2022-08-21

仮屋賢一【週俳6月7月の俳句を読む】一觴一詠という時間の使い方

【週俳6月7月の俳句を読む】
一觴一詠という時間の使い方

仮屋賢一



夏の休みの日、どこかでぼーっとしていようか、アクティヴに過ごそうか、いつも迷う。でも結局、ぼーっとする暇もないくらいアクティヴに過ごす方がなんだかんだ楽だと思ってしまう。そうしてだんだんぼーっとすることが難しいものになっていく。

茂木健一郎氏(@kenichiromogi)は数年前のツイートで、「夏休みの本質は、ぼんやりすること、ほうけることだと思う。」と述べている(全文はこちら)。やっぱり、ぼーっとすることって大切なことなんだな。というより、むしろどれだけ魅力的なことだろうか。何の後ろめたさもなく、気持ちよく一日中ぼんやりできたらなんて幸せなことだろうか。


明易のひかりが池に凝りけり  森賀まり

川の流れに棹をさした瞬間、水面には些細な歪みのようなものが生じる。個人的な感覚だけれども、「明易」にはそれと似たような現象が、時間に対して生じているように感じる。時間の歪みなんて時期や時間帯に関係なくのべつに生じているのだろうけれども、大きな時間の流れの中でとびとびの点として存在していて、ゆえに観測ができないだけなのだと思っている。

「明易」には、そんな本来観測不可能なものを現前させるだけの力がある。そして多分、気持ちよくぼんやりとしていなきゃそんな「明易」の魔法の力にあずかることなんてできないんだろうな、なんて思うと、憧憬の念が湧いてくる。


家族のみ夫のみ愛せ滝の音  津髙里永子

「自分が愛されたけりゃ、まず他人を愛せ」とか「他人を愛する前にまず自分のことを愛せ」とかいろいろ聞くけど、要するに愛するって簡単じゃないよねってこと。

まあ、「愛する」なんて、考えれば考えるほど徒に難しくなってゆくだけで(それはいいことなのかもしれないけれども)、その極致は『美女と野獣』の名曲『If I Can't Love Her(愛せぬならば)』にも表現されているように思う。(ミュージカル<舞台>版だけの曲なのでご存じでない方も多いかもしれないが)

愛するという行為は、ひどくアクティヴだけれども、能動的、積極的にに考え続けていても解決しないことだってある。

「家族のみ夫のみ愛せ」というのも難しいことのようだけれども、見方によっては「家族だけでいいんだよ、もっといえば夫だけでもいいんだよ」なんて励ましのようにも聞こえる。

何度もいうけど、簡単なことじゃないんだけれどもな、でも「滝」なんていう、アグレッシヴな大自然にぼんやりと触れているだけで、なんだかやっていけそうな気持ちが湧いてくるもの。


スコールを跳ね上げてバス来りけり  杉原祐之

激しい雨の中、強かなバスがやってくる。客地だと、そこに勝手にその土地の人々の性格なんていうのも重ね合わせちゃったりしちゃうけれども、それも旅の一興。

そうやっていろいろなものに、ただただ圧倒されるだけというのもなんだか良い。

いい光景とか悪い光景とか、そういうことではないものを、いいとも悪いとも思わずに純粋に見つめて驚嘆することができるってとても素敵なこと。

この句は自然と人間の対比という構造で十分読み取れそうだけれども、個人的には、そんな複雑に考えず、人々の営為もひっくるめて、広義でいうところの自然の光景としてこれを捉えて味わいたい。ぼーっと味わっていたい。


こうやって作品の鑑賞を書いていると、はじめにアクティヴに過ごすか、ぼーっと過ごすか、なんていう二者択一を呈示してしまったけれども、アクティヴだろうがそうでなかろうが、そこに全身全霊ぼーっと過ごす時間があるかどうかで、その時間の価値は変わってくるんだなということに気づかされる。

一觴一詠という時間の使い方に漠然と憧れていたのだけれども、その憧憬の種類が、なんとなく見えてきたような気がする。


津髙里永子 練乳 10句 ≫読む  第792号 2022年6月26日
森賀まり 虹 彩 10句 ≫読む  第793号 2022年7月3日
杉原祐之 マニラ 10句 ≫読む  第795号 2022年7月17日

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