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2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第5室) 18.堀下 翔 19.前北かおる  20.宮城正勝  21.吉井 潤  22.Y音絵 23.北川美美

2016「角川俳句賞」落選展■第5室


18.堀下 翔 




19.前北かおる


  

20.宮城正勝 




21.吉井 潤 




22.Y音絵




23.北川美美
(2016/11/24 01:30追加)
18. 波の飛ぶ 堀下 翔

春の雲花入れし炉のつめたさに
宿出でて春の入江の横しぐれ
玄関に電話老いたり紫木蓮
大き花涅槃の海へ流れけり
浦みちに旅長じをる雪解かな
あかるみに椿の浮かぶ盥あり
夕東風や壺中に湧ける鯉の息
浜へ出て春の墓参の暑さかな
こぼれたる杏の花に影つのる
鱒二匹入れきしきしと魚籠鳴れり
花つけて樫の木の暮れ残らざる
本堂の闇漏れいづる桃の花
藤の花ひとすぢに吹き上げられし
葉まじりの桜へ波の飛びにけり
鮎季の峠に雲の浮き古りぬ
流さるる牡丹を音と聞きしのみ
桜木にうち捨ててある蛇の衣
冷えながら届く日差やあやめぐさ
蟻の穴川瀬に細りゐたりけり
夏菊をはなれぬ影が花桶に
涼しさや聞けば疎としてお念仏
橋かけて川のしたしさ夏の雨
蜘蛛の糸一本や灰びつしりと
あをあをと梯子透けたる竹簾
水遊するとき呼んで呉れしかな
夏桔梗兆すなりける水の音
平日は本を開かず白木槿
牽牛花開けば白きばかりなる
声しげく露の御寺をあゆみきし
萩焼けばあらはに炎かをりゐる
しじまなる糸瓜の水を取りにけり
日晒しにほとけを運ぶ通草かな
樅の木や月のまはりに夜の痩せて
水甕に喉元うつる榠樝の実
川すぢに吉備訪ひて秋みじかしよ
水くらくあをぞらうつす松ぼくり
この雲を峰とおもひし柿もみぢ
みづぐるま八手の花を流したる
楚々として日輪没す枯葎
はつ冬やいづみに出づる楓の根
くづれたる波より蜜柑あらはれし
山茶花に手をたまひあふ日暮かな
見えてゐるものの暗みに実千両
寒雁のうち出でたるは音たてて
茶の花へまなざし遠くしてをらる
雨がちにゆふべの来る蕪汁
手にしたる笹より雪の落ちにけり
ひとむらの山藤の葉の氷りゐぬ
雪うすく載せおしうつる瀬なりけり
来る舟に夜の先んずる霰かな



19 .応援歌 前北かおる

応援歌いまフィールドに水撒かれ
見せつけよ我らの起こす青嵐
円陣の笑ひ崩るる若葉かな
ゴールまで飛魚逃がすやうにして
サングラス小さくガッツポーズかな
新緑や短く鳴らすホイッスル
姫女菀試合に負けて帰るなり
えごの花テニス横目に入りつつ
昼顔や女連れなる草野球
刈り払ひ野にひと本のあやめ草
主なくて死ぬるものあり蜘蛛の網
葭切やベンチのやうな橋ありて
橋涼み産卵のさまつぶさに見
凪解けの風音澄むや青芒
篁に表門あり花紫蘭
夕涼や子を抱く同士庭先に
塀に抜く四ツ割菱や今年竹
茶畑や八高線の夕焼けて
踏切の真中西日を振り仰ぐ
夕陰に虞美人草の白さがす
月見草車道のほかは舗装せず
日輪のマーガレットに没さむと
身の内に試合の余韻髪洗ふ
青蔦や一階深く窪みをり
雲の峰乗り上げて家こぼつなる
豌豆を引くや園長園児どち
針金に丸太ン棒やポピー咲く
ガム嚙んでマーガレットの花に佇つ
じやがいもの花新築の壁汚し
柿若葉鞣したてなる艶をもて
みどり子を片手に抱へ夏来る
甲冑を鎧うて鴉若楓
軽暖のたつたか跳ぬるピアノかな
牡丹や一間づつの庭の畝
忍冬新道通さする気なく
冷やしうどん土間に履きもの散らかして
若楓石垣めかす護岸かな
万緑や丸裸なる鉄の橋
蘆原に固太りなる夏柳
黄菖蒲や干上がりて泥新しき
毛虫這ふむんごむんごと尺取りて
緑陰に絵本の家や扉をひらき
花浅沙水に倒るるまで吹かれ
ほたほたとものの絮浮く目高かな
店閉めて薔薇にかしづき奉る
裏庭の薔薇の溢るる小川かな
日焼して小さきピアス光らせて
タクシーもバスも大人し夏木立
田植どき水の緑の深まれば
乗り継ぎて茅花流しの野をさらに



20. 西日のできごと 宮城正勝

慶良間沖のたうつ孤独はたた神
漬茄子や今は昔の今朝のこと
夏燕やせ細りたる川しか知らず
押し黙り麦茶置く妻舌禍以後
梅雨寒や後期高齢という異界
終わりあるは慰め蝸牛も人間も
西日浴ぶ千年一日のとある日
息するも貧乏ゆすりも五月闇
見分けしは誰ならん茸と毒茸
県道の落石注意椎の花
砂利の道ここらで夕焼と別れんか
かぐや姫眠る夕焼けの乳母車
街中の陰を浚いて日の盛り
聖書はも文語がよろし籐寝椅子
緑陰に余生という語嘘くさし
蟷螂がどうしてここに夜のキッチン
いのち果て夏大根のごとくかな
人逝きて日盛りに靴あふれけり
酒瓶が西日に転がり逝きしとか
水を欲る汗をかかざる老いの腕
片陰を歩いてほととぎす学会へ
海上の道なつかしき浜防風
夕焼けを背の軒遊び亡びけり
鱧食うて後期高齢の志を果たす
梅雨寒や喪服連れ立ち朝の路地
夕焼けは切なし笛吹童子よぎる
手土産にメロンを買うも不戦の志
眼にて追う蟻の生老病死かな
惚けざるも不幸のひとつ百日紅
死はしつこしひとりのときの蜘蛛の糸
老いたれば海月となりぬアーケード
木のベンチに一息つきて夏送る
路地をゆく如才のなき一茶の忌
待たれたるたる死なり供花は夏の花
死者生者分かち麦茶置かれあり
棺はもいつも新し百日紅
夏菊に埋まりし死顔よく生きた
前のめりのひと日夏シャツ半乾き
誰も魚籠を覗くや西日の決まりこと
手酌の夜余震本震蚊を殺す
とある日の無為のただなか土用波
六月や生き残りしは佇めり
蜘蛛の網駐車禁止の更地かな
しじまあり灼くるつとめの石の上
これを食みしは今朝か昨日か干鱈食む
夕焼けや帰りなんいざサラリーマンへ
禁煙のただだだっ広き西日かな
夕焼けや海辺なれども心急き
みな背き冷酒ぬるくなるままに
自然死が近道ならん百日紅



21. 内海 吉井 潤

花時や七宝焼の耳飾り
花の雨大極殿の高御座
仄甘きビオフェルミンや春の水
春一番逆子くるりと宙返り
アルマイト弁当箱や風光る
差入の厚焼き卵弥生尽
裏店に光呼び込む藤の花
薬缶噴き始む草餅有難う
菜の花や末広がりの河川敷
歩毎に芦の角踏む木橋かな
春の海金平糖の波頭
水底は誰もが蒼き桜鯛
初夏の原稿用紙水浅葱
卯の花の中に廃家の柱かな
あぢさゐは水の気配のセルロイド
針箱の中の骨片五月闇
雨蛙背を撫でやれば眼とづ
驟雨来る股上辺りまで濡れぬ
哨舎にも虹の一色雨上がり
腹這ひて端居の人と笑ひけり
昨日よりけふを輪切りに夏来る
じゃんけんで負けて蝉食ふ黒ん坊
噴水は淡海に水を足しにけり
土用波ロールケーキに巻き始
みづうみを挟みて淡し遠花火
地拍子がほころび弛む残暑かな
蜩の崇福廃寺谷の奥
遠近にほこる溝萩隠れ里
方言「はびこる」
磐座を乱打する音野分かな
大花野布施をふるまふ伊吹山
町筋を抜くる秋燕店じまひ
こほろぎや寄木細工のオルゴール
月見亭へと蠟燭の道標
曳山の手拭貰ふ秋祭
白鳳の伽藍失ひ秋麗
騒めきが芦火を待つや闇の中
痩する牛秋耕終り返しけり
冬めくや袷の裾にしつけ糸
内海のどちらも故郷冬麗
密柑山西行庵を腹に乗す
焼き鳥のたれでくつつく丸い椅子
拳骨を突き上げ吼ゆる焚火歌
初飛行訓練場に降り然らぬ
地吹雪に電信柱鳴り止まず
黎明の水道橋や凍つる朝
寒釣の狂喜胸まで漬かりけり
河原の湯裸の横に薄氷
下萌や地下より響くサキソフォン
春寒し人事ひとごとなどと言ふ
逢坂や堰堤の花見ざるまま



22. 渦巻 Y音絵

空洞のやうな朝なり揚雲雀
松の幹を蹴つて雀や春嵐
吐きさうな朝を囀るばかりなる
糊白く厚く乾びぬ春休
しやぼん玉高速道路見えてをり
霾や働いてゐる救急車
花時の両目を入れて顕微鏡
ピンセット沈め消毒液朧
カーテンを見る酢もづくに箸つけて
朝寝ほどほどに躑躅を見に行く日
動物病院前の柳よ久々に
クレープワゴン 遠くに密に棚の藤
ごみ箱や茫と暮せば夏が来て
鯉幟ちやうどよく日の差し来たる
別々の葉や葉桜は葉を増して
明易の肘のひりひりしてゐたる
手鏡に前歯映りぬ麦の秋
梅雨晴や鋏開くに要る力
虹の近くに阿佐ヶ谷といふ駅が
ともだちのへんなをどりや夏薊
ぬばたまのジュース注ぎけり網戸して
テレビつけつぱなし真夏の動く月
噴水の止んでゐる間の嗅覚よ
薄く盛り上がる背中が空蝉に
したくちびるや夏の終りの貯水池の
親友はどの蜩を聞いてゐる
朝顔も褪せ初めにけり撮影す
かはいくてかたい箸置オクラの旬
サルビアもこどものこゑも疲れたる
稲妻や廊下てふ角ばつた管
どの色のグミも硬くて雨月なり
ふらふらする秋分の日の自室かな
虫の夜のアルコール綿汚しけり
涼しさよ海鮮丼の安き日の
花野ありはつきりと傾いてゐる
朝寒やはちみつといふむすびつき
水際に騒いでゐたり紅葉狩
林檎焼く間を鍵盤の浮き沈み
しぐるるや監視カメラを君は指し
雨粒は手袋に落ちバスが来る
牡蠣呑めばその流速を思ひけり
オリオン座歯の裏を言葉がまはる
白息や砂場に豹のゐてほしき
だるさうに君は笑むなり綿虫へ
枯蔦やおそく歩けば靴の照る
渦巻を描けば落ちつく霜夜なり
初夢のこと砂浜にすこし話す
雪の夜の君すこやかに勉強す
探梅の途中眠たき椅子ありぬ
からつぽの漁村のやうに日脚伸ぶ




23. 不在 北川美美

手は水を掬ひにゆきぬ麦の秋
しづかなるじやがいもの花日傾く
カーテンの襞のふくらむ青葉風
香水に紙縒りの先のひらきゆく
白日傘脚美しく迫りくる
開ききる薔薇の花びら崩さうか
欄干がくるぶし高や旱草
十八で離れし家に月夜かな
山の上より遠花火遠花火
子規の忌の紐引いて消す蛍光灯
ゆふべと同じ秋茜かもしれぬ
横たはる抗議の人や天の川
第三京浜より月離れゆく
旅客機の窓ごとに顔秋の暮
すでにある脚立と籠や林檎の木
馬の尾のほど美しき秋の風
寝返りを打つたび月の遠くなり
歯に当つる林檎や北の空低し
揺れ撓る大根の葉が荷台より
凩や狼祀る木の家に
東京に古きホテルや日記果つ
元日の門を開ければ前に犬
土塊は土塊を積み寒鴉
廃屋の氷柱を見せて信濃かな
アイゼンをつけるに作法ありにけり
雪掻きを了へたる軍手なのだらう
セーターを出て人の名を思ひ出す
雪原に人のかたちの窪みあり
鉛筆は兄の匂ひや春遅々と
春の水弾みて玉にならんとす
梅一輪つめたくなりし塩むすび
菜の花の暮れて人来る空地かな
口にせし芽吹くものみな土の味
永き日のコールタールを運びけり
きのふよりふくらむさくら遊ぶ鳥も
走ることすなはち桜吹雪かな
会議室仄暗くして桜見る
夜桜に背中を向けて座る席
花の雨あまたの円を描きけり
五月来て神様を描く七つの子
青杉にわれ隠れてや誰もゐず
茄子の花に黒き管ある夕かな
夜店にて星を忘れてをりにけり
Tシャツのかがめば伸びる背中かな
石段の先に湯殿や夏鶯
かち割りを頭叩いて食べにけり
昨日の蝿が部屋から出てゆかぬ
おのづから閉まる引戸や夏館
ハンカチの正方形となりしとき
夏の月うしろ歩きのさやうなら

2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)


2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 11 加藤絵里子 12 加藤御影 13 きしゆみこ 14 仮屋賢一 15 北川美美

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11 加藤絵里子 「ものの芽」



12 加藤御影 「蛇苺」



13 きしゆみこ 「まつはる色」


 14 仮屋賢一 「鷲掴む」



15 北川美美 「梅日和」






11 加藤絵里子 「ものの芽」 ≫テキスト
12 加藤御影 「蛇苺」 ≫テキスト
13 きしゆみこ 「まつはる色」 ≫テキスト
14 仮屋賢一 「鷲掴む」 ≫テキスト
15 北川美美 「梅日和」 ≫テキスト


2015角川俳句賞落選展 15 北川美美 「梅日和」テキスト

15. 北川美美 「梅日和」

隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
菜の花と大根の花隣合う
歩き出す膝の後ろを初蝶来
野を焼いて水を飲み合う男たち
ぶらんこや空の向うに飛ぶ子供
沙羅の木に耳あてさぐる春の水
てのひらに丘あり草餅にくぼみ
文鎮は紙をとらえて立夏かな
花えんじゅ空につづいてゆく山よ
万緑の晴れてさびしき石河原
犬の眼が正面にある入梅かな
舟底より水面は高し燕子花
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
縁台を水掛ける人と洗う人
トンネルを抜け木洩れ日の瀑布かな
草の花指の先よりこぼれけり
虫世界いま月蝕のはじまりぬ
隕石を重し重しと十三夜 
秋灯が点から線になつてゆく
崩落の崖留めている枯木の根
遺影より紅の明るし室の花
風花に日と雲薄く濃く速く
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
電飾の音なき音や夜の雪
次の間も赤き絨毯冬館 
ホと息が前へ連なる寒の内 
雪重し鍵のかかりし運動場 
暖房や硝子に映る我等あり
雪道に小さく灯るレストラン
きさらぎを鳥の名前と思いけり
梅林うしろにあれは石切場
永遠にきゃべつ千切りしてをるか
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
くちびるにいちご冷たき静かな夜
ジオラマの中の家族や昭和の日
断層の岩肌を見る春の暮
鉄橋や高きを揺れる山の藤
小満の魚屋の前通り過ぐ
観覧車新樹の山と隠れ合う
夏燕土工の脚のたくましき
空豆の皮に皺寄る夕かな
怪我をした男に運ぶ氷水
滝の前みな歓声をあげている
竹は竹に凭れて撓る雲の峰
日本の暑さを競う盆地かな
夏の馬川がひとつになるところ
一日の終わりに流す夏の水



■北川美美 きたがわ・びび
1963年生まれ。 「面」「豈」同人。

2014-01-12

桑原三郎『春亂』の無季句 北川美美

桑原三郎『春亂』の無季句

北川美美

初出:『犀』No.190 (平成25年11月1日発行)

桑原三郎は無季句の好手として名高い。その第一句集である『春亂(しゅんらん)』を読み解くことにより、三郎の無季句の原点を探っていきたい。

倒れしは一生涯のガラス板

昭和四九年、四一歳のときの作。ガラス板が倒れることを命の儚さとしてみる仕立てと解するが、そのガラス板の脆さに、作者の悟りと覚悟が伺える。倒れることの不安定さ、そしてガラス板という破壊性のある硬質素材を措辞することにより、美しく、儚くもあるこの世を思う。「ガラス板の一生涯」に読者は、限りある一生の時間、そしてそれが突然に終焉となりうることを考える。「倒れし」の「し」強調により、スローモーションのように倒れていく景を想像する。第一句集にしてこの風格。三郎の代表句として名高い。

いつせいに柱の燃ゆる都かな  三橋敏雄

鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中  〃

三郎の掲出の代表句に私は三橋敏雄の無季句を重ねあわせた。「鉄」も「ガラス」同様に都市景観の象徴であり、人間が作り出した無機質なものである。しかし、いつかは、あるいは、いずれは破壊、あるいは浸食される脆さがある。それが個々の人間、ひいては人類の儚さにもつながっていく気がする。

三郎には「第二回五十句競作」にて「佳作第一席」の賞歴がある(この時の一位入選に今坂柳二、佳作第一席に大屋達治、澤好摩、攝津幸彦、高橋龍)。その受賞作「むかし桃たちの唄へるうた」が解体、増作されこの『春亂』に同タイトルとして収録されている。
応募作「むかし桃たちの唄へるうた」自体に無季句が極めて多い。『春亂』収録句では一三七句中の二十九句が無季と読んだ。

三郎の無季の力は、前衛期の赤尾兜子・永田耕衣の影響が考えられるが、先師にある悲壮感、混乱、難解という印象がなく、より俳句形式として昇華していると思える。それは本人の生き方としての姿勢が大きいのだろうが、高柳重信、三橋敏雄との交わりにより、「俳句」をより「形式」として意識したことに依るのだろう。三郎の「五十句競作」への応募は無季句を多く配した三橋敏雄『眞神』発刊からわずか一年後のことである。ここに『春亂』の句を並べてみる。

山燃えて水ををろがむ夕べかな

山も晝や臼の襞より豆こぼれ

寝て待てば鐡道馬車が通るなり

頭暗しと廊下を磨く姉妹

まざまざと雙親見ゆる午の刻

提灯の脇腹赤く苦しけれ

絵蝋燭水の終りもみづの音

産み月の妹が曳きゆく藁の屑

土蜘蛛を飼ふ竹籠も武蔵かな

生き死には手燭のゆらぐ箪笥部屋

草小舎のわれをいくたり出てゆくか

荒縄よ指の力に敗れたる

松古りてときどき兄を名告りけり

横濱に来てさみしさよ人の名は

葦原や命(みこと)も棒も歩きつつ

渡り鳥箒は玉を掃きをらむ

その作は常に生きている境界線が曖昧領域であり、身近な幽霊、ごく親しい魂が主体となっていることである。

をちこちに荒縄結ぶ影の山

押入に百夜通へり俯むいて

ひとり来てまたひとり来て墓荒し

など「霊」が近くにいつもいるように読める。「霊」は確かに目に見えない、実在がないので、逆にいえば、どのようにでも描ける危険性も孕む。リアルでなくなるのだ。しかし三郎の句は「死生観」という観念を越え真の「霊」と対話している、実景として読めるのだが、それが作り話にならないリアルさがある、

うつうつと黒牛を乗り殺したり

双頭の亀を乗りつぎあきつしま

「霊」たちを迎え、向き合い、そして彼の世で生きる彼ら描くことにより、より身近な存在として共存しているということが伝わってくる。

『眞神』に於いて三橋敏雄は山に潜む神の力を各所に潜めた。また連句の手法を取り入れ、無季句を意識的に多く配置するためのシカケがある。ところが三郎の場合は、何のシカケもないように身近な霊を浮遊させ無季句を作ってしまう巧みさがある。

無季句を創作することは相当難しい。それは実作してみればわかるように、なかなか体を成さない。四季を超えるものを実作者は模索してきた。戦火想望俳句、そして東日本大震災時の震災句など、実作者たちはここぞとばかりに無季俳句を創作した。しかし、どこか他人事なのである。

見えがくれして水炊きの飯男

実際に水炊きをしていた男が見え隠れしていたのかもしれないが、無季句であるが故に霊が水炊きをしているように読める。それが誰なのかはわからない。三郎自身の喪失感からくる表現であると思われるが、やはりあの世とこの世の曖昧な境界領域を感じる。

『春亂』以降の『俳句物語』(一九八五年)の年譜を拝見すると三郎の人生そのものが壮絶であったことが明らかにされていく。作品の根底にある喪失感が身近に起きていたことがわかる。『春亂』にみる無季句には三郎が十代の時に遭遇した兄の自死による衝撃が永く三郎の心を支配し、それが創作の動機となっているように伺える。

極楽も陸続きなる麥埃

やはり三郎にとってその境界線はない。その距離はとても近くわれわれもいずれは行く黄泉の国が怖いところではないという大らかさがある。すでに老練である。

ついで「父」を詠んだ句が多く収録されている。その中にも無季句がある。

つれづれに父を加ふる火の見かな

青竹に父の人玉依りつつあり

はこべらや膝つけて立つ蛇の父

男子にとっての父親の存在は越えられないものとして本人にのしかかる。父親以上にはなれないという葛藤である。その「父」の存在をあえて登場させているのはまさしく「自我」の確立であり「父」との距離感を描くことにより、本人の「自我」を読み取ることができる。

「父母未生以前」は禅宗の言葉である。「父や母すら生まれる以前のこと」という意味である。三郎の「父」の登場は、「父」を浮び上がらせることにより相対的な存在にすぎない自己という立場を離れ、絶対・普遍的な真理の自我につながる。ここでも「父」は身近な霊として三郎の近くにいる。その存在は実在のない「在」である。三郎の父への態度は極めて慎ましく、そして紳士的である。三橋敏雄の描く「父」よりも高柳重信の「父」との距離に近いように読める。

東日本大震災の起きた東北の被災地では、現在、幽霊や天狗の話を集めた『遠野物語』によく似た不思議な話が次々に生まれている。「震災怪談」として生者の中に、震災犠牲者の想いが生きているというのだ。すでに三十九年前の三郎の句に見え隠れする幽霊はとても身近であり言霊となっていきいきと俳句形式に融合している。

俳句に没頭する初期俳句実作者たちは「句集」という目標に精進する。しかし後世に残したい、「第一句集」なるものが、極僅かであることは言うまでもない。タイトル『春亂』の意味するところは、「あらくれし若き日々」と察するが、この第一句集の無季句に焦点を当てることにより桑原三郎の創作の方向性がすでに確立されていたことに気付く。


◆『春亂』解題
桑原三郎第一句集。作句開始以降の一三七句を収録。一九七四(昭和五十三)年八月十五発行・端渓社版。布装上製本、函入。九六頁。一頁二句組。「むかし桃たちの唄へるうた」「補陀落のそら」「板東記」「唱和集」。序・高柳重信八頁、序・赤尾兜子四頁。著者後記二頁。本製版三百部限定版。頒価二八〇〇円。

2013-09-29

北川美美 さびしい幽霊 10句

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週刊俳句 第336号 2013-9-29
北川美美
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10句作品テキスト 北川美美 さびしい幽霊

さびしい幽霊   北川美美

満月に少しほぐしておく卵
少女らの中に美少女金木犀
まぼろしの大木をのぼる蔦かずら
さびしいとさびしい幽霊ついてくる
鶏(にわとり)を乳白色に煮て白露
肉塊入スープ澄みゆく秋は金
幽霊も頬被りして踊りの輪
露吹かれこぼれて消ゆる故郷かな
鹿革は江戸好みなる温め酒
抜歯するほかに手はなし秋の暮


2011-04-10

〔週俳3月の俳句を読む〕北川美美 満つる

〔週俳3月の俳句を読む〕
満つる
北川美美



311を境に日本は一変した。悪夢は、現実に起こり、私たちはこの現在を生きている。この震災を契機に、多くの人が言葉について考える機会を持ったのではないだろうか。災害発生を伝える情報、無事を確認するメール・電話、テレビから流れる生存者の言葉、リーダーシップをとる内閣府の言葉、天皇の御言葉、海外での報道、各国から贈られる言葉、ツイッタ―で拡散される言葉、通訳者の手話の言葉、新聞の見出し・記事・コラムの言葉、デマ、風評、「天罰」という言葉、再起を誓う人々の言葉・・・。空前絶後の状況の中で、「言葉」は、他者への伝達手段、認識を共有する手段、という目的を果たしているだろうか。

改めて「言葉」に対峙することについて考えながら「週俳3月の俳句を読む」を書かせていただく。



江ノ島の先はアメリカ日永し  淡海うたひ

確かに江の島のずっと先は、AMERICA領域。太平洋を臨むとき彼方にアメリカ大陸があることを想像する。掲句には、太平洋の大らかさと長閑さがある。「日永し」が効いている。

Pacific OceanはAmericanな香り。茅ヶ崎の「ホテル・パシフィック」もそういうイメージのホテルだったのだろうと想像する。「永」の字からYAZAWAも想像したり。そろそろ江ノ電に乗って海を臨みたい季節だ。世界単独一周渡航を終えたヨットマンが実際に言っていたことは、「漕ぎつづければどこかの陸に到達しますから。」彼は行きつく先の陸地で仕事をして、彼女をつくって地球を一周して日本に戻ってきた。

掲句が発表された(3月8日号)三日後に東北太平洋沖で大変なことが起き、更にその三日後に「アメリカ」からTOMODACHI作戦のもと、航空母艦ロナルドレーガンがやってくることなど、誰も想像できない風景だ。



水になったな人肌の雪女 金原まさ子

春になり雪が解けて水になる。この句は、「人肌の雪女」が、水になったと言っている。人肌は36度くらいだから、「人肌の雪女」はもともと水でなければならない。しかし、そのまま雪女は雪女でいつづけた。それが、とうとう水になった。人のぬくもりを知った以上雪女ではいられない。

「雪肌精」という名の化粧水は今もロングセラー商品だ。いいネーミング。

そして「○○女」といえば、「蛇女」「蜘蛛女」「猫女」等、結構多い。季語として認められる「雪女」は相当気品ある「女」である。季語というものの品格にあらためて気づく。



空仰ぐ首に余寒をまとひつつ 今井肖子

「余寒」が「余震」に見える。俳句はつくづく読み手側によりさまざまなインパクトをもたらすものだと思う。地震ショックと緊張のためか首が痛い。「空仰ぐ」で途方に暮れている様子、そして「まとひつつ」で春が来ることのしがらみを感じる。今、また余震がきた。地震の呪縛はつづく。「余寒」に現状における効果を感じる。



地鎮祭あとの真四角春浅し 今井肖子

「祭のあと」は、空しく寂しく、そこに「真四角」。四角なのは、土地であり気持であり。下五の「春浅し」により、その土地に新しい建物が立つという嬉しさではない感情が潜む。以前の土地を懐かしんでいるのか、複雑な気配が読み取れる。



一億の人の祈りに満つる花 今井肖子

「祈り」とは人が人であるが故の所為ではないだろうか。「希望を持とう」としきりにTV、新聞で訴えている。「祈り」は深い。そして、祈りの力で花が咲く。下五の「満つる花」に思わず手を合わせてしまう。「花」というだけで、さまざまなことを想う日本人の心が伝わることに改めて驚く。



噫、死児の頭上に千の太陽が 九堂夜想

「死児」-死んだ子(広辞苑)。震災を想うと、死んでいった子供たち、妊婦とともに死んだ胎児にも幾千もの希望の太陽があったはずだ。

詩人・吉岡実に「死児」という詩がある。

 「死児」(『僧侶』吉岡実)

 大きなよだれかけの上に死児はいる
 だれの敵でもなく
 味方でもなく
 死児は不老の家計をうけつぐ幽霊

 (略)

 死児は幼児の兄弟でなく
 ぶどう菌の寺院に
 この凍る世紀が鐘で召集した
 新しい人格
 純粋な恐怖の貢物
 
 (略)

吉岡の頭の中をコラージュ絵にしたような幻想世界。掲句は吉岡作品に共通するような幻想の聖霊とも読める。

掲句の「、」(句読点)について考えてみた。「ああしじの ずじょうにせんの たいようが」という五七五を「ああ(噫)」で区切るために見えるが、「噫」の字を俳句、あるいはタイトルとして使用する場合、一字空けが一般的のようだ。しかし、敢えて「、」を使用しているので意味を持たせているのだろう。「、」の代わりに「!」「☆」「◎」などを当てはめてみた。いろいろやってみるうちに「、」は、作者の言い足りなさを引きずっているように見えてきた。作者の「死児」の連作を読みたいと思った。



凧ぬっと太陽肛門へ 九堂夜想

太陽に肛門をつけた変な句で面白い。「超新撰21」に「肛門が口山頭火忌のイソギンチャク」(ドゥーグル・J・リンズィー)があるが、そういわれてみると太陽もイソギンチャクも形が似ている。凧が太陽の肛門めがけてぬっと上がっていく。私の世代だと肛門と言えば、漫画「こまわり君」のギャグ「七年殺し」が思い浮かぶ。作者は、その世代ではないにしても、そういうことをやっている子供をひややかに見る側の子供だったような気がする。しかし、どうもそういうことではないようだ。

作者の他の「肛門」の句を引いてみる。「風ぐるま墓は肛門吸われつつ」「肛門(アヌス)ごと零(ヌル)ごと王位継承す」これらの句をみてみると、「肛門」も「死児」同様に聖霊的な詩の記号として位置づけている。



白湯好む留学生や春の月 望月 周

白湯は病気か茶道の時以外あまり口にはしなかったが、インド・アーユルヴェーダ哲学に基づくエステティック施術を受けるため那須まで泊まり込みに行ったことがある。「シロダーラ」というエステで、事前に瞑想の訓練を受け、更に脈診という診察も受けた。この施設が、珈琲、お茶の類は一切口にできず、「白湯」(さゆ)のみが許されていた。食事は、ベジタリアンで大変美味しかった。飲み始めると白湯はやわらかく味わいがある。この留学生はインド人だろうか。



さつと醤油土筆煮詰めてゐる無言 澤田和弥

土筆といえば、「約束の寒の土筆を煮てください」(川端芽舎)が思い浮かぶ。掲句は、芽舎に妻がいたとしたら、お返しに作ったような気になってくる句。「無言」がいい。



はるはんし四畳半襖の母の地図 十月知人

四畳半というと、『四畳半襖の下張』(永井荷風作の説が高い)を連想するが、そこに母を持ってきてマザーファッカー度合を描いている。「はるはんし」のひらがな表記が更にポルノめく。一句で、これでもかというほど、ベタな春画が逆に艶めかしさを殺いでいる気がする。ポルノやエロスの句は、意識して描こうとすると難しい。




一筋の光となりし雪解川 赤間学

東北地方の雪解が日本の希望の光となってほしいと心から願う。
季節はそれでも流れて人は人を生きていくのだと思う。



第202号 2011年3月6日
淡海うたひ とことん 10句 ≫読む
第204号 2011年3月20日
金原まさ子 牛と葱 10句 ≫読む
今井肖子 祈り 10句 ≫読む
九堂夜想 レム 10句 ≫読む
第205号 2011年3月27日
望月 周 白湯 10句 ≫読む
投句作品
澤田和弥 土筆 ≫読む
十月知人 ふおんな春たち ≫読む
園田源二郎 日出国 ≫読む
赤間 学 春はあけぼの ≫読む