q3. 関西ってどの範囲?

A3. あなたが「ここは関西だ」と思えば、そこは関西です。


Q4. 関西在住じゃないと入れないの?

A4. あなたの気持ちの一部だけでも関西にあれば、たとえ世界中のどこにいようと入れます。現に、東日本にもメンバーはいます。興味がある方はお気軽にご連絡ください。


Q5. 何をしているの?

A5. 月に2回ほどのペースで、句会や吟行を執り行っております。場所は、京都や大阪が主ですが、他の場所へ赴くこともあります。


Q6. 個性的な活動をしているって聞いたけど……

A6. はい。2011年の創立以来、徹夜で活動をしてみたり、裁判所や映画館に吟行に行ったりなど、様々な活動をしてまいりました。最近では、調理室を借りてチョコフォンデュ句会を行ったり、ある人物を対象にサプライズ卒業式を執り行ったりなど、他にないバラエティに富んだ活動も行っております。


Q7. 真面目な活動はしているの?

A7. ふざけてなどおりません。いつでも本気です。


Q8. いや、そうじゃなくて……

A8. 勉強会の開催経験もありますし、一般的な句会や吟行、また、連作俳句の検討会などの活動も行っております。


Q9. 代表って誰?

A9. 仮屋賢一が務めております(2014年4月現在)。何かご用命があればお気軽にどうぞ。


Q10. ふらここの会員と非会員との見分け方は?

A10. 人が集まった際、眼鏡を掛けている人数の割合を気にしだしたら、高確率でその人は会員です。


Q11. 年会費、値切って

A11. そもそも徴収しておりません。


Q12. ふらここって句会だけ?

A12. 俳句又は会員に関する様々な情報共有の場でもあります。


Q13. 会員ってどれくらいいるの?

A13. 現在で50人は超えております。今回の「ふらここ春の蟲祭り」に俳句を寄せた人以外にも会員はいます。


Q14. ゴキブリ好きなんですか?

A14. 彼だって生きているんです。


Q15. 皆さん俳句はご自身で?

A15. 句会では席題も用意しているので、ゴーストライターの介入する余地はありません。Yahoo!知恵袋に頼んだってろくな俳句が集まりません。


Q16. SNSは利用しているの?

A16. Facebookページ(https://www.facebook.com/furakoko)、Twitterアカウント(https://twitter.com/furak0k0)があります。


Q17. 恋愛禁止なんですか?

A17. もしも、ふらここのメンバーで最近博多へ行った人がいるならば、それは旅行です。


Q18. 関西で若い俳句の人たちと連絡を取りたい!

A18. とりあえず、ふらここまたは代表・仮屋へご連絡ください。もっと若い高校生の方がいいなんて言わないで。


Q19. っていうか、まともな人いないの?

A19. 俳句の集団にそういうこと求めます?


Q20. どうせみんな俳句甲子園経験者なんでしょ

A20. そんなことねーし、大学以降で始めた人だっていっぱいいるし。


Q21. みなさん俳句以外にはどんな活動を?

A21. 様々です。奏でている方、踊っている方、働いている方、跳んでいる方、学んでいる方などなど、バリエーションも豊富です。


Q22. 算数が苦手でも入れますか?

A22. 当団体では、毎回の句会で「一人あたり決まった句数を提出した際の俳句の総数」、時に「眼鏡の着用率」の計算を行っております。これらの計算ができない場合は補習授業が開講される場合があります。


Q23. 俳句モードのスイッチが入らない
A23. 起動するには俳句歳時記(別売)が必要となります。句帖(別売)も併せて入手いただくことをお勧めいたします。


Q100. いきなり質問番号が飛んだのですが

A100. キリが無いので途中を割愛しました。そもそも、何か質問があれば連絡先は挙げていますし、今更ながらこのページの存在意義に疑問を感じた結果でございます。


Q101. では、最後に一言

A101. まだまだ序の口です。



ぶらんこのことを危険だと思って撤去したとしても、ふらここのことはいつまでもご愛顧ください!


後記+プロフィール366号

後記 ● 仮屋賢一


関西俳句会「ふらここ」は活動4年目を迎え、ついに週刊俳句をまるごとプロデュースできるまでに至りました。

4年目にして初の出来事が、今回の週刊俳句第366号。366といえば、4年に1度の閏年。こういうところに偶然のめぐり合わせがある、と感じてしまうあたり、自分は考えすぎであると考えざるを得ません。

いくら一つの団体であるとはいえ、オーケストラのようにそれぞれに明確な役割分担があるわけでもなく、表現の方向性を一つに導いてくれるような指揮者もいないわけですから、俳句も自由奔放、てんでバラバラ……となってもおかしくないのですが、さすがふらここ。バラエティには富んでいると自負しておりますが、団体のカラーも出現しているのではないでしょうか。これを、ふらここの代表の人間性の賜物と言わずして、如何に表現すべきでしょうか。

さて、こんな我々ふらここですが、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。

まだ、プロフィールが残っておりますので、もうしばらく、お付き合いください。



no.366/2014-4-27 profile

仮屋賢一 かりや・けんいち
1992年京都府生まれ。関西俳句会「ふらここ」代表。京都大学工学部情報学科。作曲の会「Shining」会員。Lotus Castle - 俳句のある空間

山本たくや やまもと・たくや
1988年生まれ。船団所属。

木田智美 きだ・ともみ
1993年大阪府生まれ。別俳号、雀子。関西の星屑。龍谷大学。TwitterID:@kida2xyz

山下舞子 やました・まいこ
1994年愛媛県生まれ。同志社女子大学。

寺田人 てらだ・じん
1990年兵庫県生まれ。広島大学。広島大学俳句サークルH2O、立体交差、青春句会、くかいぷ元幹事、くかいぷち幹事。第5回石田波郷俳句大会新人賞秀逸10句選、芝不器男俳句新人賞一次予選通過。TwitterID:@trfhh0jin

中山奈々 なかやま・なな
1986年大阪府生まれ。「百鳥」同人、「里」人、「くまねこ」(ネットプリント)のサボってる方、「手紙」のうちの一人。「ほめてあげたい人賞」(中学生時代)。たまに、なかやまなな。TwitterID:なかやまなな(@fukurofuaribai)、がらんちょ(@kamiwotakusan)

川嶋健佑 かわしま・けんすけ
1993年大阪府生まれ。俳号、ぱんだ。甲南大学。

小鳥遊栄樹 たかなし・えいき
1995年1月21日沖縄県中頭郡西原町翁長生まれ。本名、仲里栄樹。讃岐うどん穂の川吹田店勤務、青春元主催、若太陽、立体交差、ふらここ、里、群青、週活句会、象さん句会、-blog俳句空間-戦後俳句を読むにて連作連載中。第13回21世紀ケロリン俳句大賞学生の部優秀賞、第14回21世紀ケロリン俳句大賞一般の部入選。

栢原悠樹 かやはら・ゆうき
1995年1月15日三重県生まれ。立命館大学情報理工学部、立命館大学囲碁研究部所属。

黒岩徳将 くろいわ・とくまさ
1990年兵庫県神戸市生まれ。俳号、希望峰。俳句集団「いつき組」所属、2011年「関西俳句会ふらここ」を設立し、2014年卒業。第五回石田波郷俳句新人賞奨励賞受賞。

浅津大雅 あさづ・たいが
1996年広島県生まれ。京都大学文学部。

脇田躍志朗 わきた・やくしろう
1990年生まれ。「百鳥」所属。

塩分 えんぶん
1992年4月6日大阪府茨木市生まれ。本名、田口明日香。神戸親和女子大学在籍(現3回生)。

吉村俊洋 よしむら・としひろ
1992年大阪府生まれ。

いけ
1991年茨城県生まれ。都留文科大学、くかいぷち。TwitterID:@iiiiikera(シーチキンbot)

甲斐千晶 かい・ちあき
1991年大阪府生まれ。

寒天 かんてん
1992年大阪民国生まれ。京都外国語大学。Twitter(https://twitter.com/xk_10x)

喜川 きがわ
1993年栃木県生まれ。京都造形芸術大学。

光 こう
1989年生まれ。2011年学生俳句チャンピオンベスト10。

丸山美早 まるやま・みさ
1992年広島県生まれ。俳号、たみこ。広島大学。

抹茶フラペチーノ まっちゃふらぺちーの
1995年愛媛県生まれ。早稲田俳句研究会。

中田岳俊 なかた・たかとし
1993年愛媛県生まれ。俳号、ひで。京都大学。第13回神奈川大学全国高校生俳句大賞最優秀賞。

野住朋可 のずみ・ともか
1992年愛媛県生まれ。神戸大学。

大林桂 おおばやし・かつら
1993年神奈川県生まれ。同志社大学、俳句結社『鷹』。

岡田朋之 おかだ・ともゆき
1992年大阪府生まれ。甲南大学。

水谷衛 みずたに・まもる
1996(平成8)年京都府生まれ。俳号、鯖。京都大学文学部。第16回俳句甲子園地方大会最優秀賞、全国大会入選。TwitterID:@mackerel8129(鯖江@ぶんしゃかぶんぶんぶんがくぶ(悟))

沙汰柳蛮辞郎 さたやなぎ・ばんじろう
呪われし1995年福井県生まれ。本名、川中秀明。同志社大学商学部1回生。

和氣由布子 わけ・ゆうこ
1994年愛媛県生まれ。俳号、さしはら。京都大学経済学部。第13,14回神奈川大学全国高校生俳句大賞入選。

辻本鷹之 つじもと・たかゆき
1996年奈良県生まれ。洛南高等学校出身、和歌山県立医科大学在学中。

福家 ふくや
1988年兵庫県生まれ。京都大学。

羽田大佑 はだ・だいすけ
1988年3月6日大阪府生まれ。俳号、ローストビーフ。吹田東高校(第7・8回俳句甲子園出場)にて始める。百鳥。第16回お~いお茶新俳句大賞 後援団体賞NHK文化センター選、第8回神奈川大学全国高校生俳句大賞 最優秀賞、第6回鬼貫青春俳句大賞 大賞、第7回龍谷大学青春俳句大賞 最優秀賞

東里こずえ ひがしざと・こずえ
1993年沖縄県生まれ。京都産業大学。

品川由衣 しながわ・ゆい
1993年三重県生まれ。立命館大学。

やそーか
1995年愛媛県生まれ。