俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第5回 俳句における時間 5
初出『雲』2007年5月号
今年は早くから、うぐいすが鳴き出した。もう半月ほどになるだろうか。毎日、同じ一羽が鳴いている。朝と夕方、鳴くのである。この一羽は「ほーうお、ほけきょ」と、ややゆったりと鳴く。そのあと、五秒くらい置いてから、今度はさっきより少し高いキーで、同じように「ほーうお、ほけきょ」と鳴く。そしてまた五秒くらい置いてから、更に高いキーで「ほーうお、ほけきょ」というのである。このように三回くらい鳴く鳴き方を、毎日繰り返している。キーは違えど、同じ鳴き方が繰り返される。同じ「ほーうお、ほけきょ」が、転調されてコピーされてゆく感じである。
これを聞きながら、ふと思ったことがある。うぐいすの鳴き声の「ほーうお、ほけきょ」というひと連なりの音は、俳句一句の長さに似ている、ということである。
「ほーうお、ほけきょ」というメロディーを歌い終えるためには、何秒かの「時計の時間」がかかる。つまり、ある一定の時間がどうしてもかかる。だがその一方で、この鳴き声は、聞いている私の心において、一目で見通せる長さをもっているということに気づいたのである。
キーを変えて繰り返されるその一つ一つは、それぞれ間をおいて繰り返されているから、それだけの「時計の時間」は進んでいる。しかし、聞いていて私は、「時計の時間」とは別のところで、その一つ一つを、あたかも何枚かのカードを並べて見るように、或いは重ねて見るように、眺め、感じることができるのである。それは、聴覚というよりはむしろ、視覚に近い。
カードのたとえを使ったが、カードは、一枚一枚が一目で見渡せる広さである、というところに特徴がある。トランプなら一枚の中に「マーク」「文字(数字)」「絵」といったものが描かれているが、私たちはこの三つを一つ一つ順番に認識などしていない。♢というマークと、Qという文字と、お姫様の絵とが同時に目に飛び込んでくる。一枚全体をいちどきに、一目で見渡しているのである。そうでなければ、スムーズなトランプゲームは成り立たないだろう。
また、さっきメロディーといったが、「ほーうお、ほけきょ」には、或る韻律があることにも気づく。もちろん、鳥の声なのだから、ある種の音の流れ、つまり音楽であることは当然なのだが、ほかの鳥の鳴き声と比べて、うぐいすの鳴き声には、どこか「切れ」があると思うである。つまり、言い切る感じ、不思議な完結感が感じられるのである。
まとめてみると、
・一目で見渡せる長さであること
・切れを伴った韻律が感じられること
この二つの点で、うぐいすの声は俳句に似ているのであった。そして、このうぐいすの声から逆に私は、俳句というものの特徴を再確認させられたのであった。
俳句の十七音という長さの特徴をいうとき、
帚木に影といふものありにけり 虚 子
この句はよく引き合いに出されるように思うが、この句は、十七音が持つ韻律と、完結感とを如実に表している句だと、私も思う。
これは帚木を写した写真というわけではない。だが、帚木というものの存在の具合が、写真とは違った形でここに表れているように思う。言葉を換えるなら、「帚木がある」という現象を認識する過程が、ここに凝縮されている、とも言えようか。ただ、そのような、いかにも大層なことが、いともたやすい言葉によって表されているところが、俳句という形式の特徴なのだと思う。「存在」がとか、「認識」がとかいうことは、作者はもちろん、読者もまた考えていない。更にいえば、「帚木」のことさえ考えていないといってよい。なぜなら、俳句が「韻律」であるとき、俳句は何も考えてはいないからである。俳句を作者が口ずさむとき、俳句を読者が口ずさむとき、皆、何も考えてはいない。「韻律」とは音であり、心地よさであって、そこには何の「意味」も存在しないからである。私がうぐいすの声を聞いていて思ったのは、「ほーうお、ほけきょ」の繰り返しは、俳句の或る一句を繰り返し口ずさんでいるときの感じに似ているな、ということでもあった。
ところで、「帚木に……」の句を考えるとき、韻律としては「意味」がないとしても、そこには「帚木」とか「影」「あり」とかいった言葉が載っている。それぞれの言葉には当然「意味」というものがあるから、読めば何らかの意味がかもし出されることになる。「言葉」には「音」という側面と、「意味」という側面がある。俳句を読むときには、音として口ずさむ心地よさを感じながら、意味として心には何らかの認識がかもし出されるということになる。
ただし、ここで注意したいのは、「音」と「意味」とがそのように、きっぱりと分け切れるものではないというところである。もちろん理論としては、きっぱり分けて考えることができる。しかし「俳句を読む」という行為に寄り添ってそのままに記述しようと思うとき、なかなかその二つをきっぱりと分けることは難しいのである。
韻律を感じながら、何らかの認識がかもし出されるという経験。何も考えていないところに、何かの認識が生まれてくるという感じ。この感じは、普段人がものを見るときの感じとよく似ているように思う。
そもそも、普段において、たとえば帚木を見るときに、「意味」として「これが帚木だ」と考えているだろうか。そうではないと思う。何も考えず、帚木というものを一目で、その名前も思わないままに把握していると思う。「帚木」という「意味」は考えないままに、いわば帚木の匂いをひと摑みに感じ取っているときがあると思う。
心がそうした状態にあるとき、もし心が立ち止まってしまったら、そこに「意味」というものが紛れ込んでくる。「帚木だ」という思考も生じてくる。そして、そこにもっと長く立ち止まっているなら、「帚木という存在」に思い当たり、「帚木とは何か」という考察なども生まれてくる、ということになる。
(来週号に続く)
第1回 俳句における時間 1 →読む
第2回 俳句における時間 2 →読む
第3回 俳句における時間 3 →読む
第4回 俳句における時間 4 →読む
■■■
0 comments:
コメントを投稿