2008-03-30

俳句とは何だろう 第3回 俳句における時間 3 鴇田智哉

俳句とは何だろう ……鴇田智哉

第3回 俳句における時間 3


初出『雲』2007年3月号


実験による非日常の時間体験。それは、阿部氏にとって、いわば「今」という時間に浸りきる体験であったと言えよう。自分の意識の変化と、時間の移り変わりとが不可分にとけ合って一緒になっているという体験。意識がそのまま「今」という時間として、変化を続けているという体験である。この時間意識は、私が先(第一回)に挙げた、「滲む時間」のイメージと重なるだろう。

私は先に「滲む時間」と「流れる時間」の二つのイメージを挙げていた。「滲む時間」はいわば、途方もなく広い湖のイメージであり、「流れる時間」はいわば、直線とか川のイメージであったが、それを思い出した上で、ここでもう一度、阿部氏が抱いている「時間」に対する考えを振り返ってみたい。

今というもの「現」瞬間を中心として、「時間」という一直線――線分という有限ではない。無限の――の上の、一瞬間・現瞬間の燃焼、その姿の具現を、私は俳句一句と考えている。

「今というもの『現』瞬間」は、「滲む時間」と言い換えられるだろう。そして、「『時間』という一直線」は「流れる時間」と言い換えられるだろう。二つの時間のイメージが、ここで交錯している。一見、時間とは、過去から未来へ進む一本の直線のように見えている(=「流れる時間」)けれども、その中心である「今」を拡大して見ると、そこは途方もなく広くて、たえざる変化を続けている(=「滲む時間」)ということになろうか。阿部氏の時間論は、「今」「現在」に重きを置いている。

実験の中では「今というもの『現』瞬間」が、日常においてよりもずっと、強調されたものとして表れたに違いない。「今」が、LSDという薬物によってデフォルメされ、日常のときよりももっとグロテスクなものとして体感されただろう。「今」という「滲む時間」を、いわばLSDという特殊な虫眼鏡をもって拡大してみたのである。非日常の体験において彼は、時間と意識とが不可分であること、時間は意識とともにあるということを、改めて確認したのだと思う。

ところで、ここで気になるのは、時間と不可分になっている自分を背後から見つめていた、冷静な自分の存在である。実験中の記述が俳句の形をなしえたのは、冷静な彼の存在によるものであろう、と私は前回書いたのだったが、私の考えている湖のたとえでいくなら、冷静な彼はどこにいることになるのであろうか。湖そのものになっている「第一の彼」に対して、それを冷静に見ている「第二の彼」は、湖の一体どこにいるとすればよいだろうか……。

「第二の彼」は、いわば「漁師」であると、私は思うのである。漁師は網をもって、湖の水を大きく掬い取る。するとその網には、ひとかたまりの藻屑が掬い取られる。漁師はその藻屑を手に取って、こんなのが採れましたよといって、誰かに差し出す。その差し出された藻屑が、まさしく俳句作品なのである。

漁師が読者に差し出した藻屑。その藻屑は、湖のその瞬間にしか生まれ得なかったオリジナルなものである。二度とそれと同じ藻屑が採られることはない。なぜなら、湖の水の状態(=時間)は絶えず移り変わっていて、一度として同じ藻屑が掬われることはないのだから。

ここで、私が考えた、湖のたとえを整理してみよう。

・今を生きている湖全体としての自分。
・それを背後から冷静に見つめる、漁師としての自分。
・その漁師が湖から掬い取ったひとかたまりの藻屑。

この藻屑がまさに、阿部氏の考える俳句なのではないかと、私は思うのである。そしてこのたとえ話を続けるならば、漁師がもっていた「網」、この「網」こそが、言葉による定型十七音という、俳句の器ということになる。

前回の終わりに書いたが、阿部氏は俳句の十七音というものを、「ゲシュタルト」つまり、ひと連なりの全体であると考えている。彼は、俳句の「読者」を念頭に置いて、次のように述べる。

俳句は、一つのゲシュタルト・全として在り、読者にすぐさまに、いきなり把握され、直接にその心中に入りこみ安定し不動となる。そして、それが一種の詩的共感、快感を惹起せしめる。

これはどういうことか。もう少し具体的に、彼が自分を読者という視点から語った記述を見てみよう。

  帚木に影といふものありにけり  虚 子
もし「わかる」「解釈する」ということを先にすれば、この一句「何ということはない。ただ帚木・帚草に影というものがありまする」という、ただそれだけのこと。しかし、この一句は私を「いきなり」うち、たたき、直感せしめ、よしと思わせてしまう。私は、「といふものありにけり」の音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さが、私にこの一句を直感させ「よし」の感を与えるのだと思いこんでいる。また諸諸の「帚木」歌伝説、諸説によって、さらに読めばさらに深く広く物思わされるけれども、それよりもさらに一歩も二歩もさきに「直感」が、一句からの「いきなり」のよろこびを私にもたらす

ここから読み取れるのは、俳句とは何よりも、読者にいきなりの直感やよろこびをもたらすひと連なりの言葉(=ゲシュタルト)である、という彼の考えだ。俳句の「音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さ」即ち十七音が含む音韻や言葉遣いこそが、この直感やよろこびをもたらすのだという。


(続く)


第1回 俳句における時間 1 →読む
第2回 俳句における時間 2 →読む

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