毎週日曜日更新のウェブマガジン。俳句にまつわる諸々の事柄。photo by Tenki SAIBARA
「週刊俳句」らしい面白い企画ですね。少し感想など書かせていただきます。惜春や貝に盛らるる貝の肉 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」は惜別の情を託された一句だそうだけれど、この句は春、しかもふっくら豊かなテーブル上の食彩の一句。春との名残を惜しむ頃の情感溢れる句。ただ切り刻まれ、盛られ、原形を留めぬ様の貝肉を思い浮かべると、蓋と身の剥離の痛みなども、ちょっと思われたりします。ゆふどきも風あをあをと初鰹 「目には青葉山ほととぎす初鰹」草堂の句は、昼間の景。掲句は夕方の情景。初鰹ののもたらす印象は、やっぱり「青」なのでしょうか。季節の恵みの一つ「初鰹」。山も風も一日青みを帯びていて、生き生きと清新な季節のその味わい。「初鰹」と言えば、若干古色を帯びた季語のような感触を持っていたのですが、この句は「初鰹」の今を詠っているようで、新鮮ない印象でした。ちなみに、鰹は足のはやい魚だそうで。フラダンス笑顔涼しく後退る 「こっちこっちと月と冥土が後退る」(鴇田智也) 「高齢を理由に蟇の後退る」(中原道夫)「後退る」という一節を含む句を検索してみたけれど、あまりヒットしなかった(「後ずさる」も)。掲句の「後退る」はとても面白いと思ったのだが、検索句と比較すると、ずいぶん真っ当な句であると、改めて思ったものです。出勤や夜濯ぎのもの畳まずにいやいや、出勤前の慌ただしさの中で、ちゃんと取り込んでおくだけでも立派です、と思わず突っ込みをいれてしまった。そんな余計な一言を、この句などは入れてしまいそうだ。立句ではなく、平句としての面白みが、この句の魅力なのだろうか。日常生活と切れた地点に立つ句ではなく、日常生活の水平面上にちょこっと乗っかり、ちょっと突き出た一句。
「現代俳句」(月刊)は会員でなくても購入できるようです。450円(送料込み)http://www.gendaihaiku.gr.jp/announce/kikanshi/index.htm12月号に受賞作、選考概要が載っています。連絡先は、この↓ページの下のほう。http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/access.htm
匿名さんへ例句として引用されている「こっちこっちと月と冥土が後退る」の作者は鴇田智哉さんではなく、池田澄子さんのようです。原典にあたれていないのですが、俳句界2008年1月号掲載「2007年銘句歳時記」。http://d.hatena.ne.jp/kazuto0328/20080111ちなみに、×智也→○智哉 ●ついでに大型俳句検索では次の句が。後退る桐のむらさき見ゆるまで 村上美枝
週刊俳句様。すいませんでした。私も原典にあたることは出来ませんでしたが、池田澄子氏の作品のようです。検索の際、まちがったようです。
『現代俳句』2008年12月号から、選考委員のひとり・桑原三郎さんの選考後の一文から引きます。引用はじめ━━━━━━━━━━━━━━━選考の結果、三木基史、岸本由香の受賞が決まったが、一番推したかった太田うさぎの作品が、俳諧味が強いとか、巧み過ぎるとの理由で落ちたのは残念であった。新人賞に限らず各賞の選考において、もう少し幅の広い俳句観を持ちたいものである。━━━━━━━━━━━━━━━引用終わり「俳諧味が強い」とのマイナス評価はよく目にします。「俳諧味」とは、俳句が備える利点(アドバンテージ)のひとつと思っているので、これを欠点に挙げられても、なに、それ? という感じですが、こうした捉え方をする人が言いたいこともわからないでもない。きっと、「叙情」のようなものが対置されているのでしょう。しかしながら、叙情も、俳諧味も、厳密にいえば、それ自体に価値があるわけではありません。叙情の質、俳諧味の質を問うべきでしょう。余談としていえば、実際のところの俳句世間では、質の良くない叙情にまみれた句のほうが、多く目につきます。 ●次の「落選理由」は「巧み過ぎる」です。これもたまに目にします。意味不明と受け取る人も多いでしょう。例えば、巧み過ぎない、ちょうどいいあんばいの巧みさ、とはいったいどんな?と、この言を口にする人に訊いても、きっとムダです。クリシェ(紋切型)を繰り返しているに過ぎません。けれども、言いたいことはなんとなくわかります。巧みさが、読後感の宜しさに結びつかない、とか、巧みさが俳句の豊かさに寄与していない、とか、そういうことでしょ? 句会とかで巧い句を読んで、そう思うことはありますもん。でも、「あをあをと」30句が、それにあたるかというと、ぜんぜんそう思わない。どこをどう見たのか、興味のわくところです。 ●ここからは一般論めき、また想像の分野ですが、「俳諧味」とか「巧み過ぎ」とかは、それをマイナス評価する人たちにとって、同根のようにも思います。いろいろな新人賞的なものを見ていると、「一生懸命やっているなあ」という作品が好感を集める傾向があるように思います。徒競走にたとえれば、「あをあをと」は、汗ひとつかかず、よそ見なんかもしながら、悠々と走っている感じ。それを「俳諧味が強い」とか「巧み過ぎ」とかとクリシェでしか表現できない選考委員も問題ですが、受賞は「一生懸命賞」と考えればいいわけです。けれども、俳句は、一生懸命じゃあ退屈、と、私なんかは思います。 ●あたりまえの話をしますが、受賞したから落選したから、なんて、読者にほとんど関係がない。自分にとって、どんな30句かが問題。賞に応募した知り合いに向かって「受賞おめでとう、すごい」とか「惜しかったね、残念」とか言いながら、作品は読んでなかったりすることって、ありません? それはなんだか、ヘン。この「ひとり落選展」で「あをあをと」が、『現代俳句』を取り寄せれば、受賞作2篇が読めるのですから、ぜひ読んでみることをおすすめします。これは今回に限らりません。どんな賞でも同じと思います。蛇足ながら「角川俳句賞」の落選展のページも、いつでも読めます。「あをあをと」、好きな作品です。なにもこの作者がつくらなくてもいいよな、と思う句はありますが(例えば一句目)、好きな句もたくさん。また、この作者の俳句を読むのが楽しみになりました。長いコメントで恐縮です。
当たり前のことを改めて文字にすると、当たり前のことが当たり前でなくなることがあります。 惜春や貝に盛らるる貝の肉 食べやすいように包丁を入れた貝の肉を貝殻に盛って食に供するのは、和食では当たり前。それをなぜわざわざ文字にするのか。 人は貝を当たり前に食べます。しかし、人が貝を食べるなら、何者かが人を食べる、ということがありそうです。 わかりやすい答え:死神は、人を食べているのでしょう。 とすれば、死神の包丁は、骨から剥いだ肉を、何に盛りつけるのでしょうか。 貝は貝殻、とすれば、人の肉は、頭蓋骨に盛られて食に供されるのでしょう。 そういうことを人はあまり考えずに、貝の肉を貝殻に盛りつけて食べています。 「惜春や」。「惜春」は七言絶句などの詩題の常連で、そこに新鮮な感興はもはやありえません。 人の肉を頭蓋骨に盛るようにして食に供せられる貝の肉も、その肉がうまいかどうかを別とすれば、その「惜春」と同様、当たり前化していますので、客の感興を改めて呼ぶものではありません。 人は動物の死肉を好んで食べます。そして、食後の身繕いとして、口紅をひき直したりします。 貝の肉を貝殻に盛ることも、口紅をひくことも、すでに当たり前化しているもので、すなわち文化です。 文化は、当たり前化のなかでは居心地のよいものですが、ひと皮むけば、そこに奇妙千万なる違和感が生まれてくるようです。 心血を菊人形に注ぎけり 暦売りこよみの前に立ちてをり 大いなる雛壇のあるロビーかな フラダンス笑顔涼しく後退る うさぎさんの眼が捉えたことが文字となるとき、わたしたちの文化のとても奇矯な構造が、凡眼にも見えるようになります。
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「週刊俳句」らしい面白い企画ですね。少し感想など書かせていただきます。
惜春や貝に盛らるる貝の肉
「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」
は惜別の情を託された一句だそうだけれど、この句は春、しかもふっくら豊かなテーブル上の食彩の一句。春との名残を惜しむ頃の情感溢れる句。ただ切り刻まれ、盛られ、原形を留めぬ様の貝肉を思い浮かべると、蓋と身の剥離の痛みなども、ちょっと思われたりします。
ゆふどきも風あをあをと初鰹
「目には青葉山ほととぎす初鰹」
草堂の句は、昼間の景。掲句は夕方の情景。初鰹ののもたらす印象は、やっぱり「青」なのでしょうか。季節の恵みの一つ「初鰹」。山も風も一日青みを帯びていて、生き生きと清新な季節のその味わい。「初鰹」と言えば、若干古色を帯びた季語のような感触を持っていたのですが、この句は「初鰹」の今を詠っているようで、新鮮ない印象でした。ちなみに、鰹は足のはやい魚だそうで。
フラダンス笑顔涼しく後退る
「こっちこっちと月と冥土が後退る」(鴇田智也)
「高齢を理由に蟇の後退る」(中原道夫)
「後退る」という一節を含む句を検索してみたけれど、あまりヒットしなかった(「後ずさる」も)。掲句の「後退る」はとても面白いと思ったのだが、検索句と比較すると、ずいぶん真っ当な句であると、改めて思ったものです。
出勤や夜濯ぎのもの畳まずに
いやいや、出勤前の慌ただしさの中で、ちゃんと取り込んでおくだけでも立派です、と思わず突っ込みをいれてしまった。そんな余計な一言を、この句などは入れてしまいそうだ。立句ではなく、平句としての面白みが、この句の魅力なのだろうか。日常生活と切れた地点に立つ句ではなく、日常生活の水平面上にちょこっと乗っかり、ちょっと突き出た一句。
「現代俳句」(月刊)は会員でなくても購入できるようです。450円(送料込み)
http://www.gendaihaiku.gr.jp/announce/kikanshi/index.htm
12月号に受賞作、選考概要が載っています。
連絡先は、この↓ページの下のほう。
http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/access.htm
匿名さんへ
例句として引用されている
「こっちこっちと月と冥土が後退る」の作者は
鴇田智哉さんではなく、池田澄子さんのようです。
原典にあたれていないのですが、
俳句界2008年1月号掲載「2007年銘句歳時記」。
http://d.hatena.ne.jp/kazuto0328/20080111
ちなみに、
×智也→○智哉
●
ついでに大型俳句検索では次の句が。
後退る桐のむらさき見ゆるまで 村上美枝
週刊俳句様。
すいませんでした。私も原典にあたることは出来ませんでしたが、池田澄子氏の作品のようです。検索の際、まちがったようです。
『現代俳句』2008年12月号から、選考委員のひとり・桑原三郎さんの選考後の一文から引きます。
引用はじめ━━━━━━━━━━━━━━━
選考の結果、三木基史、岸本由香の受賞が決まったが、一番推したかった太田うさぎの作品が、俳諧味が強いとか、巧み過ぎるとの理由で落ちたのは残念であった。新人賞に限らず各賞の選考において、もう少し幅の広い俳句観を持ちたいものである。
━━━━━━━━━━━━━━━引用終わり
「俳諧味が強い」とのマイナス評価はよく目にします。「俳諧味」とは、俳句が備える利点(アドバンテージ)のひとつと思っているので、これを欠点に挙げられても、なに、それ? という感じですが、こうした捉え方をする人が言いたいこともわからないでもない。きっと、「叙情」のようなものが対置されているのでしょう。
しかしながら、叙情も、俳諧味も、厳密にいえば、それ自体に価値があるわけではありません。叙情の質、俳諧味の質を問うべきでしょう。
余談としていえば、実際のところの俳句世間では、質の良くない叙情にまみれた句のほうが、多く目につきます。
●
次の「落選理由」は「巧み過ぎる」です。これもたまに目にします。意味不明と受け取る人も多いでしょう。例えば、巧み過ぎない、ちょうどいいあんばいの巧みさ、とはいったいどんな?と、この言を口にする人に訊いても、きっとムダです。クリシェ(紋切型)を繰り返しているに過ぎません。
けれども、言いたいことはなんとなくわかります。巧みさが、読後感の宜しさに結びつかない、とか、巧みさが俳句の豊かさに寄与していない、とか、そういうことでしょ? 句会とかで巧い句を読んで、そう思うことはありますもん。
でも、「あをあをと」30句が、それにあたるかというと、ぜんぜんそう思わない。どこをどう見たのか、興味のわくところです。
●
ここからは一般論めき、また想像の分野ですが、「俳諧味」とか「巧み過ぎ」とかは、それをマイナス評価する人たちにとって、同根のようにも思います。
いろいろな新人賞的なものを見ていると、「一生懸命やっているなあ」という作品が好感を集める傾向があるように思います。徒競走にたとえれば、「あをあをと」は、汗ひとつかかず、よそ見なんかもしながら、悠々と走っている感じ。それを「俳諧味が強い」とか「巧み過ぎ」とかとクリシェでしか表現できない選考委員も問題ですが、受賞は「一生懸命賞」と考えればいいわけです。
けれども、俳句は、一生懸命じゃあ退屈、と、私なんかは思います。
●
あたりまえの話をしますが、受賞したから落選したから、なんて、読者にほとんど関係がない。自分にとって、どんな30句かが問題。
賞に応募した知り合いに向かって「受賞おめでとう、すごい」とか「惜しかったね、残念」とか言いながら、作品は読んでなかったりすることって、ありません? それはなんだか、ヘン。
この「ひとり落選展」で「あをあをと」が、『現代俳句』を取り寄せれば、受賞作2篇が読めるのですから、ぜひ読んでみることをおすすめします。
これは今回に限らりません。どんな賞でも同じと思います。蛇足ながら「角川俳句賞」の落選展のページも、いつでも読めます。
「あをあをと」、好きな作品です。なにもこの作者がつくらなくてもいいよな、と思う句はありますが(例えば一句目)、好きな句もたくさん。また、この作者の俳句を読むのが楽しみになりました。
長いコメントで恐縮です。
当たり前のことを改めて文字にすると、当たり前のことが当たり前でなくなることがあります。
惜春や貝に盛らるる貝の肉
食べやすいように包丁を入れた貝の肉を貝殻に盛って食に供するのは、和食では当たり前。それをなぜわざわざ文字にするのか。
人は貝を当たり前に食べます。しかし、人が貝を食べるなら、何者かが人を食べる、ということがありそうです。
わかりやすい答え:死神は、人を食べているのでしょう。
とすれば、死神の包丁は、骨から剥いだ肉を、何に盛りつけるのでしょうか。
貝は貝殻、とすれば、人の肉は、頭蓋骨に盛られて食に供されるのでしょう。
そういうことを人はあまり考えずに、貝の肉を貝殻に盛りつけて食べています。
「惜春や」。「惜春」は七言絶句などの詩題の常連で、そこに新鮮な感興はもはやありえません。
人の肉を頭蓋骨に盛るようにして食に供せられる貝の肉も、その肉がうまいかどうかを別とすれば、
その「惜春」と同様、当たり前化していますので、客の感興を改めて呼ぶものではありません。
人は動物の死肉を好んで食べます。そして、食後の身繕いとして、口紅をひき直したりします。
貝の肉を貝殻に盛ることも、口紅をひくことも、すでに当たり前化しているもので、すなわち文化です。
文化は、当たり前化のなかでは居心地のよいものですが、ひと皮むけば、そこに奇妙千万なる違和感が生まれてくるようです。
心血を菊人形に注ぎけり
暦売りこよみの前に立ちてをり
大いなる雛壇のあるロビーかな
フラダンス笑顔涼しく後退る
うさぎさんの眼が捉えたことが文字となるとき、わたしたちの文化のとても奇矯な構造が、凡眼にも見えるようになります。
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