2016-02-07

【週俳1月の俳句を読む】 どこかへ急ぐ必要も理由もない日 柏柳明子

【週俳1月の俳句を読む】 
どこかへ急ぐ必要も理由もない日

柏柳明子


元日の太陽沈むアスフアルト  矢口 晃

新しい年の最初の日の最初の夕暮れ、最後の光を残しながら沈む太陽は、さながらアスファルトで覆われた都市をも沈没させていくかのように感じられる。下五の「アスフアルト」という止めが読み手のうちで無機質な触感となり、実世界の落日があたかも人類の落日のイメージにまで広がっていく。どこまでも実景を描いた句だが、心象領域にまで踏み込んで読んでしまうのは、シンプルかつ的確に五七五の構成を生かし、詩型の力を発揮させているからだろう。


大なり小なり我らに未来あり淑気  池田澄子

掲句の未来は、陰を孕んだ空疎な明るさをまとっている。漢字で書かれているのに、響きはまるで「ミライ」とカタカナのような軽さを感じさせるのだ。何もかもインスタントでチープな意味に変換してしまった世界、未来すら金銭と引き換えに安易に入手できる現代。そのはざまを生の実感を伴ったささやかな夢を叶えんと、誰もが日々をあがいている。「大なり小なり我らに未来あり」という小気味よいテンポの弾みが、下五で一気に「淑気」という季語に集約されたとき、不確かな明日が「それでも、もしかして」という別の貌を見せ始める。不安と希望が等しく編み込まれた、確かに知っている我らのリアルな未来がここにある。


弾初を幼き日より弾きし曲  トオイダイスケ

ピアノだろうか。「幼き日より」とあるからは、技巧的にはそう難しくはない小曲なのだろう。小さい頃は手も小さくて鍵盤に届かず外していた音、たどたどしく紡ぎ出していたメロディ。大人になった今、同じ曲を滑らかにクレシェンド、デクレシェンドを交差させて、オクターブを銀河のように渡り高らかに歌い上げる。冬の鍵盤は他の季節に比べて殊に冷たい。その冷たさを感じている十指が音楽になっていく景が、この句からは生き生きと伝わってくる。「弾初」という季語をさりげなくも効果的に響かせた句といえよう。


棒の影棒にもならず去年今年  嵯峨根鈴子

一読、虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を思い出す。虚子の句を知らずとも、光と物体の距離が近いと細長い物体の影は広がった形になることが実際にある。影が必ずしも実体の形を忠実に映すことはないということ、そのことから実体の存在の不確かさが読み手に迫ってくる。棒にもならない(ひょっとすると、棒にすらなれない)、棒の影。「木偶の棒」という言葉もあるように、掲句は棒に託して自分自身への頼りなさを吐露しているかにも思える。年去り、新たな年来る時の流れ。そのあわいで、自分を見つめる作者のまなざしが印象的だ。


正直に信号を待つお元日  河野けいこ

いつもよりも人がいない、元日の静かな街。清新な雰囲気の中、外を歩いていると、いつも通りに規則的に色を変える信号。人がいないのなら、赤信号でも横断歩道をいっそ渡ってしまおうか。そんな思いが頭の片隅をチラリと過る。でも次の瞬間、なぜか待ってしまうのだ、これが。多分、その理由は今日が元日だから。一年のはじまりの日だから。どこかへ急ぐ必要も理由もない日。何となく正しいことをしてみたい、そんな気分。元日だからこそ、青信号を待ってみよう。「正直に」という言葉の使い方の意外性、そこから生ずるおかしみ。さらに、「お元日」といううやうやしいんだか、とぼけているんだかわからない季語がばっちりはまっている。だからこそ、「確かに、元日ってこんな感じだよな~」と納得する味があるのだ。そして、厳かながらも晴れやかな一年のはじまりの景が、気持ちよく読者に届く。


交番のぽつりと灯り去年今年  村田 篠

この句も、私たちが見慣れた街の一場面を的確に伝えてくれている。そのうえで、心にシンと沁みわたる句へ昇華しているのは、「去年今年」という季語の効果だろう。去年から今年への時の移り変わり。新年を迎える世間の賑わいをよそに、市井の安全を守らんと淡々と仕事を続ける交番。新年は目に見えて世界を変えるものではなく、私たちの心持ちを変える(ようにみえる)。その変化を安心して享受できるのは、私たちを危険から守ってくれる存在があるから(あるいは、そういう存在がこの世にあると思いたいから)。目立たない小島のような交番にも、確かに新年はやってくる。やがて、ぽつりと灯ったあかりは、誰にも等しく幸福な歩みが始まることを願う灯台にも思えてくる。



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