〔週俳9月の俳句を読む〕酒井俊祐
我が家とは安らぐのか
やっぱり我が家が一番落ち着くわね、という言葉をよく聞く。ホームドラマ、漫画から我が家にいたるまで場所ジャンルを問わない言葉であるが、この真偽を問いたい。
私は我が家にいて、安らぎを感じるときがあまりない。我が家にいて、頭をからっぽにして、脱力して、となればいいのだが、現実はフローリングの上で書類とパソコンと読みもしない教科書に囲まれ、ひねもす漠然とした不安(それは、今月あといくら、というレベルから、80歳になってひとりぼっちではないだろうか、というレベルまで)に、座っているのに追いかけ回されている。
朝になれば、燦々と輝く太陽の下にいながらも自室のくすんだ環境で目を覚ます自分にうんざりして、逃げるように家を出ていく。とはいえ世界は逃げ場にはなりきらず、結局どこか鬱々としてその日のスケジュールに取り組む。
そうして、自分の中では腑に落ちない、しかし人に言うにはしょうもないことを考えているのが、私の安らぎの感じられない我が家を中心にした毎日であった。
今回私が中村十朗さん『家に帰ろう』を題材に原稿を書くことにしたのには2つ理由がある。一つは、作品がいい意味で俳句らしくないこと。もう一つは、少なくとも私にとっては、示唆の強い作品であったことである。
俳句らしくないというのは、俳句が9割の論理と1割の破綻で世界を切り取るとすれば、この作品では6:4であるという意味である。この作品に細かな論理はないが、読者を説得するだけの破綻がある。
算数やキリンの首の美しき 中村十朗
一つひとつを解釈しても、なぜ算数?なぜキリン?とはてなが頭をもたげるだけだが、全体として鑑賞したときに納得させられてしまう。算数というと私はひらがなの教科書をイメージしてしまうが、その柔らかさが世界を構成している。
家に帰ろう桃が腐っているよ
別に桃が腐ったところで、家に帰ろうという感情は起こらない。むしろ帰ったら腐っていたというレベルの話ではないだろうか。要はひっくり返しなのかなとも思うが、どこか納得してしまうのはなぜだろう。
そして、そこにある示唆こそが、私がこの作品に心をつかまれた理由である。
この作品の題材は、寝巻で過ごせる範囲で見つけられるものが中心である。寝巻というと聞こえが悪いが、要は身の回りである。その、身の回り、ともすれば平板に見えてしまうような題材が、この作品ひとつひとつにおいては珠玉の輝きを放っている。
ミンミンやコンクリートコンクリート
蝉とコンクリートと言えばそれまでだが、コンクリートがリフレインされることで無機的な空間の広がりが出る。狂ったように蝉は叫び狂い、人間は、もちろんうだるほど暑い。
一日の片隅にある扇風機
扇風機とは無視されるに等しい存在である。よっぽど暇でもなければ扇風機の一挙手一投足に着目することはないであろう。色も白か灰色か若干あいまいになってきたその瞬間、図らずも扇風機の存在はとても大きいのだ。
序論に戻るが、結局我が家とは安らぐのか。
冒頭に挙げた私情も、つまるところ安らぎの一環なのだろう。うんざりするようなその世界であっても、帰ろう、と、終電になれば思うのだ。
雑然と、しかししっかり存立するその世界の、私もすでにそのひとつである。個人的ではあるが、少しだけ大きな示唆だった。
文中偉そうな物言いも多く、不快に思われたらすみません。ありがとうございました。
■ 桑原三郎 ポスターに雨 10句 →読む■ 中村十朗 家に帰ろう 10句 →読む■ 池田澄子 よし分った 10句 →読む■ 武井清子 笹山 10句 →読む■ さいばら天気 チェ・ゲバラ 10句 →読む
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2008-10-12
〔週俳9月の俳句を読む〕酒井俊祐 我が家とは安らぐのか
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1 comments:
なるほど。淡々と過ごしているようでも、君の中では色々な葛藤があるのですね。
我が家が安らぐというのは、我が家以外の場所では自分に目を向ける余裕もなく生きていかなければいられない人々にとって、自分に目を向けることが許される場所としての我が家にある種の人間としての開放感を感じるがゆえに出る感情なんじゃないんでしょうか。そういう意味で、君は、我が家で安らいでいるのかもしれませんよ。安らげないと君が感じているのは、君の心の中に言い知れぬ不安や葛藤を常に抱えているからでしょう。それが、我が家にいても外にいても、いつも君を追いかけているから。
若いって証拠ですね。
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