ロシアに2泊3日で行ってきました日記
3日目「箱庭の外で犬が鳴く」
山口優夢
●2月22日(日曜日)
乗務員毛皮のままで朝が来る
その日の朝、起きたときは、列車が終点ウラジオストク駅に到着する10分前だった。窓にはロシアの朝の風景が流れてゆく。何列も並んだ鉄路の向こうに人家がぼんやりと散在しているのが見える。しかし窓の外に気を取られている暇もない。荷物を手早くまとめる。
8時30分ウラジオストク着。ほぼ定刻どおりの運行だ。列車を降りるときもまたタラップを使う。朝の冷え込みの厳しさを予想していたのではあるが…あれ、実際に外に出てみると、思ったほど寒くはない。ハバロフスクよりかなり南に位置しているウラジオストクは、その分冷え込みもそこまで厳しくはないのだ。ハバロフスクがマイナス20度だったのに対して、ウラジオストクはマイナス10度もいかない。もちろん寒いことは寒いのだが、キーンと肌が痛くなるほどではなかった。
やや暗い駅舎に入り、特に改札口のようなものを通ることもなく、入ったときとは反対側の出口からウラジオストクの町に出る。ハバロフスクは道路も広く、建物も整然としていてヨーロッパの香りを漂わせていたが、それに比べるとウラジオストクはだいぶ雰囲気が違う。もちろん全体的な様子はヨーロッパに近いのだが、ごちゃごちゃした路地や建物の不統一さはどちらかと言うとアジアを想起させる。アジアとヨーロッパの中間地点、といった風情だ。
駅前でごみを拾っていた清掃婦らしきおばさんに声をかける。旅行会社からもらったウラジオストク市内の地図を開き、その地図上で印のついているホテルまでの道筋を聞く。我々は、この日、ウラジオストク空港から新潟へ帰ることになっていたので、ホテルには泊まらないのだが、一度めぼしいホテルに行って受付でタクシーを呼んでもらい、そのタクシーで空港に行く、という手はずを考えていたのだ。大きなホテルの受付であれば英語でも通じる、ということで、旅行会社から提示された案である。
そのおばさんに聞いた道を行こうとすると、妙なおじさん二人組が我々に声をかけてくる。一人は毛糸帽をかぶった小柄なおじさん。このおじさんがしきりに何事かロシア語で話しかけてくる。もう一人はあまり口を出さずにことの成り行きを見守っている、ガタイの良いおじさん。彼は我々にあまり絡んでこないが、小柄なおじさんのやることをじっと監視している目つきでいるところを見ると、むしろこちらの方がボスなのであろう。
小柄なおじさんが横合いから我々の地図を覗き見て、何か喚いている。身振り手振りから察するに、君たちが行こうとしている道ではホテルにたどり着くことが出来ない、そっちの道じゃなくてこっちの道だから、俺らが案内してやるよ、ついてこい、ということらしい。しかし、はいそうですかとこんなあやしいおじさん二人組について行っていいものやら。
とりあえずは3人で無視を決め込む。地図で見てホテルがあると思われる方向にとにかく歩いてゆくと、おじさん二人はしつこく後からついてきた。機を見て我々の前に回りこみ、ホテルに行くにはこっちだよ、と我々の行く方向を強引に変えようとする。度々そういうことがあって、その度に我々はストップを余儀なくさせられる。
広い道路の真中にある路線バスの停留所のようなところで何度目かのストップ。おじさん二人があまりにしつこい。しかし、我々が行こうとしている方向もなんだか人気がなく小暗い感じの路地だ。それよりは、彼等が示している道で少々遠回りをした方がひょっとしていいのではないか、と3人で話し合う。
ほとんど寝起きに近い頭に、よく分からないロシア語を浴びせられ、決断を迫られるという状況。3人とも苛立って意見も分かれている。このおじさんたちの示す方向に行って大丈夫なのか。自分たちの安全がかかっているのだから、安直に決めるわけにも行かない。張り詰めた緊張感が漂っている。しかし、そんなふうに言い争っている中、S井は一人、東の空に浮ぶ朝日を見ていたのだった。「綺麗だな、と思って朝日の写真を撮ろうと思ったんだけど、今カメラを鞄から出したら絶対あとで怒られるなと思った」というのが、後から聞いたS井の述懐。そういえば、S井は確かになんだかひどくぼんやりと空を見上げていたような気がする。おそろしくマイペース(でもカメラを取り出さないあたりはきちんと気を遣っている)。これが彼の強みでもある。
おじさんたちをどこまで信じていいのかは分からないが、少なくとも自分たちの行こうとしていた方向はどうもダメそうだったので、おじさんたちの示していた方向に行くことにする。しかし、彼等が「荷物持ってあげるよ」みたいな感じで我々の荷物に手をかけてきたときには、3人とも大いに拒否していた。そのまま持って行かれても困るし、持ってあげたのだから金を払え、と言われるのも嫌だったので。警戒心は全く解いていなかったということだ。
ごちゃごちゃした路地裏の石段を通ってゆく。石段の端には腰掛けたりしゃべったりしている人々。浮浪者であろうか。ますます警戒しながら歩く。小柄なおじさんが道端にいた別のおじさんとしゃべっていて、その様子は、まったく、こいつら頑固で困るよ、道を教えてやってるのにさ、と言った感じで笑っているように見えた。
石段を上がって左に折れると我々の目指していたホテルが現われる。とりあえず、変なところに連れて行かれるのでなくて良かった、とひと安心。S崎はさっさとホテルに入り、後に続こうとしたS井が小柄なおじさんに捕まる。どうやら、案内したのだから金を払えと言われているらしい。まあ、もちろんそういう展開になるだろうと思っていたが。S井は10ルーブル出したが、これでは安いと言われているようだ。僕も話に加わって、結局2人で60ルーブル出したら小柄なおじさんは満足したのか帰って行った。
その話をあとから聞いたS崎は「そういうお金の取られ方はいやだ」と苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、1ルーブルは3円程度なので、60ルーブルというのは日本円にすればせいぜい180円くらい。郷に入っては郷に従え。そういう稼ぎ方をする人がいる国に来たのだったら、それくらい払ってもいいのではないかと思った。実際、彼等のおかげで目指していたホテルにたどり着いたのだし(彼等がいなくてもたどり着いてはいただろうが)。
ホテルの受付でタクシーを呼んでもらい、バイキングで朝食を摂り、10時ごろにやってきたタクシーに乗り込み、一路空港へと向う。タクシーと言っても、やはりメーターも何もない、普通のやや汚れたバンだったが。
我々のウラジオストクでの滞在時間があまりに短く、なおかつその短い滞在時間の間に起こった印象的な出来事が、勝手に道案内をされてお金を払わされるという出来事だったため、あまり良い印象を抱けないまま、ウラジオストクを去ることになる。もうちょっといろいろ見ていたら、またウラジオストクの印象も違ったのかもしれない。
そういった予感は、たとえばバンの車窓に遠い海がちらりと見えたときなどに湧き上がってきた。海のはずなのにひどく白いのだ。どうやら凍っているらしい。一面凍りついた海、それは凍ったアムール川にも増して壮観であったろう。・・・しかし、我々には時間がない。
空港の小さな土産物屋で一通りお土産を買いそろえ、残ったルーブルを換金。ルーブルから直接日本円にはできないらしく、ロシアで米ドルに換え、それを日本国内でまた日本円に換える必要があるようだ。要するに、この時点で持っているお金は、もともと換金せずにおいた日本円と、ここで換金した米ドルがほとんど、という状況になっている。
その後、税関を通って空港の待合室にいるとき、S崎が売店でビールを買ってきた。こちらではバルチックビールをはじめとする地ビールのほか、日本のビールだとアサヒビールがよく流通しているらしく、このときもS崎が買ってきたのはアサヒだった。しきりに首を捻りながら売店から戻ってくる。
どうしたのか聞いてみると、「いや、これ、1200円したんだけど」普通の、500ミリリットルの缶ビールである。他で飲んだときには日本のビールだからと言って特別高く売っているというわけでもなかったのに、空港では缶ビールが1本1200円!しかもS崎はただ高かったことに首を捻っているわけではなかった。「200ルーブルって言われたんだよ」
200ルーブルが1200円になる、ということは、1ルーブル6円のレートである。上にも書いたとおり、普通は1ルーブル3円程度のところなのに。「そうだよな、おかしいよな」鼻息を荒げるS崎。1ルーブル3円のレートで考えれば200ルーブルは600円。それでも缶ビールとしては高い気がするが、1200円というのはちょっとあまりにもおかしい。
S崎が文句を言いに行くと1ルーブル6円のレートをまた示され、すげなく追い返されてしまう。それを、お店の中にいるロシア人達が声を挙げて笑って見ているのだ。それでも「いや、俺は負けないぞ」とお店のおばちゃんと対決しに行くS崎の後姿は、一昨日ナイトバーで「抱きしめたい」を歌っていた後姿に通じるものがあり、心中ひそかに応援はしていたが、結局、S崎はビールを返品し、飲むのを諦めることになった。ルーブルはもう換金してしまって持っていないだろうことを見越して、足元を見られたのだろう。商売上手というか何というか。何か文句でもあるのかい?とでも言いたげなふてぶてしいおばちゃんが、店の奥におさまっていた。
空港の待合室で俳句を考えようと句帳を出していたら、S井が覗き込んでくる。彼も俳句をやっているので、僕がこの旅行中にどんな句を作ったのか一通り興味があるようだった。「見せて」と言うので句帳を手渡すと、ぱらぱらめくって「ふーん」といった顔で返してくる。特に彼の気に入るような句はなかったようだ。そして、次のように言った。「結局、俳句っていうのはさ、日本っていう箱庭だけで通じる文藝だと思うんだよね。俺、ロシア来てから俳句作ろうと思わなかったし」
その発言について、論理的ではない、とか、一面的だ、とか、ここで批判しようとは思わない。何せ、彼の今回のロシア旅行の印象の一つとしてそのような言葉がちらと出てきたということなのである。大事なのは、彼が実際に海外に出てみたとき、俳句では海外における自分の経験を形象化できないということを実感した、ということなのだ。
そこから先は僕がひきとって、少し俳句について考えてみたいと思う。海外詠の難しさというのは、まず第一に季語が通用しない、という点にあるであろう。季語体系が、日本の風土気候および文化そのものに根強く結びついてしまっているからだ。海外に出たら豆まきはしないし、桃の節句にお雛様も飾らないであろう。ということは、それらの季語は使えない(あるいは、使いづらい)。動植物も日本のものとは違う。では、「春雨」のような天文の季語ならどうだろう。春に降る雨なら春雨だろう、ということで「春雨」という季語を使うにしても、日本で降る雨とアフリカで降る雨では、同じ春の雨でも勢いや風情などは全然違うであろう。「春雨」という言葉が使われていれば当然読者は日本で降る春雨を想起してしまい、アフリカの春雨をうまく読者の心に浮ばせることは難しくなってしまう。
そもそも春とは何月から何月か、ということすら気候によって異なるはずで、さらに言えば、ところによっては雨季と乾季しかなく、春夏秋冬がないところだってある。二月の日本は寒い日が多いとは言え、確実に春めいているが、二月のロシアは思いっきり冬の風情であった。「白夜」のような特殊な例を除いて、季語というものを使った途端、それは日本の中にある、ある場面を否応もなく想起させてしまい、海外の情景としてその句を理解させることは困難になってしまうのだ。
これはたとえば、筑紫磐井の言を借りればこのようなことになる。
我々が普通俳句に前書きを入れないのは俳句共同体に住んでいて前書きがなくても共感できるからである。たかだか17文字で誰でも状況が分かると思ってしまうのはきわめて日本的なムラ構造の意識があるからである。(中略)外国人に俳句を理解させるには是非とも前書きが必要であろう。これは「豈」42号中の記事「高山れおな句集『荒東雑詩』書評 俳句的(哲学的韜晦的)生活とは何か?」中で、「俳句は前書きがなければ成り立たない」と書いたあとにその説明として括弧の中に書かれた文章の抜粋である。外国は明らかに「俳句共同体」の外にあるものであろう。海外詠をきちんと行なうとすれば、その背景に膨大な説明が必要となる(厳密に言えば日本国内でも九州と北海道では気候・風土がだいぶ異なるわけだから、本来的には海外詠の場合と同様の問題が起こっているはずなのだが、逆に言えばそれは、「俳句共同体」幻想によって包み込めるぎりぎりのラインとも言えるのかもしれない)。
僕自身のこのロシア行での実感で言えば、「俳句共同体」と言ったとき、その一番核になる共通認識は気候風土によって培われる部分が大きいようだ。もしも本当に海外に腰を落ち着けて俳句を書くとすれば、その国その国の歳時記を作る気概で取り組まなければならないのではないか。即ち、S井の言葉を借りれば、箱庭をいろんな国や地域に作ってゆくのだ。・・・とてもそんな面倒なこと、自分には出来そうもないが。
腰を落ち着けず、一時的に海外に出てそこで俳句を詠む場合、それは旅吟として詠まれることになる。2泊3日でロシアに行くなどという無茶な計画で海外旅行を組む我々がそこで俳句を作るとなると、それは確実に旅吟ということになるであろう。しかし、そのように珍しい場所に行き、非日常的な環境である旅先で俳句を作ることには、次のような落とし穴もある。
誓子に限らず、蛇笏・楸邨等にも見られたことだが、大陸旅行でそれぞれ旺盛な作句欲を示しながら、伝わってくる感動が稀薄なのはどういうわけだろう。こういう旅中の触目においては、作家の目がいつしか観光客の目にすりかえられてしまうからではないだろうか。物珍しげに次々に現われる異国風景の表面を撫でて通り過ぎるだけで、生活者としての心の底から揺り動かされていないからであろう。(「定本 現代俳句」著・山本健吉)これは、山口誓子が満州・朝鮮旅中に作った句の一つ、「掌に枯野の低き日を愛づる」の鑑賞の際に山本健吉が附した苦言(この句そのものは「珍しく主情的な潤いの滲み出ているのがよい。」と評価しているが)である。では旅吟を多く残した芭蕉はどうなのかと言えば、「風景鑑賞者としてより生活者として旅をしている。」「旅は芭蕉にとり悲しい日本の庶民の生活に触れる最上の機会であった。」と擁護している辺りが健吉らしい。
僕自身は、健吉の言うことなら何でもその通りだと思う、というわけではないが、この指摘は、自分が旅行中に句を作るときには常に意識しておきたいと思っている。珍しい異国の風景を詠むだけならば、むしろ写真を撮った方がその風景は人に伝えられるだろうし、そもそも異国の風景というのはみな感動するものなのだから、それをみなと同じように俳句にトレースしても意味がない。S井が「ふーん」と僕の句帳の句にあまり感心しなかったのも、そういうことなのかもしれない。
それでも、僕は俳句を作る。それはなぜか、と問うことにあまり意味はない。俳句こそが、何か自分の知らなかった世界へ至るための一つの突破口だと思っていて、無根拠にそう思い込んでいるという点では、ほとんど信仰に近いものなのだ。そこで、新潟行きの飛行機に乗っている約二時間の間、僕はあることを句にしようと格闘していた。それは、ロシアというものに、生活者としてかどうはともかく、単なる風景鑑賞者としてではなく触れたと思えるほとんど唯一の、ある場面であった。
それはハバロフスクで凍りついたアムール川の上を歩いたときのこと。ひととおり雪原に足跡をつけて回ったあと、岸に上がって雪原を見下ろしていたら、凍った川の上でじゃれあっている3匹の子犬を見つけた。どれも首輪をつけていないところを見ると、野犬のようだ(狂犬病の可能性があるので、海外では野犬には絶対に触れてはならない)。2匹は茶色、1匹は白。茶色同士は殊に仲が良いらしく、じゃれつき回り、お互いが上になり、下になりして絡み合っていた。それはもう、性愛とすれすれにすら見えるほどの絡み方で、そのホットな様子を見ていると、1匹だけ少し離れてひとりぼっちにされた白い子犬がなんだか少し可哀そうに思えてくるのだった。
と、そこへ子犬らと同じくらいの体格のキツネに似た犬が近づいてきた。これも野良犬のようだ。あまり食べ物にありつけないのか、やせ細り、心なしかふらふら歩いているようにも見える。子犬らはじゃれあうのをやめ、3匹ともその闖入者に対して身構えている。
先に仕掛けたのは子犬らの方だった。きんと冷えた空気に、甲高い犬の吠え声が響いた。子犬らが数を恃みにしているのは明らかだった。キツネ、みたいな犬は、彼等の傍に近づくこともできずに子犬らを見つめている。
その騒ぎを聞きつけて出てきたのは、子犬らの両親と思しき犬二匹。子犬よりもドスの利いた声で吠え立てる。両親はどうやら川に水を注ぎ入れる排水溝に潜んでいたらしく、「キツネ」が遠のいてゆくとまたそこへ帰って行って、岸から見下ろしている我々からは見えなくなった。
それ以上はよせばいいのに、やはり動物の縄張り意識の表れなのか、子犬のうちの1匹、茶色いやつが、深追いして「キツネ」を追い立てる。追われた「キツネ」はこちらの岸へ上って来た。子犬は岸までは上がらず、「キツネ」の行方を見届けると悠々と他の2匹の子犬のいる巣へと帰って行った。
「キツネ」は我々の近くで川の方を振り返ると、何度か子犬らに向かって吠え立てた。返答は返ってこない。これは、負け犬の遠吠えだった。しばらくすると、「キツネ」は空しくきびすを返して、木立の中へ消えていった。
・・・ロシアで一番印象に残ったのは、帽子に釣られての誘拐未遂よりもむしろ、この、野犬たちによって演じられた他愛もない一幕であった。「キツネ」の後ろ姿に、ロシアの寒さが一層身にこたえた。飼い馴らされていない現実を垣間見た、と思った。
では、これをロシア行の一つの成果として俳句にすることができるのか。
氷原に飼い馴らされぬ犬と犬
雪原を追い立てられて森深し
縄張りの果ては夕焼ばかりなり
野犬とはみな箱庭の外で鳴く
・・・
句帳を閉じる。どうやら、僕にはうまく作れなさそうだ。僕は作句を放棄すると、代わりに、目を瞑って野犬たちを思い浮かべる。追われたキツネよりも、追い立てなければ生きていけない子犬たちを悲しく思った。それは、人間の勝手な感傷に過ぎないであろうが。
×××
日本に帰ってきてから、もう、3週間になる。ロシア旅行はもちろん楽しい思い出だ。「抱きしめたい」をS崎が歌ったという一件を、僕はもう何度いろんな人に面白おかしく語ったであろう。もう少し語る時間のあるときには「実は誘拐されかけてね」なんて少しだけおどけた様子で話を始める。最後には笑いに包まれて話は終わるのだった。
しかし、時々僕は不思議に思う。自分の今いるこの日本という土地から数100キロも離れた場所には、今も確実にハバロフスクという町が存在し、そのホテルの受付に例の綺麗なお姉さんが居る。道ですれ違った花嫁は今頃ハネムーンからもう帰ってきただろうか。道を教えてくれたお姉さんは今でも早足であの町を歩いているような気がする。帽子を買いに連れて行ってくれようとしたおじいさんや、ウラジオストクの小柄なおじさんは、今何をしているだろう。そして、あの野犬は、今でもあそこで生きているだろうか。そろそろアムール川の氷も溶け始めるだろう。そうしたら、彼等はどこで暮らすのだろう。
旅は、自分たちの物語であると同時に、すれ違う人々の物語である。僕にはあの町がかもし出していた非日常が、いつしか非現実にすり替わり、今でもその町が確実に存在するという事実がなんだか不思議に思えてしまうのだ。あれは2泊3日の幻想だったのではないか。しかし、それは違う。我々にとっての非日常が、誰かにとっての日常なのだ、という、その発見のみが、世界はまだまだ広いということを実感させてやまない。
もっと旅をしよう。もっと人に会おう。そうすれば、いつか、僕の俳句も語り始めるときが来るだろう。
( 了 )
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2 comments:
軽めの旅行記?として終わるのかと思ったら、後半の真摯な思いに心打たれました。
海外詠と日常詠って殊更分ける必要はないと思いますが。そこに切り取りたい一瞬があり、自分が存在するかどうかということのほうが重要だと思うので。(箱庭俳句の好きな人、ゴメンナサイ)
スンナリ句になるときとならないとき、ありますね。でも、ならないときのもやもやした状態が大事だし、卵を抱えているような時間もまた楽しい(苦しい)のだから困ったものですね。
楽しい旅行記、またぜひ寄稿されることを期待してます。ありがとうございました。
海外旅吟はたしかに難かしいですね。
どうしても珍しさに目が行つてしまひます。「季語の本意」にもちよつと引つ込んで貰はなくてはいけませんし・・・
梨の花郵便局で日が暮れる 有馬朗人
この境地に達したいと常々思つてゐます。
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