『俳句研究』2007年8月号を読む(下) ……さいばら天気
(2007/7/23 0:30 到着。遅くなり申し訳ありません)
『俳句研究』2007年8月号を読む(上)は、こちら。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/07/20078.html
「週刊俳句」の「俳句総合誌を読む」というコーナー、一連の記事のことを、上田信治さんはいつだったか、「ある意味、俳句総合誌を読もう運動、あるいは俳句総合誌を機能させよう運動である」と言った。なるほど、である。
俳句総合誌は、俳句世間で大きな存在感をもっている。権威もある。俳句総合誌と「俳壇」(あくまでカギ括弧付き)とは、ぴったりと胸と胸とを合わせるように一体のようにも見える。
ところが、そんな「俳句総合誌≒俳壇」状況のなかでも、俳句総合誌が、よく読まれているか、というと、そんな実感はない。
「よく読まれている」とは、たくさんの部数が売れているといった、数字に還元した話なのではない。それは「浸透している」「親しまれている」と言い換えてもいい。私たちの「俳句愛好」のなかに、俳句総合誌を「読む」という行為が根づいているかどうか、である。
「俳句研究の休刊が決まったそうだ……読んでないけど」
「歴史ある俳句総合誌の休刊、まことに残念……読んでないけど」
「いつこうなっても不思議じゃなかったよね……読んでないけど」
「俳句愛好者は多いのに、ね……読んでないけど」
もちろん、読者が増えさえすれば、休刊が回避されるというものではないだろう。ひとつの雑誌が続いたり立ち行かなくなったりは、いろいろな事情がからむ。また、ここに書いているのは、「俳句研究」が存続するための条件とは?といった話ではない。
言ってしまえば、自称3万部(実売数はその半分くらいだろう)の「俳句研究」誌は、これまでとは違う新しいパトロネージが確保できていれば、販売数を伸ばさなくとも存続していただろうし、これからさき、同じ理由で「復刊」することもあるだろう(噂話レベルでは「半年もすれば復刊」とも聞いた)。
だが、続きさえすれば、それでいいのか? 毎月、発行日になると本屋に並びさえすればいいのか? ということがある。やはりそう思ってしまう。
「俳句研究が復刊するそうだ……読まないけど」
みなさん、俳句総合誌を読みましょう!と言うのではない。じゃあ何が言いたいのか?と問われると、困ってしまう部分もあるのだが、つまり、「俳句総合誌がうまく機能する、とは、いったいどんなことなのだろう?」と私自身、考え続けるということだ。そのためのひとつのアプローチというか方策として、この『週刊俳句』の「俳句総合誌を読む」というコーナーは続いていく。もちろんこれは私個人の捉え方なのだが。
俳壇、あるいは「俳句世間」のありさまは、俳句総合誌を抜きに決まるのではない。俳句総合誌という「場」で、「読む」「読まれる」という、言ってしまえば「創作と批評の動き」が、じゅうぶんに、また生き生きと機能すれば、俳句世間の景色はずいぶん変わってくる。
俳句にまつわる現実がすこしでも愉しいものに、というだけのことなのだが、何かを愉しい方向へ変えていくのに、例えば「媒体」任せでは、つまらないし、きっと実効もない。「読む主体」としての読者が、変えていくものだと、やはり思ってしまうのです。
なお、『俳句研究』休刊号は8月11日発売。すぐに売り切れてしまう可能性もある。走れ!当日。走れ!本屋へ。
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最後に資料的な意味合いから、『俳句研究』休刊に言及したブログの主なところを挙げておきます(元は自分のブログ「俳句的日常」にメモのように書き足していった記事です)
ウェブカドカワ 月刊「俳句研究」 休刊のお知らせ
https://wwws.kadokawa.co.jp/shop/mag/ss/list.php
Ban'ya 「俳句研究」休刊!
http://banyahaiku.at.webry.info/200706/article_36.html
山口亜希子俳句日記 俳句バブル崩壊
http://yaplog.jp/haikunikki/archive/133
abstract-lemonade 2007/07/01
http://ab-lemonade.jugem.jp/?eid=704Ban'ya 「俳句朝日」「俳句研究」の廃刊についての感想
http://banyahaiku.at.webry.info/200707/article_3.html
山口亜希子俳句日記 俳句総合誌の終刊について
http://yaplog.jp/haikunikki/archive/135渚のことば “time to say goodby” text 104
http://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/b402dc6122844381acff4ecf36c49b4e俳句と囲碁とさぼてんと コップの中の嵐
http://blog.kansai.com/miyakazu/341
週刊俳句第10号 後記
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/07/010.html
峠谷研究所 要するに(^o^;
http://green.ap.teacup.com/touge/764.htmlTedious Lecture 俳句研究休刊について
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2007/07/post_5744.html無門日記 ディザスター・パラダイス
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/50632623.html
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2007-07-22
『俳句研究』2007年8月号を読む(下)
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3 comments:
楽しみにしてます。
清水さん、はじめまして。
遅刻で焦っているとき御言葉を拝見し、ちょっとプレッシャーでしたw
これからも、よろしくお願いいたします。
いろいろな記事を楽しんでいただけるよう、
気ままに続けていきます。
「俳句研究」2007年8月号をぼちぼち読んでいたら、107pの寺井谷子の句「ぶらんこを揺すりなりたいもの色々」を鑑賞している野中亮介氏の文中に、次のような記述を見つけました。
不治の病を告げられてぼんやりとぶらん こに腰かけている志村喬主演の映画があっ た。
(中略)
志村喬の愁いを「腰かける」という静とす るならば、子供達が「精一杯漕ぐ」のは歓 喜の象徴だ。
残念!この映画、黒澤明監督の「生きる」を引き合いにしているとすると、この解釈はちょっとした間違いです。
間違い1.映画に描かれた当時(当時の現代)、医者は、癌患者本人に病名・余命等は告知<しない>のが絶対常識でした。従って、志村喬演じる主人公は、自分が不治の病であることは誰からも「告げられて」いません。彼は自己判断で死期が近いことを知ります。少々コミカルな方法で。
間違い2.主人公は、「ぼんやりと」「愁い」をもってではなく、それこそ「歓喜」に心奮わせながら、しかし静かにぶらんこに腰かけています。主人公である役所の課長さんは、ある達成感をもって、自分の人生が幸福に終わることを確信し、我が子も同然である「ぶらんこ」に<揺られて>いるのです。
ですから、映画「生きる」は、超ハッピーエンドの名画なのですよ。
僕のいうことが嘘かどうか、レンタルDVDでもいいから、「生きる」そのものを御覧になって、確かめてみてくださいな。記憶違いは誰にでもあることだけど、「志村喬」の名を出すのなら、確認はとってから活字にしてほしかったですね。
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