【週俳1月の俳句を読む】
お隣、失礼します。
仮屋賢一
小説を読み終えると、その世界に取り残されたような気持ちになることがある。現実に戻ってこなくちゃいけないのだけれども、なかなかできない。したくない、というほうが正しいのかもしれない。そういう小説は、えてしてどんどん読み進めてしまうものなのだけれども、それは、作者の(つくる)世界に惹きこまれれば惹きこまれるほど、そうなのだろうと思う。
海にどこか燃ゆる匂ひや初写真 今泉礼奈
ケーキ詰めて箱やはらかし冬夕焼 同
釦に糸頼りなし春遠からじ 同
6・7・5のリズムで読むことのできる俳句をピックアップしてみた。これら3作品に共通するのは、最初の6音の部分で、読者はぐっと惹きつけられて、自ら身を乗り出す。え、どれどれ、と顔を近づけるように。
読者はもう身を乗り出しているのだから、作家の気づきや驚き、感動を、主観に支えられている真ん中(中七あたり)の部分において追体験することは容易なこと。
たとえば「ほら、この窓覗いてごらん」と言われて「え、なになに」と窓から外を見る。いろんなことを思っていると、「海のあそこあたりに見える岩、◯◯みたいでしょ」と言われる。共感したり、いや△△でしょうと思ったり、そういうやりとりが楽しい。こういうやりとりができるのも、お互いがそれぞれに体験して、それぞれの感情を抱いているからこそ。追体験することで、そのやりとりに参加ができる。
これらはそんな作品なんじゃないかな、と思えてきた。他の7作品が音数としてもリズムとしても綺麗に収まっているのに対し、読者に語りかけてくるような3句。ただ読むだけでなく、作者がときおり語りかけてくるからこそ、作品群全体が人と人との対話のあたたかさによって包み込まれる。作者が読者のそばにいるような、そんな感じ。
牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ 椎野順子
貝柱切れば牡蠣開くゆつくりと 同
牡蠣開け師開けくるる牡蠣そのまま食ふ 同
「先端」てふ牡蠣や身と海水を飲む 同
『身と海水』は全10句がすべて時系列順に並んだ一連の光景だと思えるのだけれども、そう考えればここの時間があからさまなくらいに密。貝柱を切って開ける動作には、ここに挙げた4句のうち前半の2句も費やして、牡蠣への期待が増すばかり。「ゆつくりと」なんてもう確信犯だし、実際以上に、ゆっくりだと感じるのだろう。焦らされて、焦らされて、そして掲句3句目で渡されるやいなや、「そのまま食ふ」。この勢いの良さ、手に取るように分かる。
ああ、こうやって僕は作者の経験を追体験している。時間の疎密が、実際にその場で経験をしている作者の感覚につながっている。時間がコントロールされることによって、読者が作者の世界観に自然と引きこまれていってしまうのである。もはや読者も、作者の隣の椅子に座って、同じ牡蠣を注文して食べている。
こうなると、4句目を読めばそれ以上何も言われなくたって「先端」という牡蠣が絶品で、海水が与える塩加減のバランスも絶妙なのだろうな、だなんて思うのは自然なこと。正岡子規は「つりかねといふ柿をもらひて」、「つり鐘の蔕のところが渋かりき」と詠んだけれども、それと比べれば「先端といふ牡蠣をもらひて」詠んだのがこの句。子規とは違って、その食いっぷりを描いてすべてを表現する。このときばかりは、目の前の牡蠣開け師はもちろんのこと、この牡蠣を産んだ人、海、地球に感謝しているのかもしれない。
ああ、ごちそうさま。
2016-02-07
【週俳1月の俳句を読む】 お隣、失礼します。 仮屋賢一
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