2007-09-23

サバービア俳句について〔2〕

サバービア俳句について〔2〕
……… 榮猿丸×上田信治



前回に続いて、郊外的なものと俳句をめぐる対話は、二名の男性によって、BBS上の擬似対談として行なわれた。



2007年9月21日 22:35

信治: よろしくお願いします。どうぞ、口火切ってください。

猿丸: えーと、じゃあ信治さんは、俳句は「キてる」あるいは「クる」と思いますか。

信治: うーん・・・「クる」って言いたい心と、「コない」って言いたい心が、あります。

俳句を主語にするなら、俳句にとって「クる」ことには、ほとんどまったく価値がない。でも「コない」ことに安住している俳句を、自分は、ちょっと憎んでるかもしれない、です。

猿丸: ぼくは「キてほしい」と思ってますね。俳句って、かっこいいっていうのをね、知ってほしいというか。

信治: すでに、かっこいいのだとしたら、もう「キてる」ってことなのでは。

猿丸: いや、ぜんぜんでしょ。

信治: ぼくは、俳句の「中」の人が、もっと「クる」ことを、おそれたらいいとは思う。同時代にふつうに生きてる人に読まれて、俳句っておもしろいじゃない、とか、言われることを、おそれるべきですよ。

猿丸: 俳句の中の人がみてるのは、俳句の「中」だけでしょう。

信治: 猿丸さん、俳句のライバルになるジャンルがあるとしたら、なんだと思います?

猿丸: なんでしょうね。ないんじゃないですか。ぼくの中では、ロックとか、写真ですけど。

信治: あ、ぼくも写真かな。川内倫子とか、俳句っぽい。あの正方形の人。

猿丸: 俳句っぽいでしょ。さいきんの人が撮る写真の、見る人と、友だちのように、なんでもない時間や風景を共有する感覚とか。スチャダラパーだったかな、ファミレスで友だちと一晩中しゃべって迎える明け方の、無駄な、でも幸福な充実感とか。

信治: 明け方のファミレスw それですよ、きっと、俳句のライバルは。

猿丸: ファミレスって、今はもちろん都心にもあるけれど、トポスとしては「郊外」じゃないですか。

信治: (笑)トポスって、場所の力みたいなもの、想定してます?

猿丸: そうです。都心にいてもファミレスに入ると、みんなサバービアンになるという。

信治:  (笑)すげー、分る。明け方、ファミレスの甘いもので、胸焼けして。ぜんぜん、アルコール飲む気にならないみたいな。

猿丸:  なんか、自意識から解放される感覚ないですか。ファミレスって。ひとりでも入りやすいし。

フットボール・アワーのネタで、
「お客様何名様ですか」
「一人です」
「当店ファミリー・レストランでございますが、お一人様でよろしかったですか」
ていうのがあったな。

信治:  ガンちゃんw のんちゃんw。自意識から解放されるっていうか、ファミレスは、客に「何者か」であることを許さないわけですよね。その人が、たとえば全盛期の氷室京介であったとしても、オーダー取りに来られて「…ドリンクバー」って言った時点でだめだめじゃないですか。非常に、民主主義的空間といいますか。あれ、ぜんぜん俳句じゃないな?

あ、そうか、そのドリンクバーのブルースを「共有」できる人間にとっては、「景色」になりうるって話。

うん、アメリカの郊外は怖いところっていうか、文明果つるところってかんじですけど、たしかに、日本の場合「郊外」って概念は、なんか、うすーく共有されるものとして、働いてる感じがしますね。

猿丸: マニュアル化された、画一化した空間というのは、まあふつうは批判的に捉えられるし、実際つまらないわけですよ。まさにサバービアです。でも、「何者でもない」のが、気持ちよかったりする。画一化された空間もじゅうぶん「景色」になりうると思いますね。

信治:  だから、明け方なんでしょう? もう明るくなっちゃってるんだけど、世の中、まだ動いてないっていう時間、こっちもちょっと疲れで感覚がいっちゃってて。そういうときって、日常の薄皮いちまい下を感覚してるような、いい気分じゃないですか。

高速道路も、よくないですか? 湾岸線だと、ちょっと「おもしろすぎ」なんだけど、どのへんだろ、あんまりサイバーじゃない、間の抜けた道を、ぼーっと。

猿丸: そうそう、明け方。高速道路、好きですねえ。誘導灯が並んでいる感じとか。

キリンジの「エイリアンズ」という歌がぼくは大好きなんだけど、「公団の屋根の上」をボーイングが音もなく飛んでたり、「バイパスの澄んだ空気」とか、数少ない言葉でひじょうに魅惑的で的確な郊外の情景描写を唄ったあとで、「まるでぼくらはエイリアンズ」とくる。

この「エイリアン」な感覚っていうのが、やっぱりマージナル(周縁的)なところからしか生まれないんじゃないかと思う。俳句もマージナルな文芸でしょう。


信治:  聞いてみました。この、程の良さというか、おとなしい感じも、典型的に郊外的なものですね。微温的と感じる人もいるでしょうが、ちょっと違う。むしろ切迫感があるんだけど、激しく突き抜けてしまうと、向う側の表現になってしまって、俳句らしくなくなるw

このへんで、まとめましょうか。猿丸さん、今回の〆に、マージナルな一句をお願いします。

猿丸: おつかれさまでした。でも、これ……記事にならないんじゃない。怒られるよ。俳句の話してないもん。パート2じゃなくて、パート1.5ですね。次回は、まともに俳句の話をしましょう。すみません。

冬晴れのとある駅より印度人 龍太

これ、自選百五十句に入ってるんだよね。マジか、って感じですけど。

雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし 龍太

なんてどうですか。

信治:  今回は、ちゃんとファミレスの話をしたじゃないですか。おもしろかったです。

でも、「雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし」は、ベタですねえ。ていうか、ふつうにいい句。

ぼくは、

秋の夜は海の岬の空にあり 今井杏太郎

ユーレイみたいな俳句。先月の角川「俳句」の座談会で、筑紫磐井さんが「この人(今井さん)は、ほんとにいるんでしょうか」と言ってたのが、おかしくて。あるとないの境界に、マージナルにある俳句ってかんじです。

猿丸: いい句ですなあ。きれいに皮をむいた果実のよう。

信治: あ、うけました? すごい嬉しい。お疲れ様でした。また、よろしくお願いします。

2007年9月22日 2:46






3 comments:

匿名 さんのコメント...

コメント、すこしタイミング逃しましたか……。
ちょっと長いですが、コメントです。

>江戸後期
あまりにも乱暴な例えでした。スミマセン。
抱一、初めて知りました(汗)
私の文学知識は小西甚一から得たのみです。
小西によって書かれる江戸後期の文学事情に、今の空気が似ているように思えて、そのまま書き込みしてしまいました。
(あとで抜書きします)

「サバービア俳句」という俳句への興味と批判は、私自身のつくる俳句への批判からきています。
つまらないなーと最近思うのです。
俳句は好きだけど、どんな句をつくっても陳腐に感じる。そんな状態に「サバービア」で出口を見つけたい思いで、読ませていただきました。

私がつまらないと思うのは

・自分達の「ライフ」を自分達で懐かしがって(手前味噌)、「こういうのあるよね」「うん、あるある」って言い合っている。

・音楽や映画からインスピレーションを得た「ステキ・センス」を無批判に肯定しあっている。

・「……風を俳句で表現した句」「……風を……風にアレンジした句」ばかり。 でも、そういう句をつくって意味があるのかなあ? 俳句でやらなくたっていいじゃん!

例えとして、私の拙句(ごちゃごちゃ言う前に句の腕を磨け、という自己批判も一応ありつつ……ほんと恥ずかしいですが)

・長月のひと息に押す画鋲かな
・仲春のミルクゼリーのぺったんこ


イメージキーワードとして、自己愛撫、無批判、内輪、ノスタルジー、ぬるま湯、足踏み、箱庭

記事を読んだかんじでは、上田さんも猿丸さんも、そんな俳句を「サバービア」として「良し」と考えられているととらせていただきました。

むむむ……
結局、記事の「サバービア」は全くの別物で、それとは関係のない私の個人的な問題なのか……
もしくは、「サバービア」は、つきつめれば陳腐にならない、浅薄にならない、可能性を秘めているのかも……


これからも私なりに考えてみます~。
今回の記事は刺激になりました。

匿名 さんのコメント...

小西甚一 『俳句の世界』 講談社学術文庫1995
長いですが引用します。

・文化文政期について

「誰にでもわかる。おもしろい。しばらく厭な世間を忘れる。しかし、そこには、人の精神を高める何ものもない。毛色は違ってますが、アメリカの西部劇映画みたいなものですね。寛政ごろから、幕府体制の管理政策は、そろそろ末期的な硬化症状を示し、革新への自由はひどく圧しつけられ、思ったことを正面からしゃべらないのが安全第一だとする卑屈な心理は、社会ぜんたいに行きわたってしまった。<中略>俳諧も、その低い逃避精神にひきずられて、中興俳人の理想から遠ざかってゆく。」


・天保の月なみ調につて

「かれらが対象そのものをまっすぐに観照せず、頭のなかで風雅の既成尺度をもち、それで測ったものだけを俳諧の世界に取り入れた態度」

>>「風雅」が「サバービア」にあたるかと

「しかし<中略>非難に価するのは、その点よりも、むしろ、尺度がはなはだ短くて、俳諧の世界をひどく狭小にしたことに在る。

蓑のけて正月さする柱かな 鳳朗
雪の中の雲みつけたり一つ松
降る雨にこりず身にゆく柳かな 蒼キュウ(註:漢字でてきません)
有る筈の朝月見えず梅の花

<中略>
みな小技巧・小主観が焦点である。把握のしかたが、小さく固定してしまったのである。」



などなどです。

匿名 さんのコメント...

匿名さん。こんにちは。

サバービア俳句というもの、私自身は、まだよく理解していません。(だっておふたりとも、わかりやすいようにはしゃべってないもんw)

そのうえで、個人的な捉え方の一部を。

1)評価・価値判断ではなく

サバービア俳句がどんなものであれ、その、良い悪い、つまる・つまらないといった評価や価値判断は、留保したまま、なりゆきを見ていたいと思います。

賛成反対を論じようというのではないと思いますし、どんな範疇にも、おもしろいもの(句)とつまらないもの(句)があるわけですから(こう言ってしまうと身も蓋もないですが)

サバービア俳句という切り口の妙味があるとしたら、評価・価値判断とは別のところだと考えています。

2)風雅とのからみ

匿名さんのおっしゃる「天保の月なみ調」との関連は興味深いですね。こちら方面との絡みでも、話題が展開するような気がします。

3)時代性のようなもの

小西甚一からの引用
「しかし、そこには、人の精神を高める何ものもない。」

私にとってのヒントは、ここにもあります。

「人の精神」「高める」…こうした言説(の用語)が、批評のことばとして成立する世界(時代)に、私(たち)は生きていない。それこそが「サバービア」な一断面です。

もちろん、「精神性の高さ」という価値が消えたのではありません。それを言い表す語、理解可能にする論理・概念把握は、かつての(つまり小西甚一当時の)仕組みでは、もはやない。

乱暴に言ってしまえば、「精神」という語が無前提に受け入れられた時代は、かつてはあったが、今はそうではない。精神性の高さ・低さという価値観も同様。

以上は、俳句の話に限ったことではありません。
(例えば、今の小説を読むとき「精神」のやその「高低」といった語(概念)が、批評のことば(仕掛け)として通用するようには思えません(これは小西甚一『俳句の世界』批判という意味ではなく)

サバービア俳句は、それゆえ、俳句分野の話ではなく(すなわち、俳句のカテゴリーではなく)、それ以前に、私たちが2007年時点で、どんな過去・現在・未来に規定されているのかといった包括的な問題と捉えています(硬い書き方ですね、すみません)。サバービア俳句は、そうしたふわっと大きなテーマの、ひとつの「相」として見出されるものだと思います。

ながなが失礼いたしました。

 *

いずれにせよ、サバービア俳句に関する話題は、(これがどこかで書いたように思いますが)、性急に結論・答え・成果等等を求めず、核心(と予測されるもの)の遠く近くをぶらぶら散歩するように考えをめぐらすのがいいのだろう、と、考えています。こういう気ままな「思考の散策」みたいなことは、紙媒体では難しく、これもまた週俳のアドバンテージのひとつだろうとも思います。

これからもよろしくお願いします。