〔東人俳句を読む〕
〈加湿器〉の東人
上田信治
自分にとって、山口東人は〈加湿器を平和島まで運ぶ人〉一句をもって、記憶される。
今回の30句中の〈蒲団屋の命の果てのやうな柄〉は何度読んでも笑えるし、『週刊俳句』掲載の〈サボテンや仏の顔が玄関に〉〈芝を刈るボタンダウンの男かな〉なども自分の愛唱句なのだが、でもやっぱり〈加湿器〉の東人と思っている。〈青野〉の島津亮、〈抽斗〉の神生彩史みたいなもので、これは。
佐藤文香がときどき人の句を「実に、どうでもいい」と言ってほめるのだが、自分は、これ以上「どうでもいい」句を見たことがない。
「加湿器」の、ずぼっとしたたたずまい、そのジャマさ加減。「平和島」という地名の、奥行きのなさ、実際の土地の平べったさ。
と、この二語の選択はじゅうぶん面白いのだが、それはしかし、面白さのつまらなさに転落することも十分ありうる面白さである。
しかし、その両者の出会いに駄目を押す「運ぶ人」という言葉の「どうでもよさ」は、どうだろう。
この句に関わるすべての人にとって、加湿器も平和島も「どうでもいい」のだということが「運ぶ人」の一語によって疑問の余地なく確定し、この句は、もはや面白いかどうかすら分からない地平に達した。
それは〈水仙の花活け会に規約なし 虚子〉に並ぶ境地であると思う。
かつて島田牙城は〈来たことも見たこともなき宇都宮 筑紫磐井〉を指して「僕が今目指している高い峰だ」と書いた。
自分もいつか「平和島」を越える一行を書くことを、自分に課したい。
いや、書けるモンなら、書いてみって。
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3 comments:
〈加湿器を平和島まで運ぶ人〉
スゴイ句ですね。
この句の前では「俳句の未来」だとか「結社滅亡」といった議論も吹き飛んでしまいそうなくだらなさ。
俳句って本来こういうものなのかもしれないとさえ思いました。
ようこそ、3人目様♡
もしかしたら、さわれるんじゃないかしら。。さわって見たくなるような句である。
ふっと隣を見ると、そこに「存在=いる」ような句なんて、今まであったかしら。
しかも、妙に明るく静かで、どこか、現代美術家の作品を思い起こすのだが、、、
耳飾り外して笑ふお金持ち
カーテンのはさまつてゐる扉かな
蒲団屋の命の果てのやうな柄
散歩者が網戸のそばを通りけり
橋梁に嫌ひな虫が這つてゐる
季語が入っていないようなのに、季節の空気、温度、湿度を感じさせてくれます。
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